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統制の下の暮らし

2006年08月15日 | 戦中/戦後史



 統制の下の暮らし



 東京・九段下にある昭和館の常設展示室においてあった無料の資料を元にして、戦時中の国民の様子を紹介します――。



 国家による統制進む



 戦争への動員体制が本格的になるのは日中戦争下で、1938年5月5日に施行された国民精神総動員運動が開始されてから。

 愛国心を高揚させ、戦争中心の生活に切り替える意識改革を求める精神運動が進められ、教育・行事・体育・娯楽など、あらゆる面で思想・言論統制が行われた。


            


 1939年9月1日より、毎月1日を戦場の労苦を偲び、自粛自省するための興亜奉公日と決定した。

 この日は、大人は一汁一菜、禁酒、禁煙、子供は早朝の神社参拝、勤労奉仕、料理店・喫茶店などの休業、酒の販売禁止、ネオンの消灯などが実施された。

 このようにして、次第に国家の統制は国民生活の隅々にまで及ぶようになった。



 代用品



 戦争の長期化に伴い、軍需物資としての金属や皮革・燃料などの資材を確保するため、政府は1938年頃からこれらの資材を使用した民生品の生産を制限するようになった。


               


 この不足を補うために作られたのが、竹製のランドセルやヘルメット、陶製のアイロン、ガスコンロ、真綿の衣服、ガソリンの代わりとして木炭を燃料としたエンジンなどであった。



 戦中の子どもの遊び



 子どもたちの遊びも戦争の影響を受けて、男子の間では「兵隊ごっこ」、女子には「看護婦ごっこ」などが人気があった。

 戦争中は、あらゆる物資が統制の対象となっていた。

 そのため、子どもたちの遊び道具も贅沢なものや、軍事物資となる金属やゴムなどを材料としたものは真っ先に姿を消していった。



 労働力としての子ども



 出征した男性に代わる労働力として期待されたのが、女性と子どもたちであった。

 1943年6月に学徒戦時動員確立要綱が閣議決定されて以降、学生生徒は、食糧増産・緊急物資増産・輸送力増強・国防施設の事業に、勤労動員として従事することとなった。


              


 この後、学童も「勤労奉仕」の名の下に、食糧増産等の農作業に従事するようになった。

 さらに、1945年3月の決戦教育措置要綱では、国民学校初等科を除く全ての学校が1年間授業を停止し、生徒たちを軍需工場などに動員することが決定された。



 学童疎開



 1944年6月、B29による空襲が激しくなる中で空襲から若い命を守り、次代の戦力を育てることと、防空の足手まといをなくして防空体制を強化するための学童疎開推進要綱が決定。


          


 東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋など13都市が指定され、学校ごとに近郊農村への移動が始まった。

 1945年4月には、京都、舞鶴、広島、呉の4都市が追加指定され、全国で40万人を超える児童が疎開したといわれる。


          


 疎開児童は、疎開先の学校や寺院、寮などを分教場として学んだが、粗末な食事や慣れない農作業などで辛い日々を送った子どもが多かった。




【記事引用】「昭和館
【画像引用】「青森県学徒勤労動員抄史」「江南町フォトギャラリー」「昭和館

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