縄文貝塚の分布
7000年前~6000年前の縄文時代、地球の温暖化が進んで海面が現在より5~6mは上昇した。現在の沖積平野部分は当時の海底であり、陸地ではなかった。したがって、縄文海進時の縄文遺跡は、現在の沖積平野には存在せず、洪積台地の縁辺に集中する。
縄文遺跡は縄文海進の高さとほぼ一致する。縄文海進よりも低い平野は沖積平野といわれる。縄文海進以降に陸地化したが、しばしば海になったり、河川の洪水があったりしながら、平野になった。人間が放置しておけば、海からの高潮・津波、河川からの洪水の頻発する地域である。
沖積平野は稲作適地であり、米の収穫の安定と人間の平穏な生活のため、土盛りをしたり、堤防を建設したりしたものである。自然のままでは生活できるものではない。
縄文遺跡が沖積平野の中央部には存在せず、縁辺の台地に存在するのは、稲作に必要な水はある程度はコントロールできても、洪水や高潮を防ぐ能力がなかったからである。洪積台地中央では生活用水がないし、沖積平野の農地管理が困難であった。台地縁辺の集落であれば、生活用水を得やすいし、洪水からは安全である。さらに、沖積平野の農作物の栽培管理が容易な位置でもあった。
縄文集落は縄文海進時の海岸線であり、沖積平野の農地化を進める前線基地でもあった。
縄文海進と氷河期
図aの青色部分が海面の高さを示す。海面の低下したのが氷河期であり、過去170万年の洪積世に、大氷河期は4回あったとする説が有力だが、数え方次第では何回にでもなる。しかも図は100万年前までであり、洪積世全体ではこの2倍程度の回数の氷河期はあったと考えることができる。
図bは2万年前の最終氷河期から現在までの海面変動を示す。12万年前の温暖期(下末吉海進の時期)以後、2万年前まで海面低下つまり寒冷化が進んだ。2万年前から急激に海面が上昇した。6000年前には最も温暖であり、海水面は現在よりも5m程度の上昇した(縄文海進)。縄文貝塚が高度7mの線にほぼ一致するのは、縄文時代の集落が、現在よりも5mほど高い、海岸線にあったからである。
ミランコビッチサイクル
20世紀のはじめ、ユーゴスラビアのミランコビッチは、氷河期の到来を、次の①~③の3要因の重なると、北半球の氷雪が融けずに、氷河が拡大すると考えた。最近の氷河時代は、12万年前から2万年前まで寒冷傾向が続いて、2万年前に最大になった。
① 地球の公転軌道の離心率の変化。
10万年を周期とし、地球の軌道が円になったり、楕円になったりする。地球の軌道は、木星や土星などの引力によって変化し、いつでも太陽を中心とする円ではない。
② 地球の地軸が21.5度~ 24.5度の間で変化する。周期は41,000年である。
③ 地軸の歳差運動。周期は23,000年と19,000年の2種類がある。
後氷期の気温上昇
2万年前の最終氷河期に達するまで10万年の寒冷化時間を要したが、その後、12,000年間は急激な温暖化が進んで、縄文海進時に温暖化は最大に達した。寒冷化よりも温暖化が急激に進んだ理由の一つとして、北アメリカ大陸の巨大氷床が融けて海に大量に流入した。このため、北大西洋の塩分濃度が減少、海水温は上昇し、グリーンランドを起点とする深層海流が弱まった。深層海流が地球の気温全体のバランスをとることができなくなった。北極の気候の寒冷化傾向が進み、他の地域では気温が上昇した。
海水総量の一時的急増、深層海流の気温調節機能の低下が、急激な気温上昇となり、12,000年間後に縄文海進で最高の気温と海面上昇になった。
青森県三内丸山遺跡の住居復元(4,500年前)
縄文時代中期の遺跡。地面を掘り込んで床を作り、屋根は円錐形。縄文時代中期の最盛期には500人が三内丸山集落に住んでいた。内部中央に炉があり、そこで4~5人が生活をしていたと考えられる。
