富士塚を行く

身近な富士塚を見に行く
都内区部が多いが
その周辺地、遠隔地にも
足を延ばして見て歩いた記録

白子富士

2020年08月29日 20時16分38秒 | 富士塚

 この前見た板橋の上赤塚富士や下赤塚富士の説明板に、ここ和光市にある熊野神社の鳥居に当時の赤塚村の人々の名前があると記述があることから、その関連を知りたく、出掛けてみた。

 神社の位置は、予め地図で見ておいたので、すぐ到着出来るはずだったのだが、実は近くまで行きつつも、なかなか辿り着けなかった。と言うのは、この神社、通りから引き込み道路を入り、その一番奥に参道や境内があるのだ。今日は運悪く、その引き込み道路沿いの家の工事でトラックが路上に止まっていたため、道路の奥が良くみえず、神社の存在に気付くのが遅れてしまった。(実は場所の記憶だけで、地図もスマホもなし。その上、この35℃の中、自転車で出掛けてしまった!)

 早速、中に入ってみる。鳥居をくぐり参道を50m位進むと、神社前の広場に出る。

その広場の正面に社があり、その背後は樹木に覆われた傾斜地になっている。右手側には小さい木が茂ったこれまた傾斜地が見える。さしずめ、山の谷間に建つ神社って感じだ。さぁーて、この神社の何処に富士塚があるのか?

もう一度、この広場から周囲を見回すと、さっきの右手側の小さな木の茂った傾斜地はどう言う訳か鉄パイプで柵がしてある。何だろうと近付くと、斜面に石碑が見えた。こんな木が生えた中に石碑?、、、え、、若しかして、これが富士塚?

富士塚にしては、凄い大きさだ。その傾斜地の面積はかなりある(幅15m以上?×奥行き良く見えないが10m位?)し、高さも5mはある?かな。その奥は高木なので、そのまま傾斜が続いている様にも見える。う~、、富士塚なのか? 。。。蝉がうるさい。。暑い。。分からない。。。

奥に進む。と、そこに小道があった。

もうちょっと、行ってみよう。

そこで、ふと、脇の柵を見ると、「武州白子富士 下山口」の張り紙を発見!

これだ!ここが富士塚だったんだ!

下山口って書いてあったけど、そのまま登山道を登った。

  

 ▲(左)下山口付近の表示物を見つける。(中)下山道。ここは低木なので日照がきつい。

 (右)この辺りでは殆ど石碑がない中で、これが目に付いた。「宝永」の文字が見える。

   <スマートフォンの場合は、(左)=(左上)、(中)=(右上)、(右)=(左下)に置き換え>

 

この富士塚は、全面が小さな木と夏草で覆われている。黒ボク石は見当たらない。

夏の日差しの暑い中、頂上を目指す。登山道(本来は下山道)は緩いつづら折り。

やがて、頂上に到着。頂上には小さなな石造の祠が置かれ、中に冨士浅間大神の木製のお札が納められている。

 ▲頂上は余り広くない。小祠があるのみ。

  ◀(左)祠正面、(右)祠の中を見ると、冨士浅間大神のお札。

頂上の周囲も殆どが草と木に覆われているが、一部に見晴らしが取れるところがあった。丁度、神社の社務所と社の一部が見える。ここからの眺めは、だいぶ高いなぁと言うのが第一印象。随分登って来たなぁ~感がある。

 ▲茂った草木の隙間から下界を眺める。結構高いことに驚かされる。

 下山は、高木が茂る下に道がある。本来なら日陰であろうが、丁度、道の傾斜角と、この夏の残暑の厳しい午後の日差しの角度が同じとあって、差し込む陽光が暑い。早く日陰に逃げたい。

途中、鳥居のある小祠に差し掛かるが、これが何か分かるものは何もない。

   

 そして、ほぼ降りたあたり(本来の登山口)になると、石碑が幾つか見えて来た。その中に、丸吉講と思しきものもある。が、その数は思った程なかった。この夏草の中に隠れてしまっているのかどうか。。。

 ▲丸吉講と思しき石碑がある。山形に吉の文字が薄っすら覗われる。

  

 と、富士塚を逆ルートで一気に登り降りしてしまったが、これだけ大きな富士塚はなかなか巡り合えない。しかし、赤塚の富士塚の説明板にも言及のある志木市にある田子山富士に似ている様な気もする。あちらも広場の奥に富士塚があり、形状も円錐形ではなくやや横に広がる形で似ている。そして、山腹に小さな木がぽこぽこ植えられているところも同じだ。ただ、こちらは殆ど手入れをしていないのか伸び放題。あちらは保存会とか志木市とかの保存に対する力の入れ様が全然違うので、おのずと富士塚の容姿に違いが出て来るのであろう。

 ところで、この大きな富士塚を境内に持つ神社であるが、富士塚に関わる表示物が全然ない。もしかすると、山開きの7月1日頃はあるのかも知れないが、常設のものがあっても良さそうだが。

 赤塚とは当時隣村だったのであろうが、ここ白子にある富士塚は、ちょっと、想像したのとは感じが違った。形状や規模がだいぶ異なる。本当は、同じくここ和光市にある浅久保浅間神社や氷川八幡神社の富士塚も併せて見たかったが、本富士塚の発見に手こずったのと併せて、矢張り、他の神社も場所や富士塚位置を発見出来なかった。次回は、もうちょっと下調べをした上で行こうと反省した次第!

--------<説明板・縦書き>-------------------------------

 熊野神社 御由緒

                         和光市白子2-15-50

□御縁起(歴史)

 天平宝宇2年(758)、朝廷は我が国に渡来した新羅(しらぎ)の僧たちを武蔵国に移して新羅(志楽木)郷を作った。白子(しらこ)の地名は、この新羅から転訛したものといわれており、戦国時代の文書の中には、「白子郷」の名が見える。

 熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によるとおよそ1千年前といわれている。

祭神は、伊弉冉命、健御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また境内神社として、冨士嶽神社(ふじたけじんじゃ)國平(くにひら)神社がある。

 中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まった。

 熊野神社が、いつの時代にこの地に祀られたかは想像の域を出ないが、熊野信仰の本拠である紀伊国(現和歌山県)那智山に伝わる那智中世文書の中にある天文年間(1532-54)ごろの「武蔵国檀那書立」の中に「しらこ庄 賀物助 庄 中務丞」という記述があり、当時の白子ではかなり熊野信仰の布教が進んでいたと推測される。

□御祭神

 ・伊弉冉命(いざなぎのみこと)健御名方命(たけみなかたのみこと)速須佐男命(はやすさおのかみ)速玉男神(はやたまおのかみ)事解男命(ことさかのおのかみ)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

□御祭日

 ・元旦祭(1月1日)         ・節分祭(2月3日) 

 ・祈念祭(2月17日)         ・例大祭(10月3日)

 ・新嘗祭(11月23日)        ・大祓(12月31日) 

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 埼玉県和光市白子2-15 熊野神社内
 2020年(令和2年)8月29日土曜日・晴れ・35℃

 


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