
高山の実家へ
尾崎豊がまだ1歳半だったころ。
母親が髄膜炎で長期入院することになったため、父親の健一さんが病院に泊まり込むことになり、尾崎は3カ月間、飛騨高山の実家に預けられました。
その時の様子を、父親の健一さんの著書「少年時代」から引用する形で紹介します――。
心を閉ざす尾崎
高山に連れてこられた当初、豊はなかなか心を開こうとはしなかった。
不意に父母や兄のもとから連れ去られ、自分にとってはどういう人かわからぬ人達と暮らすことに、ものすごい抵抗を感じていた。
心をなかなか開かぬ豊のために、高山のバーちゃんは一計を案じた。というより、たまたまの偶然がそうさせたといったほうがより近いかもしれない。
その日も、夏の日盛りをバーちゃんは豊を籐編みの乳母車に乗せて出かけていった。高山の町はずれの乗鞍岳方向に向かう丹生川街道に、長坂トンネルというトンネルがある。
昔は掘り抜きの道で、春先には風化した岩石が転かり落ちて危険なため、戦後トンネルに改造され、正式には櫟トンネルという。
しかし、父の幼時は長坂と言っていたので、長坂トンネルという呼称のほうが身近に感ずる(現在は再び掘り抜きになった)。
この日、バーちゃんは、自身も若い頃から見慣れた長坂を見たいと思った。その名のとおり、高山の郊外の小さな峠のような長坂である。
暑い日盛り、八十歳近いバーちゃんがこの峠の頂上まで、やんちゃ盛りの豊を乗せて乳母車を押し上げるのは、大変なことだったろう。
一歳半の豊は片言で喋れるようになっていた。
「ここはなぁ、ナガサカっていうんじゃぞ」
「・・・・・・ナガチャカ・・・・・・」と豊はオウム返しに答えた。
「豊のお父さんもお母さんも、バーちゃんも、死んだじーちゃんも、皆ここを歩いては高山へ出てきたもんじゃ。そういやあ、この辺にも、ずいぶん家が建ったなぁ」
もちろん、豊は言葉の意味は理解できなかったに違いない。
バーチャーン!
バーちゃんも豊も汗にまみれて峠の頂上に着く。
ここからは大八賀村(現在は高山市に合併)へひと下りであるが、バーちゃんのカではさらに遠くまでいくことはできない。散歩の限界地点だった。
坂の頂上には日光をさえぎるものがないので、ちょっと大八賀村側へ下ったトンネルの中で、バーちゃんは乳母車を止めた。
トンネルの中にはひんやりした風が心地よく吹き抜けていた。
「涼しいなぁ。こりゃあ、ええ風やわい。休んでいかまいか。トンネルはなぁ、おもしろいぞ。声を出すと山彦が戻ってくるぞ。ええか」
バーちゃんは一呼吸おいて、誰もいないことを確かめてから思いっきり大声で、「バーチャーン!」と叫んだ。
「・・・・・・バーチャーン!・・・・・・」と山彦が返ってきた。
二度、三度バーちゃんがその動作をくりかえしたとき、突然、豊が大声で「バーチャーン!」と叫んだ。
幼い声の山彦がすぐ返ってきた。
豊はおもしろがって何度も「バーチャーン!」をくりかえした。
この日を境に、豊はまず、バーチャンと呼ぶようになった。そして兄嫁にも甥姪たちにもぐんと心を開くようになったという。
【記事引用】 「尾崎豊 少年時代/尾崎健一・著」
【画像引用】 「尾崎豊 MEMORIAL PHOTO BOOK」