体調不良もあるが、生きる現実世界で無視出来ない事に直面していて、これをどう解釈するかで葛藤している。
見せ掛けの現実だからとか、
解決の答えは自身の内側にあるとか、
自己の弱さから逃げているからとか、
八方塞がりで神が私に求めている答えは、上昇する道を選択する事・・とか、
真我が求めている事に耳を傾けるべきとか、
今は、岩肌を剥き出して聳え立つ眼前の山の前で、うろうろさ迷っている。
波動が低い時、体調が悪い時、感情は正直でもあり、足枷であり、目先の惑わしでもある。
あの目標にたどり着きたいと思えば、今まで成してきた自分の努力を信じれば良いのだけれど、感情はそれさえ遠ざけてしまう。
こういう時、若い頃のカトリックで経験した学びが思いだされる。
これは、真似て欲しい情報ではなく、修道レベルでの話で、ただ今の私に必要な事。
《神がこうと示した事に、納得できなくともその答えは半年後、5年後、10年後にでるものかも知れない。ただ神に信頼し示された様に行いなさい。
足を斧で叩き割ってでも神の前に膝ま付きなさい。》
頭の中では、どうすべきかは理解している。感情が邪魔をして選択できない。
しかし選択しようと決めたので、嫌がる感情に押し流され無い様に公言してしまおうと思った。
意味不明な記録で申し訳ないが、私の選択が流れないよう杭打ちの記録。