7000年前~6000年前の縄文時代、地球の温暖化が進んで海面が現在より5~6mは上昇した。現在の沖積平野部分は当時の海底であり、陸地ではなかった。したがって、縄文海進時の縄文遺跡は、現在の沖積平野には存在せず、洪積台地の縁辺に集中する。
縄文遺跡は縄文海進の高さとほぼ一致する。縄文海進よりも低い平野は沖積平野といわれる。縄文海進以降に陸地化したが、しばしば海になったり、河川の洪水があったりしながら、平野になった。人間が放置しておけば、海からの高潮・津波、河川からの洪水の頻発する地域である。
沖積平野は稲作適地であり、米の収穫の安定と人間の平穏な生活のため、土盛りをしたり、堤防を建設したりしたものである。自然のままでは生活できるものではない。
縄文遺跡が沖積平野の中央部には存在せず、縁辺の台地に存在するのは、稲作に必要な水はある程度はコントロールできても、洪水や高潮を防ぐ能力がなかったからである。洪積台地中央では生活用水がないし、沖積平野の農地管理が困難であった。台地縁辺の集落であれば、生活用水を得やすいし、洪水からは安全である。さらに、沖積平野の農作物の栽培管理が容易な位置でもあった。
縄文集落は縄文海進時の海岸線であり、沖積平野の農地化を進める前線基地でもあった。
縄文海進と氷河期
図aの青色部分が海面の高さを示す。海面の低下したのが氷河期であり、過去170万年の洪積世に、大氷河期は4回あったとする説が有力だが、数え方次第では何回にでもなる。しかも図は100万年前までであり、洪積世全体ではこの2倍程度の回数の氷河期はあったと考えることができる。
図bは2万年前の最終氷河期から現在までの海面変動を示す。12万年前の温暖期(下末吉海進の時期)以後、2万年前まで海面低下つまり寒冷化が進んだ。2万年前から急激に海面が上昇した。6000年前には最も温暖であり、海水面は現在よりも5m程度の上昇した(縄文海進)。縄文貝塚が高度7mの線にほぼ一致するのは、縄文時代の集落が、現在よりも5mほど高い、海岸線にあったからである。
ミランコビッチサイクル
20世紀のはじめ、ユーゴスラビアのミランコビッチは、氷河期の到来を、次の①~③の3要因の重なると、北半球の氷雪が融けずに、氷河が拡大すると考えた。最近の氷河時代は、12万年前から2万年前まで寒冷傾向が続いて、2万年前に最大になった。
① 地球の公転軌道の離心率の変化。
10万年を周期とし、地球の軌道が円になったり、楕円になったりする。地球の軌道は、木星や土星などの引力によって変化し、いつでも太陽を中心とする円ではない。
② 地球の地軸が21.5度~ 24.5度の間で変化する。周期は41,000年である。
③ 地軸の歳差運動。周期は23,000年と19,000年の2種類がある。
後氷期の気温上昇
2万年前の最終氷河期に達するまで10万年の寒冷化時間を要したが、その後、12,000年間は急激な温暖化が進んで、縄文海進時に温暖化は最大に達した。寒冷化よりも温暖化が急激に進んだ理由の一つとして、北アメリカ大陸の巨大氷床が融けて海に大量に流入した。このため、北大西洋の塩分濃度が減少、海水温は上昇し、グリーンランドを起点とする深層海流が弱まった。深層海流が地球の気温全体のバランスをとることができなくなった。北極の気候の寒冷化傾向が進み、他の地域では気温が上昇した。
海水総量の一時的急増、深層海流の気温調節機能の低下が、急激な気温上昇となり、12,000年間後に縄文海進で最高の気温と海面上昇になった。
青森県三内丸山遺跡の住居復元(4,500年前)
縄文時代中期の遺跡。地面を掘り込んで床を作り、屋根は円錐形。縄文時代中期の最盛期には500人が三内丸山集落に住んでいた。内部中央に炉があり、そこで4~5人が生活をしていたと考えられる。