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板橋区の成増や赤塚は、つい先ごろまで昭和の面影が残る地域だった。起伏に富む地形に、農業を営む家が多かったが、しかし都心へ至便の地域とあって今はすっかり住宅地になって仕舞った。そんな赤塚地区に今も富士塚が残されていると聞き、早速探しに出掛ける。
この地域は、坂が多い。又、道路も曲がりくねっている。大凡の場所は把握していても、なかなか到着出来ない。実は、以前、この神社の前を通り掛かっていたにも関わらず、発見出来なかった。しかし、今回は一目で分かった!
▲山頂の様子。小祠の向こうの隙間から見ると、結構、高さがあるのが分かる。
▲今、登って来た登山道を振り返る
今回の富士塚は、氷川神社の境内地の一角にある。盛夏と言う時期でもあり、塚は草木が茂っており、山容が判然としない。しかし、富士講やら富士山登拝を記した石碑が幾つも立ち並び、直ぐに、これが富士塚であることが分かる。又、訪れる人が他にも居るのかそれらしい人の踏み跡が薄っすらある。
早速、山に昇る。ここは山開きとかの時期でなくても自由に登拝出来る。鳥居を潜り、薄暗い足元に気を付けつつ、講碑を見ながら、、間もなく山頂へ至る。山頂には小祠がある。小祠の中は空っぽだ。そして、後付けなのか大黒様と恵比寿様が両脇に置いてある。
山頂からの眺めは、山腹に木が茂っていることもあり殆ど眺望が取れない。でも、その隙間から見えて来る向こうは、結構遠望出きるぞ!この木とか周囲の建物がなければ、富士山が見えたんぢゃないかと思える。
▲かなり木が茂り、富士山らしさが無い。
▲塚の裏手側から見る。富士塚独特の溶岩は全く覗えない。
--------<説明板・縦書き>------------------------------- (富士塚の共有説明文は省略)
当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉行芙厚)が開いた講中です。当地(旧上赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御三幅の「御身抜」に、「天保六年、蓉行芙厚□、七十七年、書之」という墨書銘が確認されていることから、天保六年(1835年)頃と考えられます。
なお、この富士塚の造成時期については志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「上赤塚仙元 富士山」と表記されていることから、それ以前の造成と考えられます。
また、慶応四年(1868年)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を務めた富澤藤七が造立した「登山三十三度大願成就の碑があり、造成時期はさらにさかのぼる可能性も考えられます。平成二十三年度、区の登録記念物(史跡)となりました。
平成二十五年三月
板橋区教育委員会
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山から降りて来たら、手の甲や腕がかゆい!蚊に刺されいた。この時期行く人は気を付けたい。
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東京都板橋区赤塚四丁目22-1 氷川神社内
2020年(令和2年)8月14日金曜日14時頃・晴れ・36℃