▲ここが富士塚のてっぺん。石造りの祠は、だいぶ欠けて仕舞っている
武蔵の国の神社と言えば、当然、氷川神社だね。 足立区に引き続き、板橋区でも氷川神社内に富士塚があった。ここ板橋区の住所も氷川町と言う、国道17号線沿いにある氷川神社だ。▲塚の上に沢山の社があるが、富士塚は鳥居を潜って階段を登ったところがそうだ。
ここの富士塚は、余り富士塚らしさがない。講碑もあるんだかどうか、、、。塚の前に、説明板があるから富士塚だと分かるが、普通にこの前を通ったら、稲荷社と並んで、何か摂社が並んでいるのかなぁと思っちゃいそう。塚の形も富士山らしさがない。頂上部分が、横に延びており、別の神社の社が連なっている。で、ここが頂上かなぁと思える小祠を覗くと、かろうじて「浅間神社」のお札が見え、やっぱり富士塚だったのかぁ~と、何となく認識する。ちょっと、富士塚としての感動に欠く富士塚かな、ここは。
▲祠の中を覗くと、だいぶ薄れてしまっているが浅間神社の文字が見えるお札が納められている
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氷川町氷川神社富士塚
富士塚は、一般的に、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことであり、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。
氷川町の氷川神社富士塚は、弘化四年(1847)の奉納石碑や安政二年(1855)の塚頂部の石祠が板橋宿の人びとにより建てられていることから、少なくとも十九世紀中頃には建造されていたものと考えられます。
当富士塚を造成したのは、冨士講中興の祖である伊藤身禄(自行身禄)の高弟で、板橋宿の平尾宿に住んでいた永田長四郎(心行長照)を講祖とする永田講中です。同講は、板橋宿中宿・平尾宿や上板橋宿の一部の人を中心に構成されていました。
当時富士塚は、麓から山頂にかけて登山道が設けられ、それに沿って石碑が建てられており、富士山の溶岩である黒ボクが一部使用されています。頂上には、境内地の整備にともない、浅間社などの末社が集められています。
現在の富士塚は、昭和二年(1927)から同八年にかけて行われた中山道(現国道十七号線)の道路幅拡張工事によって、築造時の「富士塚」東側にあたる部分が削られ、同四十八年の玉垣建立時に土留めが施された状態になっています。
なお、区立郷土資料館には、永田講が使用していた「冨士永田講関係祭具一括」が収蔵されており、区指定有形民俗文化財となっています。
当富士塚は、板橋地域の鎮守である氷川神社の境内にあり、地域の富士山登拝講の歴史や民間信仰などについて考察を行う上で貴重な史跡であり、平成二十四年度に登録文化財となりました。
平成二十六年二月
板橋区教育委員会
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東京都板橋区氷川町21 氷川神社内
2022年(令和4年)3月27日・ 日曜日・11時頃・曇り
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それと、ここでも凄いものを見つけた!
このひと時代もふた時代も前の富士塚のそばに、レトロな街灯があったのだ。
▲富士塚に比べれば新しい時代のモノなのに、何か≫馴染んでる!?
▲てっぺんの電灯の部分。笠の部分とその支え、なかなか時代を感じる。柱も鉄筋コンクリートと言うのも凄い。これ、何時の時代のモノなのかな。