毒親育ち☆もみくちゃん🥳

人生もみくちゃん🥳を知ってもらう為のブログ✍

私と母とセーラームーン

2021-07-02 21:31:18 | 母との記憶
 どうにも思い出してからもやもやと鬱々の気持ちが晴れず、どうにも変な感じのままで解消できないので、吐き出していこうと思う。

 新版のセーラームーンの劇場版が一月八日に公開する。旧アニメ版が好きすぎて新アニメ版(Crystal、だっけ)は全く触れてこなかった私だけど、新作劇場版の公開日が何と自分の誕生日なので、ちょっと運命めいたものを感じたりして、観てみたいなぁ、なんて思わなくもない、のだけど、私にとって『セーラームーンの映画』というのは、かなりのトラウマ要素でもあってやっぱり映画館に行くのは止そうかな、という結論になると思う。
 私が初めて映画館で観た映画、というのが「かぐや姫の恋人」というもの。母と二人だけ、憧れの映画館。大好きなセーラームーン。私にとっては最高に幸せな時間だった、のに。
 冬の日だった、と記憶していた。(今気になって調べたら公開は1994年12月だった。驚いている。)ボロボロと号泣した私と、うっすらと泣いていた母。何でそんな泣いてんのよ、と笑う母に私は、ママも泣いてるよ、みたいなことを言って、二人で笑い合う。何処からどう見ても、幸福そうな映画後の親子の姿。けれど、ここで母の言葉が私を射抜いた。

「はぁー、あんたが女の子でよかったわぁ。あんたと(弟)が逆やったら、流石に三歳連れて映画に来るのは無理やったし、でも大人なのに一人で子供の映画なんて恥ずかしくて行けんかったし、ほんと、よかったわぁ。あんたが女の子で。あんたが観たがって連れてきましたーって誤魔化せるやん? いやぁー、ほんとに、ちょうどよかったわぁ」

 五歳の私は、本当に何を言われたのか判断に困って、それでも、初めて「弟よりも私がいい」って言ってもらえた喜びと、「私の為に連れてきてくれたのではないんだ」というのを知ってしまったショックと、「何かが『ちょうどよかった』だけで、普段は何も『ちょうど良くない』んだな」と悟ってしまったのと、……あの時の世界の暗転はもっとえぐい感情だったのだけど……、そう、多分、
「私はあくまでも『男の子』で『三歳』の『弟』では無理なことを叶える為の手段、理由にされただけで、母は私の喜びを目的とはしていなくて、それどころか、自身の為のカモフラージュであって、私は単なるおまけ、使い勝手の良い、ちょうど手元にあった駒に過ぎす、決して母の視界に私は映っていないのだ」
という旨の内容を瞬時に理解してしまったんだと思う。五歳で。

 その帰り道、車窓の外の街頭やネオンに、一人でシクシクと声を殺して泣いたことも、今思い出している。それを察した母に「何で泣いているのか」を訊かれても、上手く話せず、「映画のこと思い出して」とだけ答えて、母は本当に機嫌よく運転してくれて。
 それを思い出している今、とてつもない無力感と、絶望感に襲われている。とても、苦しい。

 26年も前のことなのに、何でこんなにありありと思い出せるのか。
 あの時の母は本当に上機嫌で、私に映画館の思い出の品も買ってくれたんだったと思う。付き合ってくれたお礼だ、とか言って。でも私はなかなか選べなくて、結局イラつかせてしまって、母の選んだ、小物入れになっている白雪姫のオルゴールを買ってもらったんだったっけ。要らない、とも言えず、でも、白雪姫なんてそんなに好きじゃなかったのに、与えられたそれ。余談だけど、成長するにつれて、ちょっとずつ気に入った思い出の品に変わっていったけれど、そう思える頃には「そんなものいつまで使ってるつもり?」と廃棄の危機にあったりもして、そういう小さな積み重ねは確実に私を飼い殺しにしたんだろう、と今なら思えるし理解もできる、けど、それでも未だ私は「そこ」から出られない。情けないな。

