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「ひらがな」再考

2007年01月06日 | 歴史関連



 ひらがなの起源



 ひらがなが公式の日本語として使われるようになったのが、藤原時平という人物の政治的な決断によるものであることは、あまり知られていない。

 「その時歴史が動いた」を観てちょっと感動したので、記事にしてみました。



 プライベートな文字



 平安時代の中期、東アジア外交における共通語は中国語であり、各国の外交官には、漢文漢詩の素養が求められた。

 漢文は男子のもの、ひらがなは女子のものとされ、ひらがなは貴族が娘達を有力な貴族へと嫁がせるための女性の教養の一つに過ぎなかった。


               


 ひらがなで詠む和歌は恋愛の手段であり、ひらがなはあくまでもプライベートな文字と考えられていたため、ひらがなが公式の場で用いられることはなかった。



 律令制度の崩壊



 その頃、中国を模範とした律令制度は崩壊の危機に直面しており、税収の減少と国防費の増大によって国家財政は破綻寸前となり、抜本的な政治改革が求められていた。


                


 この時、朝廷で政治の実権を担ったのが、中国文化や漢文・漢詩に精通した菅原道真と、藤原氏の御曹司で和歌の名手の藤原時平だった。

 二人は当時の天皇に、「道真は大学者で、深く政治の道を知っている。時平は先頃、女性関係で失敗があったが、功臣の子孫で若いながらも政治に熟達している。」と評されている。



 袂を分かったライバル



 地道な努力により出世の階段を上ってきた道真にとって、ひらがなによる和歌と色恋にうつつを抜かす御曹司の時平とは、反りが合わなかった。

 しかし、律令制度の限界を感じ、改革が必要だという思いは共通していた。


              


 道真は、戦乱が長引き衰退しつつあった唐に解決策を求めることを諦めて、300年続いてきた遣唐使を廃止し、機能しなくなってきた律令制度の改革を始めた。

 改革を推し進める道真だったが、「伝統を無視して勝手なことをしている!」と怒った貴族達が、出仕を拒否してしまう。

 そして、政治の崩壊を恐れた時平によって大宰府に追放されてしまう。



ひらがなによる和歌集



 道真の後を継いだ時平は、改革を進めるには律令制度の導入以来、中国の思想や制度を絶対視し、中国文化に固執する朝廷官僚の意識変革が必要だと考えた。

 思索の末、時平は、"新時代の到来を告げ、日本にも中国に劣らない文化があることを示す象徴"として、「ひらがなによる和歌集」を編纂することを決意する。


              


 天皇の勅命を得た時平は、漢詩よりも和歌が得意なため朝廷内で不遇を託ってきた下級官僚の紀貫之ら4人の撰者を集め、ひらがな和歌集の編纂を命じた。

 編纂は3年がかりで行われ、貴族たちの家に残る古い歌集の万葉仮名をひらがなで写本した歌や、撰者自身が詠った歌など13部類1100首が収められた。



 その時歴史が動いた



 そして905年4月18日、宮中において醍醐天皇に勅撰和歌集『古今和歌集』の完成が奏上され、序文で高らかにこう宣言した。


              


 「和歌は漢文の言葉を借りるのではなく、日本古来の言葉の音(おん)によるからこそ、心情を素直に表すことができる。だから、ひらがなは多くの効用がある」と。



 文化的独立宣言



 「中国からの文化的な独立宣言」の意味合いを持つ古今和歌集の編纂により、官僚の中国文化を絶対視する意識も徐々に変わっていった。

 そして、律令制度からの脱皮に成功した時平は財政再建に成功。


                  


 歴史の表舞台に出た"ひらがな"は、やがて世界初の長編小説「源氏物語」や、随筆「枕草子」などのひらがな文学に結実する。

 日本独自の文化は言葉だけではなく、寝殿造りという建築様式にも表れる。さらに、衣服も十二単(ひとえ)に代表される日本風の着物も考案された。


              


 「古今和歌集」によって、ひらがなが公に認められたことをきっかけにして、「国風文化」と呼ばれる日本独自の文化が花開いたのである。



 二人のその後



 59歳で失意の内にこの世を去った道真は死後、学問の神様として、太宰府天満宮において人々の厚い信仰を集めるようになった。

 一方の時平は、勧善懲悪を好み、判官贔屓の激しい江戸の町人文化によって、私利私欲のために道真を失脚させた悪人として伝えられることになってしまった。


                  


 しかし、時平の本当の姿は、道真亡き後、一切昇進を求めず最後まで左大臣で通すなど、義を重んじる新進気鋭の革命政治家であった。

 道真と時平が世を去って300年後の鎌倉時代。この頃になると、漢字・ひらがなが1つの文章に一緒に使われる和漢混淆(こんこう)文が確立した。

 漢字とひらがな。その二つが交じり合うことで、日本語は一層豊かな表現力を獲得した。


              


 漢字の菅原道真、ひらがなの藤原時平。生前、袂を分かった二人のライバルは、「日本語」という言葉の中で、永遠に手を携えることになったのである――。




 編集後記



 普段何気なく使っていたひらがなに秘められた深い歴史を知って、驚いたと同時に感動。

 パソコンの普及により、ひらがなや漢字を書くことがほとんどなくなり、日本語に対する思い入れが無くなりつつある現代。

 「ひらがなの歴史」について再考することは、日本人としての帰属意識を問い直すきっかけになるのではないかと思う今日この頃。



【記事引用】「その時歴史が動いた/ひらがな革命~国風文化を生んだ古今和歌集~
       「最近、見たこと、読んだこと」 「Cafe Japanesque」「JAZZ CLUB」「不二草子
       「たまゆらデザイン日記
【画像引用】「源氏物語屏風」「草紙洗」「不二草子」 「観光三重」「古今和歌集
       「八千集の世界」「下鴨神社初詣

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