地理講義   

容量限界のため別ブログ「地理総合」に続く。https://blog.goo.ne.jp/morinoizumi777

38.扇央 百瀬川あるいは庄川の扇状地に住む

2011年04月24日 | 地理講義
扇央はかれ川
扇央は山地から崩壊した大小の砂礫が堆積し、地下水はふだんはかれ川であり、扇央の地下を扇端に流れる。集落は地下水を生活用水として利用可能だが、20~30mの地下水を汲み上げる電動モーターが一般に市販されたのは第2次大戦後のことである。
洪水時には山地から扇央に大量の砂礫が流れて地表のかれ川を流れる。しばしば砂礫運搬量がかれ川からあふれて洪水となり、扇央では砂礫の洪水に襲われ、人的物的被害が大きくなる。
かれ川はかつては水不足と洪水の恐れがあって、集落はできなかった。
かつて扇央は森林におおわれ、薪炭材を供給していた。扇央の一部は果樹・野菜のような、水に制約されない農地として利用された。
かれ川に人工的に堤防が建設され、洪水の危険性がなくなり、扇央に農地ができた。野菜・果樹などが栽培された。

扇央の生活用水は電動ポンプで地下水をくみ上げると、集落は立地可能だが、いくら宅地開発が進んでも、集落と呼べるような集落はできないのが実情である。その理由として、扇央の農地からの収入だけでは生活が成り立たないこと、交通・上下水道の整備は扇端集落で進められて扇央の開発に投資されないこと、野菜・果樹は生産過剰に陥ると価格が暴落すること、近年はサル・イノシシ・タヌキなどの野生動物が扇央に出没して出荷直前の野菜・果実を食い荒らすことなどのため、扇央には農業集落では専業農家の生活は安定しない。
一般に扇央には水田はないが、扇頂からの灌漑用水路を充実したり、扇央表面の砂礫層を山土と入れ替えたりし、扇央を水田に変えることができる。
さらにかれ川に堤防を建設して洪水を防ぐと、扇央は宅地としての開発利用も可能である。

百瀬川扇状地(滋賀県)の場合

百瀬川扇状地の扇央には、広葉樹が広がる。広葉樹林の中には中世からの堤防建設の痕跡がある。現在は百瀬川に強固な堤防が建設され、扇央の宅地化・農地化が進んでいる。
宅地化はJR湖西線の開通とバイパス道路の建設とにより、京都までの時間距離が短縮されたことで進んだ。JR湖西線の直通電車で、近くの無人駅近江中庄駅から京都まで59分、琵琶湖の見える住宅地として扇央の開発分譲が進められた。
生活用水は地下水を電動ポンプで地下30mから汲み上げた。扇央に400戸分の宅地造成が進められた。しかし、琵琶湖の見える景観には価値があるが、京都・中庄間の朝夕各1便の直通電車だけは、勤務時間との関連では恵まれているとはいえない。扇央の宅地・住宅は、業者の予想するほど売れなかった。

  


百瀬川扇状地の扇央では、中世からの堤防建設や水田造成により、農地化が進んだ。しかし、サルの集団が山中からエサを求めて農地を襲うので、人間の側が扇央の農地を金網で囲んで被害を食い止めている。


庄川扇状地の扇央に住む
自然保護の機運の高まりとサル軍団の勢力拡大のため、高齢化した農民が扇央の森林を切り開いて部分的に野菜畑・果樹園に利用することには、限界があった。野菜・果樹などによる収入は煙草銭程度であった。それでも扇央の農地化へ執念をみせているのは、農業という職業倫理観が身体にしみついているからであった。経済的損得勘定では、明らかに損である。扇央に住み着いて農業で生計を立てるのは、困難であった。

中世以降、特に近世には扇央の礫層上に山土を盛って水田化した。この土地改良事業は、扇頂に山土を置いて、春先の雪解洪水時に下流に泥水として流せ、扇央の砂礫は、砂泥層におおわれ、水田を造成できる。
例えば、砺波平野の扇央は、庄川の流水客土事業により、水田稲作の可能な農地になり、扇央には農業集落ができた。砺波平野の集落は、屋敷森のある散村風景として有名だが、春先のチューリップ栽培も美しい。


砺波平野の散村。加賀藩は、庄川扇状地の扇央を、流水客土により、良質の水田に変えた。庄川の分流が扇央で洪水を起こさないように、庄川扇頂の流路を一本にするため、1714年(正徳4年)に堤防を建設して東に寄せた。この堤防の長さは2km、建設に45年、のべ労働力100万人といわれた。庄川堤防を補強するために松が植えられた。この堤防が「松川除(まつかわよけ)」である。



これほどの歴史的大事業として砺波平野の扇央部分が水田化された。扇央の散村の光景が珍しい。しかし、高コストでつくられた水田用地である。工場用地など経済的生産性の高い土地利用に転換はできるが、定年後の年金生活者が、趣味的農業をしながら住むことは難しい土地である。



最新の画像もっと見る