 二歳半年下の弟。母の溺愛が普通だった弟。乳児から幼児の時期は本当に顕著で、特に生まれてすぐの頃のビデオを見返した記憶を辿ると、母の撮影する範囲にどうにか入りたい私と、赤ちゃんの弟と、私ではなく弟を写したい母との、「あたちもとって!」という舌足らずな私の声と必死に写ろうとする姿、それを遮り苛立つ母の「今は(弟)くん撮ってるからどいて!」「邪魔!」などの声が入っていたのを思い出す。私は恐らく、弟が生まれてからずっと、自分はあまり母に好かれていないというのを感じ取っていて、それでも「母に愛されるイイコ」を目指して、幼児なりに頑張っていたけれど、それは無駄な努力に終わり続け、それでも努力しなくてはならない毎日を過ごして、それがやっと報われたかもしれないと思った(映画に二人きりで行くという非日常)、その矢先に突き付けられた悪意のない本音に、絶望したのではないだろうか。
 どうせ頑張っても、私には何もできないし、ママを喜ばせることはできないんだ、という確信めいた絶望。明日からどうしたらいいんだろう、と思案し困惑する五歳、というのを思い描いた時、真っ先に思ったのは「哀れだな」という感想だった。少しでも「大事」な「娘」だと言われたくて頑張っても、すぐに忘れてしまう脳味噌。言われたことを覚えていられず、つい行動してしまう多動性と衝動性。愛想を尽かされても当然だったとは思う、けれど、でも、でも、
 ……私は今、四人の母として、この子の何かがおかしい、と思ったことについて対処する為に奮闘している。それは私のためではなく、その子自身に確認を取った上で、困ってることを減らしたいという本人の意思に基づいて私のできる最大限の努力と助力をしているだけだ。彼等に少しでも美しい世界に触れていて欲しいからだ。そう思った時、母は、私に対して、そうは思ってくれなかったのだと、そう思ってもらえるだけの価値を見出してもらえなかったのだと、そう思ってもらえるくらいの努力ができなかった私が悪いのかもしれないと、そう、自責するしか、ない。

 22歳で私を産んだ母。私が五歳だったあの日、母もまだ30歳になっていない。私は今31歳だけど、アニメはまだまだ大好きだ。母はきっと、今の私を観ても、『まだアニメなんて観ているの? 子供じゃないのに?』と嫌悪するんだろう。でも、あの当時の母に「大人だって好きなアニメがあってもいいんだよ」と言ってくれる人がもしもいたら、と思う。そしたら、母だって救われたかもしれないのに。
 ああ、そうか、そうなんだ。嫌いになりたいはずの母、私はあの人を、救いたいんだ。

 もし未来の私が今よりも余裕のある幸福な生活を手に入れることができるのだとしたら、まだ余裕があるなら、是非そこに、母も加わって欲しい。父も、弟も、妹も、みんな、幸福になって欲しい。きっとそうなんだ。
 今の私は自分の子供達を幸せにすることで精一杯だけど。あの人達と『本当の家族』になれる未来を、捨て切れないのかもしれない。過去の、子供の私も沢山傷ついたけれど、本当に傷だらけで、報われてこなかった母が、救われて欲しいのかもしれない。

 好きじゃないです、ママ。
 でも、嫌いになれないのです、ママ。

 あなたが私の「お母さん」である限り。私にあなたの血が、あなたの遺伝子が半分、存在している限り。そして何よりも、あなた自身の言動に傷ついた過去を、流せない、限り。
 私は、申し訳ないけれど、それでも、あなたの、「娘」だから。

(Amebaより転載)

飲み物すらも選べなかった。

2021-05-30 13:03:16 | 母との記憶
 今回も過去に書いたエッセイもどきを転載しました。飲み物選ぶのも、難しい私は、本当に、多分、虐待サバイバーなんだろうな。なんて思います。




