
釧路と新潟との歴史的な縁
釧路と新潟は、歴史的にかなり縁が深いようです。
新潟から釧路に定住して功績を挙げた人達がたくさんいますし、沖合漁業を開発したのも新潟の漁師だったそうです。その一例を紹介します――。
釧路で功績を挙げた新潟県人
下記に、新潟から釧路に移住して、後世に残る功績を挙げた方々の一例を紹介します。
【米屋孫右衛門】
民間人として始めて釧路を開発し、“釧路の町の開祖”と呼ばれ、「米町」の名前の由来にもなった四代目・米屋孫右衛門の先祖(二代目)
【石黒信市郎】
「石黒ホーマ」の前身の石黒金物店を創業した石黒信市郎氏
【田中藤造】
石川啄木が歌留多に興じた本行寺などを建て、釧路で「大工の神様」と呼ばれた田中藤造氏
【両角栄治】
丸三鶴屋の前身「丸三 越後屋呉服店」を開店した両角栄治氏
【小林東】
全国の音楽通の間で「伝説のジャズ喫茶」と呼ばれ、国内外の第一線のアーティストたちも足を運んだジャズ喫茶「ジス・イズ」のマスター・小林東氏
【伊藤徳治】
竹老園の三代目で、昭和天皇に蘭切り蕎麦を作り、お代わりも頂いた伊藤徳治氏 (竹老園を建てた棟梁も新潟出身)
釧路の沖合い漁業を開発
新潟から釧路への入植が始まったのは、明治20~30年頃。不漁によって生活が困窮した漁業者が、釧路の活況を伝え聞いて移住したのが始まりだそうです。
また、漁業者とともに、多くの船大工も越後から釧路にやってきたとのこと。
明治30 (1897) 年代からは、“間背衆”と呼ばれる越後漁民の出稼ぎ漁が盛んになり、釧路への定住者も現れたそうです。
なお、「釧路漁業百年史」には下記のような一文が載っています。
「そもそも、釧路の沖合い漁業を開発したのは新潟人であった。
越後の次第浜衆が、十九世紀末に函館から噴火湾、日高と北海道沿岸を北上して、ついにたどり着いたのが釧路だった。
沖合いに伸びた釧路川の澪筋が深い海溝にぶつかるあたりに、彼らはタラやカレイのすばらしい漁場を見つけた。
最初は小さな漁船で手繰り網で魚を取って資金をつくり、それで越後の改造川崎船を買って、沖合い20キロほどの漁場に進出した。
北に向かった越後人は釧路に定着し、今日の釧路を築き上げた」
神社・仏閣建築の祖
また、明治40 (1907) 年当時、町の基盤づくりが着々と進む中で、釧路での神社、仏閣建築を一手に引き受けていたのが新潟県出身の宮大工でした。
釧路に出稼ぎに来て今日の釧路の発展の礎になった彼らが、次第に定住するようになったのです。
編集後記
今まで、釧路開拓の功労者は鳥取県人だけだと思っていました。
しかし今回、「釧路新潟県人会」の資料を読んで、開拓後の釧路の発展の礎を築いたのは新潟県人だったという事実を知り、驚いています。
言うなれば、釧路人には鳥取県人と新潟県人の血が流れているといえるでしょう――。
【出典】「越後魂 釧路新潟県人会 創立八十年史」
「新潟市観光フォトライブラリー」「釧路の蕎麦文化」「釧路市立博物館」