富士塚を行く

身近な富士塚を見に行く
都内区部が多いが
その周辺地、遠隔地にも
足を延ばして見て歩いた記録

東間の富士塚 【せんげんさま】

2022年07月02日 23時59分31秒 | 富士塚

 続いて行ったのが、あの張り紙にもあった山開きの富士塚だ。 立地は旧中山道に面しており、近付くと高さのある幟がはためくのが見えて来る。と間もなく神社前に差し掛かると、境内には沢山の露店が出ており、何か祭りごとが行われているんだなぁと言うのが直ぐ分かる。 目的の富士塚は、ここを入った先のところにある。

▲旧中山道を進むと、何やら楽しそうな雰囲気の一画が見えて来る

▲昨日今日と二日間だね、初山は。

▲鳥居を潜り、参道を進む。目指す富士塚の前に、沢山の露店が何を売っているのか気になる!

 此方の富士塚も、さっき見た竹の子浅間神社の富士塚と同じで、塚の上に社が鎮座している。姿形も殆ど同じ、、、鳥居を抜けて参道を進むと、富士塚に直登で登る階段(石段)があり、登りつめると拝殿があるパターンだ。こちらの階段は、蹴上幅が低く、踏面も小さい。神社の人の話しでは、江戸時代に造ったままのものらしい。この石段を一段一段登るのは辛い。それは、急登の階段なので疲れると言う訳ではなく、造りの小さな石段を一段一段上るのが煩わしくて、一段あかしで登るのが丁度いい感じだ。

▲いよいよ富士塚に登る。

▲階段途中で見掛けた八幡社

▲反対側(右側)は、天神社だ

▲上がって来た石段を振り返る

 階段の途中には、左右に進める道がある。お中道か!と思ったが、そうじゃなかった。その道は夫々行き止まりになっており、その奥に小さな祠がある。 左が八幡社で右が天神社だった。 そう言えば、参道の右側に同じような祠があった。庚申塔と辨天社だった。 なかなかいい感じの取り合わせだ。ここに来れば、何でも揃っている。

 そして、頂上の本殿だが、この日は山開きとあって、扉や戸が全部開かれている。社の篇額は「浅間神社」、拝殿奥の額は「冨士山」だ。額のこばが金色に塗られ、金文字で富士山の文字。やっぱり富士山は別格だね。 それと、賽銭箱に描かれた図柄も富士山だ。本殿に掛けられた幕にも富士山の図柄。本当、富士山尽くしだ。

▲拝殿が見えて来た

▲浅間神社だ!この注連縄もなかなか立派。

▲拝殿は周囲の戸を取っ払っちゃのか開放感のある空間になっていて、気分がいいね。

▲説明板

▲「冨士山」の扁額

▲富士山方向を見る。これじゃ富士山を望むのはむずかしいなぁ、、。

 この富士塚、説明板によると鷹さ6mとあるが、もっと高さがある気がする。この高さなら、本物の富士山見えそうだけど、神社の人に聞いたら、今は見えないとのこと。確かに、北本市と言えども、駅からの徒歩圏となれば、高層住宅なりビルなどが建て込み、富士山は見えないであろう。昔は北本の駅前から富士山が見えたと言う。 そうだ、こちらの富士塚についても、黒ボク石や講碑は全然見当たらない。この辺(埼玉の中~北部)で言っている富士塚と言うのは、講を作って代表者が富士山に登りに行くとか、本当の富士山を模したミニチュア富士山を造り上げると言うものではない様だ。 又、富士塚が造られた時期も、都内のものと比べてもう少し前の江戸時代だったらしい。富士山への思いや考え方に違いが有ったんだろうな、、、きっと。中山道筋の北本宿も江戸から7つ目の宿場町なのかな。10里位って、大体40km位かな。江戸の文化は街道を伝って来るんだろうけど、富士塚については、そっくりそのまま伝わって、それが根付くと言う感じにはならなかったのかな。 此方の富士塚が竹の子浅間と違うところは、もう一つ登山道?があること。近年整備された様で、その石碑があるが、名称は「女坂」となっている。ちょっと富士山らしからぬ名前だけど、坂道のバリエーションがあって楽しい。

▲綺麗に整備された女坂。ちょっと近代的すぎる!?

▲女坂を麓から見る

 都内の区部にある大どころの富士塚は大方行ったので、今年はちょっと違う場所・地域の富士塚に目が向いた。でも、同じ富士塚と言う呼ばれ方していても、ちょっと違ったものに仕上がっているのが分かった、

 -------<説明板>---------------------------------------------------

北本市指定有形民俗文化財

 東間(あずま)富士塚(ふじづか)             平成二十五年三月二十八日指定
 地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこのふじつかは、東西約三十七m、南北約二十七m、高さ約六mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段及び社殿は直線上に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に施行する。中腹には享保八年(1723)の銘が入った「石段供養塔」(いしだんくようとう)
が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。
 このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造であり、近在においても類例が少なく大変貴重である。
 毎年六月三十日、七月一日には、この一年間にうまれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事(はつやまぎょうじ)が行われている。

 平成二十五年六月

                          北本市教育委員会 

▲今回、北本市内の富士塚を見に行く切っ掛けとなった張り紙
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 埼玉県北本市東間一丁目6 東間浅間神社内

 2022年(令和4年)7月1日・ 金曜日・13時半頃・晴れ・気温35度


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