 私は珈琲よりも紅茶を好む。それはただ単に舌がお子ちゃまであるということやコーヒーメーカーを使う元気(家では安いコーヒーメーカーで飲んでいる)がないからでもあるけれど、少し思い出したことがあるので書いてみる。

 私の母は珈琲好きで、毎朝必ず六時までには起きて、コーヒーメーカーをセットするか、電気ポットを再沸騰させてあっつあつの珈琲を作り、砂糖は入れず牛乳と、夏には氷を入れて飲んでいた。起きる時間が同じになった中高校生の頃には、母の代わりに母のやり方で作っておくことを頼まれたり、自ら進んで作ってみたり、多めにお湯を沸かして一緒に飲むこともあった。母は缶やペットボトルの珈琲は好まなかったが、時々手間などを省くために市販品を購入して飲んでみては、不味いと文句を言うので、やはりコーヒーメーカーと電気ポットが活躍するのだった。当時、私はあの珈琲に砂糖を入れていたが、今はなくとも飲める。寧ろ市販の微糖より美味しいと感じる。それってつまり、私の中のお袋の味の一つなのかもしれない。
 が。私はその状況を好ましくは思っていない。

 母は製菓にも励む人だったので、その時のお菓子の内容によって紅茶を出してくることもあったし、冬にはホットレモネードも出てきたし、ココアも常備されていた。飲み物にこだわりがあったのかもしれない。私がドジだから零されるのを懸念したのかもしれない。母は必ず自分の手でありとあらゆる飲み物を用意してくれた。そうしながら私に言うのだ。
「本当にあんたは何も出来ないのね」

 缶コーヒーを買って飲んで、母の「不味い」が過ぎり、そんな母が不味いと言ったものを飲んでいる自分が間違っているように思う。
 ペットボトルで手間を省こうとしても「何も出来ないのね」の言葉で思考と息が止まりかける。
 ならば、と安物だろうが折角買ったコーヒーメーカーなのに、母の作り方以外で飲むこともできず、かといって模倣するばかりの自分が未だに母を追い求めているようでとても気持ちが悪くて情けない生き物に思えて泣けてくるので、最近は邪魔なインテリアにもなれずにいて、とても哀れだ。

 眠れない夜のホットミルク、特別甘いココア、冬のご飯のお供の緑茶、風邪を引いた時のホットレモネード、しっかり蒸らされ丁寧に注がれる紅茶。そういう全てに母が思い起こされて、私は未だに避けて暮らしている。せめて優しい記憶ならばよかった。そうすればいずれ平気になれたかもしれない。でも、違う。

 眠れない夜、あんたのせいで寝不足になると文句を言われながら用意されたホットミルク。牛乳嫌いの私は砂糖を入れなくては飲めなくて、勿体ないと叱られる日もあったし、牛乳に砂糖入れるなんて意味が分からないと嘲笑される日もあった。
 テレビか何かで知った美味しい作り方を実践したいからとうきうきした様子で手際よく用意されるココア、飲んでもそれまでとの差が分からなかった私は母の機嫌を損ねたくない一心で美味しいを繰り返し、そして母は満足そうに「あんたには無理だから」と笑った。
 緑茶を淹れるのは私にはとても難しく、いつもお茶っ葉の入れる量を間違えて酷く濃いものを作ってしまったり、筒の蓋を空ける時点で苦戦して、しまいにはひっくり返して撒き散らしたりするものだから、結局母が怒り狂いながら一人で用意したり片付けたりするのを謝りながら見ていることしかできなかった。
 風邪を引けば文句を言われ、仮病に違いないと叱られる。熱を測り高温ならなぜもっと早く言わないんだと怒鳴られ、一人で病院へ行かされる。その空気の中、用意されたホットレモネード。体調不良など早く治せと急かされる。早く治すにはホットレモネードだ、と。猫舌だった私は熱々のそれをなかなか飲むことができず、大袈裟だと嘲笑される。
 紅茶も似たようなものだった。そして高くていい茶葉の違いや価値が分からないあんたには勿体ない、と馬鹿にされる。
 ああ、全てが、煩わしい。

