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ー円谷家のお墓ー

2020年12月29日 | ウルトラ関連



 円谷家のお墓



 円谷プロダクションの初代社長で、”特撮の神様”と呼ばれた円谷英二

 国民的特撮作品「ウルトラマン」のメイン監督を務め、英二氏亡き後、社長の跡を継ぎ、第二次怪獣ブームの火付け役になった長男の円谷一氏。

 今年は”円谷英二没後50年”ということもあり、円谷家のお墓を紹介します——。



 カトリック府中墓地



 円谷英二、一氏は、JR中央線「国分寺駅」前から、バスと徒歩で20分ほどの所にあるカトリック府中墓地に眠っています。

 墓前に供える花は、近隣バス停から墓地への道すがらにある花屋で購入できます。






 円谷家の墓前



 墓地の入り口を直進すると右手の方に円谷家のお墓があり、墓前にはゴジラやウルトラマンなどの人形が供えられています。

 生前あれだけの功績を残した人物のお墓なのに、豪華絢爛とは程遠いこじんまりとした質素な佇まいで少し驚かされます。

 モニュメントは、英二氏の従兄弟である彫刻家の円谷良夫によって設計されたものだそうです。















 1970年1月25日午後10時15分、静養先の伊豆の別荘で狭心症心臓喘息の発作を起こし、68年と6カ月に及ぶ生涯を閉じた英二氏。

 棺に納められた英二氏は、翌日の月曜日には祖師ヶ谷大蔵の自宅へと戻り、1月29日に成城のカトリック教会でしめやかな葬儀が執り行われました。

 そして、2月2日に東宝撮影所第二スタジオで、映画やテレビ関係者による大々的な友人葬が挙行され、特撮の神様との別れを偲びました――。



 
 英二氏はカトリック信者だった妻の勧めで、1960年に成城カトリック教会で洗礼を受けてクリスチャンになりました。

 洗礼名はペトロで、「円谷家」と書かれた墓石の裏には、このように刻まれています。


  ペトロ 円谷英二
   一九七〇年一月二十五日 六十八才

  パウロ 円谷一
   一九七三年二月九日 四十一才



     



・カトリック府中墓地
 東京都府中市天神町4丁目13−1
 ※JR中央線「国分寺駅」前よりバス停「学園通り郵便局前」下車徒歩3分





 編集後記



 『ウルトラマン』は、生まれて初めて見たであろうヒーロー。

 そんな幼少期に夢中になっていた作品の制作に携わった方の墓前で、楽しませてもらったお礼を伝えると、何ともいえない感慨深い気持ちになります。


【憧れの飛行機乗り】

 カトリック府中墓地には、1910(明治43)年12月、英二氏9歳の時に代々木練兵場で日本初飛行を行った徳川好敏大尉も眠っています。

 関東大震災で幼い娘を亡くした徳川は、心の救済を求めて夫人に勧められるまま洗礼を授かり、敬虔なクリスチャンになっていたそうです。

 幼い頃に憧れていた飛行機乗りと同じ墓地に眠ることになるとは、英二氏は夢にも思っていなかったに違いありません。

 鈴木総司著「小説 円谷英二 天に向かって翔ばたけ・下巻」には、こう書かれています。

 ――飛行機に夢見て故郷を出るより50有余年、こと志しと違い円谷は一映画人としての生涯を終えたが、その人生の終着点において漸く当初の目標であった「徳川大尉」その人と巡り会った。


【円谷一の人となり】

 円谷英二氏に比べて、国民的作品のメイン監督を務め、ウルトラシリーズを牽引した一氏の人となりについてはあまり知られていません。

 「つぶちゃんはねぇ、ロマンチストだったね」

 一氏のことを回顧する時、こういう人が多いという。実相寺昭雄氏も「ロマンチストという形容に勝る言葉は無い」と語っています。

 さらに、自身の著書『ウルトラマン誕生』の中で一氏についてこう述べています。

 「一さんの作品を特徴づけるものは、そういったロマンチックな部分が、ある種のおおらかさに包まれて、しかも表現が職人的な確かさに支えられていた、ということだろう」

 ウルトラマンでフジ隊員役を務めた桜井浩子氏の著書『ウルトラマン創世記』には、このようなエピソードが紹介されています。

 冬の寒い中での夜間ロケの休憩の合間、近くに居酒屋を見つけた浩子氏は体の内側から温まろうと日本酒を注文。

 一口飲もうとした瞬間、ガラリと入り口が開く音がして振り向くとそこには監督の一氏の姿が。

 「マズイ!」と思った浩子氏をよそに、いたずらっ子のように笑って隣に座った一氏は、同じマス酒を頼んで一気に飲み干した。

 店を出る時、代金を払ってくれた一氏に会釈をした浩子氏に黙って右手を上げ、現場に戻った一氏は何事もなかったかのように撮影を再開させた。


 また、同著には、撮影が終わった後に浩子氏がミュージックバーに連れていってもらった時の一氏の様子も紹介されています。

 そこでの一氏は、実に生き生きと嬉しそうに浮かれ、現場での目じりの吊り上がった表情とはまったくの別人のようだった。

 主にハワイアンが好きだった一氏は、ウィスキーの水割りを3~4杯飲むと陽気になり、マラカスを持って大きな体でリズムをとりはじめる。

 そして、お店の女の人に合わせて、体に似合わぬ小さな声でハミングをする。しかし、どんなに酔っても、決して乱れることはなかった。


 監督としての一氏は懐の深い演出をする人で、照明部、撮影部、特撮班までも、全てのパートの隅々まで理解した上で演出してくれているという心遣いが伝わってきたそうです。

 仕事においても私生活においても、一氏は”全体を見る人”だったと浩子氏は語っています。

 円谷プロの社長に就任後、多額の負債を抱えて危機的な状況にあった同社の経営をわずか3年で建て直した末に体調を崩し、命を落とした一氏。

  円谷一を一生の友としていた中川晴之助氏が、寂しそうにこう語ったそうです。

 「あいつはしょせん経営的なところに座る男じゃなかったと思うんですよ。だから、現場にいたら、もっと長生きしていたんじゃないかと僕は思うんだけど……」


【周年記念にお墓参り】

 墓前の雑草が少し目立つことから、お墓参りをする人が少ないと思われます。

 来年の“円谷英二生誕120年”、“ウルトラマン55周年”というWアニバーサリーイヤーに、円谷英二、一氏のお墓参りをするのはいかがでしょうか。

 寂しがり屋だったという英二氏もきっと喜んでくれるでしょう――。




【出典】「円谷一」「ウルトラマン創世記」「ウルトラマン誕生
    「円谷一 ウルトラQと“テレビ映画”の時代
    「小説 円谷英二 天に向かって翔ばたけ・下巻


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