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日々のスピリチュアル日記です。

艱難を生きる時代(追記あり)

日常に変化があって、体の休息とメンテナンスの為に日記を記録できなかった。
彼是、書きたい事はあったけれど体力が間に合わなかった。

そんな日常の中、昔の思い出が蘇ってきた。まだ都内で働き、カトリック教徒として学んでいた頃の事。

1日3時間は祈りの時間を取る・・・。
しかし、働いた上で日々の生活をこなしこの時間を作る事は、若かった頃は難しい事だった。

当然、通勤時間はロザリオの祈りに当てられた。
疲労が取れない朝に「無理、止めよう」とした日、通勤電車に乗り合わせた若いサラリーマンが手にロザリオを持ち祈る姿に出くわした。
カトリックの信者人口など国の1%に過ぎないのに。
「あぁ、この人も同じ。聖母が会わせてくれた。止めてはいけないと・・」

日々の生活に祈る事、ましてや向かう先の職場の為に祈る事は、仕事や人間関係を通して来る魔的なトラブルから身を守り、学ぶべき知るべき事に神の思惑と加護を頂く事になる。だから職場に祝福が与えられる様に祈る。

この効果は、長く続ける程に神の慈悲と愛と共に生きる事で魂の成長につながる。

また家事労働や子育てにしても同じ。
5分10分の祈りながらの仕事は、円滑に片付き、考えた以上の仕事量をこなしている事や感情の起伏を穏やかにし安定させてくれる。

過去に友人の赤ちゃんと留守番をしていた時も、子供を抱きながらロザリオを祈る事を合間合間にしていて、半日を赤ちゃんが機嫌良く過ごせた事もあった。

以前から繰り返しているが、信仰とは日常にある。組織での地位や役職の高さや宗教間の争いにあるのでは無い。
1日1日の生活の中で、神と共に暮らし、神の助けを借り、神の慈しみや愛を生活の中に招き、最終的に神の加護の元で魂の成長に至る事にある。

最高善である神とは公だけでは無く、その個人の魂の成長にとって最良の事をもたらして下さる。学びであれば、容赦ない出来事を通る事もあるが、後々私達の益となる道である事は確実。

ロザリオの祈りであれ、真言、祝詞、お経であれ神々に向かい助けを乞う日々の祈りを積み重ねる事で絆が出来る。そして、その助けられた事実を感じたなら素直に感謝する事。
その積み重ねが信仰になる。

口に出来ない祈りであるのなら、動画等で祝詞や真言、お経を流す事でも自分と場を浄化する事も出来る。

物事が上手く行かない時、イライラする時、疲れきっている時、動画を流すだけでも神々の元に心の避難所を頂く事が出来る。

私は今、大変な時代に突入してしまったと思っている。
日々の生活に苦慮している方々に、この神々の避難所がある事が伝わって欲しいと心から願っている。

陰謀論と言われてしまうが、
「ファティマの聖母預言」を受けて、カトリックの多くの人は艱難の世の到来を和らげて頂くよう何十年も祈り続けている。
3.11後数年して、教会のミサが終わり帰ろうとしていた私に聞こえたのは、
「終わりの始まり」だった。
これは、ファティマの預言を知っている方にしか理解してもらえないが、警告した事の近づきを意味している。
艱難の時が始まったとする警告。

カトリックで聖母の元に何十年と祈り続けてきたのは「預言」は「予言」では
無く「このままではそうなってしまう」の警告。
緩和し避けられる道があるから、知っている人は祈り続けている。

ロシアでのチェルノブイリ原発事故を「にがヨモギ」と表現した警告もありながら、警告通りになってしまったという悲しい思いも私にはある。

ただ、どんな艱難の時代であれ、波に翻弄されて一喜一憂するよりも、足元の地盤を神々様に繋ぎ、日々日常を良く良く生き抜く事が大切だと思う。

時間や金銭に余裕がある者が、限定された指導やカリスマに預り頼らなければ生き抜けない煽りがネット上に繰り広げられているが、肉体を持つ人間としての日常での葛藤や学びによる魂磨きを抜きにして語られる情報は本当に人を救えるのか疑問に思っている。
下↓お借りした資料。


諸説あるが、アセンションは↑この神界に繋がる事であろうと思っている。
今この神階以前の肉体を持つ人間としての学びその物を無視された話が横行している。

神界に繋がる事は、私を含め人にとり並大抵な事では無いと思う。
それが、娘を近親相姦をした過去のある人間を旗印に掲げ「自分達は目覚めて戦っている」と語ったり、リ―ダ―となっている者が人としての最低持つべき倫理観を個人的に無視したまま活動している姿にはため息が出る。

倫理観、良心を蔑ろにして霊界を抜ける事が出来るのだろうか。
不倫一つにしても、その行動で他者に与えた苦しみは相当な償いを必要とするはず。まして、穏やかを装い人を脅し攻撃する言動を伴ったまま、神界に繋がる事など不可能だと思う。

前にも書いたが、私は今も宇宙的な存在のコンタクトは信頼していない。
彼らの寿命は肉体を持つ人間とは遥かに違い、それ故にその言葉は肉体を持つ人間、寿命の無い人間に対し無責任であり、「落ちる」と言う言葉から情報精通者だけの上水すくいをしているに過ぎない。結局は自己責任で、やり直し復活には未着手に思える。
私は、一時聞こえた
「この人は、助からない人に拘ってる」の言葉にキレている。

人の学びに対する情は排除しても
「自分だけ良ければ・・」では霊性は下降する。
地球人は肉体を持つ者として「他者愛」を持ち、行動を吟味し学ばなければ霊格は上がらない。

人それぞれの判断だと思うが、私には今の宇宙意識を生きる多くの人々が霊界突破する者には見えない。
寧ろ、個人の霊性磨きを隠され、落とし穴となる道に牽引されているのではないかと不信感を抱いている。

今の私に言える事は、覚醒とは情報弱者に閉ざされている事では無く、神々様の元に避難所を頂き、霊性霊格を磨き続ける事が神界に繋がる安全な道筋であり、安易な先駆者追従や覚醒を唄う集団の矛盾を再考すべきと思う。

*追記
私は宇宙意識を否定し、地球内での事で済ませるべきと思っているのでは無い。

上にお借りした資料にあるように、宇宙創造に至る魂は、神界突破の上に成り立つ魂である事を強調したい。

過去のシステムや常識を壊す事を必要とする事は多々あるし、壊す事でしか構築出来ない時代でもあると認識している。

しかし、散見するエゴに乗っ取った古い時代の破壊は、かつての中国の文化大革命で熱狂した若者のそれと変わり無い集団意識の空気を感じるし、何よりも他者との関わりを無視した完全な利己主義を煽る要素が強すぎると感じている。

また、悪意や悪行を反省する必要のない心地良さや宇宙への膨大な知識は裏宇宙への繋がりを招くのでは無いかと嫌なイメージを抱いている。

神界を突抜し、本当に宇宙創造に関わる魂となる事が出来る事、肉体を持つ人間としての今生での魂磨きを仕上げる事・・・同時進行で無し得る魂はどれ程いるのだろう。
そうあれる事を、中心となる次世代に願っている。






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