 そんな訳で、たかだか飲み物を選ぼうとする度に、これだけの記憶が脳内を一瞬で駆け回り、結局、新商品=当時の母が知らないもの、つまり私の中の母の記憶の中に出てこないものを選びがちだ。知らないものについては文句を言うこともできない。でも文句を言ってくるのは飽くまで「私の記憶の中の母」なのだ。全ては妄想、幻聴に近いもの。それでもとても痛くて苦しくて、避けられない幻。
 嘘だ、とも思う。きっと私が記憶違いをしているだけだとも、思う。母が自らの優しさや私への愛情から飲み物を与えてくれたことだってあったはずだし、私がとんでもない出来損ないだから、見るに見兼ねて手を差し伸べてくれただけなのだ、などと、思う。思い込もうとする。思い込めたら、いいのに。

 冒頭に戻るが、私はアイスティーが好きだ。カフェなどではほとんどアイスレモンティーを頼む。母はほとんど冷たい紅茶を飲まなかった。飲まなかったから批判的意見もあまり耳にしたことがない。それだけで、とても安心して口にすることができる。つまらない選択。最初はきっとそうだった。けれども今は、少なからずアイスティーを「美味しい」と思いながら飲んでいる。それはきっと、悪くないこと。後退することもあるかもしれないけれど、1mmでも前には進んでいる。限られた選択肢しかなくとも、幸福になろうと思えば無理ではない。私はそう信じたい。

(noteより転載)

5月1日がきらいです。

2021-05-29 08:47:34 | 母との記憶
 あまりにも新しい記事を書くのに手間取ってしまっているので、以前別の場所で違う名前で書いた、母との記憶を辿ったエッセイを転載します。
 普段と全く書き方が違いますが、読んでいただけたら幸いです🙇‍♀️💦



 5月1日。
 あなたにとっては何の日だろうか。

 私にとっては、『母の誕生日』だ。

 私は19歳の4月中旬に家を出た。家出ではない。親に選択を迫られて、家を出た。
 20歳の春は死んだように生きていた。選択を誤ったとは思わないが、自分の人生なんて何処にいたって変わらないことを知る。私は何者にもなれないし、私は誰にも大切にもされないし必要ともされない、と。
 21歳の3月には、現夫くん、当時泥沼三角関係真っ只中の彼に「彼女の要望で家から出て言ってほしい」と言われ、東京の街を彷徨いながら、風俗店に勤務し生計を立てていた。1日に何人の相手をしたか。何人の男に触れたか、触れられたか。それによって手首に線を引いた。汚い。汚い。汚い。
 そしてすぐ彼から連絡が来る。
「やっぱり寂しい。戻ってきて」
 風俗店の店長は言った。
「そんな男、ろくでもないよ」
 私は答えた。
「だから捨てられないんです、捨てられたくないんです」
 私は店を辞めて、泥沼に戻った。何の為に私を呼び戻したんだって、くらい、彼は何一つ変わらなかったけど、もうそんなことには慣れっこだった。ただ手首の傷が増えて、何故か根性焼きが手の甲にできて、時々記憶を失う程度のことだ。相も変わらず上手く息ができなかった。
 22歳の春には、妊娠も後期。初めての出産への不安、そして、妊娠初期に母から言われた言葉が何度も蘇る。
『あんたなんかに子供を育てられる訳がない』
『妊娠したから産みます? 犬猫以下か』
『あんたも、あんたの夫も子供もみんな不幸になる』
『孫とか認めない』
『そんなこと言ったらママが心配して飛んでくるとでも思った? 残念でした!』
『お前は死んだ。さようなら』
 23歳の春も、25歳の春も、27歳の春も、妊娠していた。
 そして29の春、私はてんてこ舞いだった。新生活に追われ、考えなければいけないこと、やらなければならないことが毎日毎日増え続け、頭を可笑しくしている訳にもいかない状態にも関わらず、私は春になると、変になる。

