地理講義   

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39.武蔵野台地は安全快適な隆起扇状地

2011年05月12日 | 地理講義

隆起扇状地は洪積台地



更新世(洪積世。170万年前~1万年)にできた三角州、扇状地などであり、更新世に平野地形が隆起し、隆起三角州・隆起扇状地・河岸段丘・海岸段丘になった地形である。隆起量は最大10~200mである。
隆起扇状地の扇央部分は、沖積世の扇央よりはさらに地下水位が低い。深井戸掘削技術が確立したり、長距離の用水路を建設できるようになって、原野が農地になった。隆起扇状地の農地開拓は、ほとんどが江戸時代以降であり、幕府・藩・商人などが開発資金を提供し、地主となった。
隆起扇状地の典型例は、多摩川と荒川にはさまれた武蔵野台地、大井川下流域の牧ノ原台地である。武蔵野台地には、江戸時代、農業用水の不足に耐える畑作物主体の農業が成立した。江戸の人口増加と1日3食の習慣確立に見合い、武蔵野台地の畑作農業は発展した。


武蔵野台地は隆起扇状地


武蔵野台地は埼玉県・東京都にまたがる、洪積世の扇状地と三角州であり、洪積台地と一括して呼ばれる。埼玉県所沢市東部の上富・中富・下富の三富新田は隆起扇状地の開拓農地である。江戸時代に洪積台地(隆起扇状地)の開発が進められた。麦・野菜・茶などが栽培されて、江戸の人口増加つまり食料消費の増加とともに、農地が拡大した。1962年に埼玉県指定文化財に指定された。
19世紀末、川越藩主柳沢吉保は江戸幕府から武蔵野台地を領地と認められ、新田開発を進めた。川越藩家老曽根権太夫は、近隣の農村から開墾希望者を集めた。1696年5月には、上富(かみとめ)91屋敷、中富(なかとみ)40屋敷、下富(しもとみ)49屋敷の合計180屋敷の新しい村として三富新田がつくられた。
※ さんとめ(三富)、かみとめ(上富)、なかとみ(中富)、しもとみ(下富)の読み方に注意。

問題となったのは、
武蔵野台地の農地開拓と集落立地の問題点は、水と風であった。
水については、柳沢吉保は、野火止用水の例に習い、箱根ヶ崎の池から水を引こうとしたが、失敗した。そこで、三富全域で11ヶ所の深井戸(約22m)を掘り、集落の共同利用とした。深井戸が涸れた時には、数km離れた柳瀬川まで歩いて、生活用水を汲みに行かなくてはならなかった。水路は主要道路に沿って走り、集落もまた道路に沿う「路村」の形になった。
風については、防風林を集落周囲に植え、関東ロームの微粒子が住居に侵入するのを防いだ。また、畑の周囲には茶あるいは卯木を植えて、砂嵐のような北西季節風から作物を守った。これらの屋敷森は土・風を防ぐだけではなく、薪や建材、それに葉は肥料としても役だった。


新田集落は江戸時代の開拓集落


新田集落は、武蔵野台地だけではない。江戸時代の開墾により、農地と農業集落が成立した。江戸時代まで農地として利用できなかった理由は、水のコントロールが難しかったからである。
例えば、海岸低湿地は、満潮時の海水逆流を防いで、水田に変えた。あるいは河川の洪水常襲地域では、堤防を建設したり、河川の流路を変えたりして、農業を可能にした。
洪水・台風などの異常事態が10年あるいは20年に一度は襲来し、大きな被害を与えたとしても、やむを得ないことであった。低地における水田稲作農業は、自然堤防を集落に、後背湿地を水田に利用すれば、生命・財産を失うほどの危険はなかった。
農業用水と生活用水の量的コントロールが可能になれば、洪積台地でも沖積平野でも、生活は可能である。


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