 情緒不安定。その言葉が良く似合う。

 絶望的に楽しいことを楽しむ一方で、壊滅的に自分はズタボロであることに気付かない。若しくは気付かないふりをしている。いや、きっと気付いていないんだろう。気付いてしまったら、意識してしまったら、囚われる。

 春は、3月から5月1日が終わるまでは、私は、ただの小娘に戻される。
 何もできなかった、周りに流されるまま、死んだように生きていたあの頃に、引きずり戻される。

 でも、思う。あの頃の私に、なにができた?

 愛情の欠片さえ見当たらないまま、縋れるものに縋っただけだ。そうして心身を削っただけだ。これでもかと男の欲に塗れて、これでもかと肉親からの憎悪を受けた。20代前半の人達はみな、輝いて見えた。今でもそうだ。なのに自分を見れば、ただただ薄汚れて、醜い捨て猫のよう、いや、猫に失礼だ、ボロ雑巾のようだった。

 昔、母に言われた。
「ママの誕生日にプレゼント一つ用意しないなんて薄情者」

 だから高校生の私は、寄り道すると怒られる環境の中、前もって部活だからと母に嘘を告げ、田舎道を自転車で駆け抜け、わざわざ大きなショッピングモールへと走り、なけなしのお小遣いから母の好きそうな青色で可愛らしい芳香剤を選んで買った。大急ぎで戻って帰宅。弟と妹に寄せ書きも手伝ってもらった。渡した時の母は見たこともないくらい、大層喜んでいて、私は、とてもホッとしたことを覚えている。
 が、それは長く続かず、その日は些細なことから夫婦喧嘩が始まり、警察沙汰になるほどに発展した。
 私の贈り物も姉弟妹の寄せ書きも、隅っこに追いやられた。

 それ以来、5月1日が、嫌いです。

 ただでさえ嫌いだった。5月1日は。
 母が自分の誕生日だと浮かれる日に、何かしてしまったら、それこそ自殺したくなるほど責められ二週間は放置される。ご飯も与えてもらえない、風呂にも入れない、布団もない、酷い時はずっと外。その地獄の二週間が終わっても、母の機嫌が治るまでは口も聞いてもらえない。自分が存在しているかも分からないくらいの徹底的な無視。
 まぁそれもいつものことだった。過剰な過保護、過剰な過干渉、そして、気分次第のネグレクト。外面のいい両親の本当の姿。誰も知らなかったと思う。酷い罵声は聞こえていたかもしれないが、それすら田舎だから、噂にこそなったとしても、誰も心配などしてこない。
 これで私が痣だらけだったら何かは違ったのだろうが、残念ながら体の丈夫さだけが取り柄だと、母に笑われた私だ、傷など残らない。母もわかっていて、顔や見える場所は蹴ったり殴ったり物で叩いたりしない。せいぜい髪の毛を掴んで壁にぶつけたり、髪を引っ張って引き摺り倒してそのまま玄関の土間に蹴り落とす程度だ。

 5月1日は、嫌いです。
 5月1日は、嫌いです。

 でも、本当は。

 だいすきで、いたかった。

 おめでとう、ママ。

 そう言って、笑い合って、みたかった。

 プレゼントなんて、なくてもいいのよ、と言って欲しかった。

 優しいママがいれば、それでよかった。

 けれど、それはもう、叶わない。
 私に母は、いない。いないも同然。だから、五月一日を嫌う理由なんて、ない。それでも、思う。

 5月1日なんて、だいきらいだ。

 自分が母親になって、子供たちから「ママ、お誕生日おめでとう」と言われることの喜びを知る度に、私はきっと、あの年の『5月1日』を、憎み続けるのだろうと思う。頑張って、蔑ろにされた、5月1日を。

(以前noteに記載したものを転載しました。)