地理講義   

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25 日本の米  減反政策

2011年01月22日 | 地理講義
戦後、日本では学校給食がパンに限定されていた。アメリカ産の余剰小麦が原料であった。日本全体の食生活の洋風化が進み、米の需要が減少した。それとともに米は生産過剰になったが、食糧管理法によって政府が農家から米を全部買上げるため、1960年には政府在庫米に関する食糧管理会計の赤字が深刻な問題になった。

終戦(1945)~高度経済成長直前(1960)
農地改革によって多数の自作農が創設されたこと、食糧管理法によって政府は農家の米を全部買い上げていたこと、政府の高米価政策による米作農家の保護が続いた。農家は米を増産する限り、政府によって収入が保証された。
化学肥料、農薬、農業機械、新品種の導入などにより、米の生産が増加した。米の需要が減る一方であったため、政府米の在庫が増えた。米は生産過剰の状態であった。
政府は農家から米を高く買い入れて米作農家を保護したが、その一方で、米の消費者からは政府配給米が高価でまずいと批判された。政府は政府米を米穀業者には安く売らなくてはならなかった。それでも余った米をさらに安く飼料用・加工用に売った。このため、政府米の収支である食糧管理会計の赤字がふくらんだ。

農業基本法(1961~99) 
1961年施行の農業基本法で、米の生産過剰を米から他作物への転換、離農促進、水田の集約化と機械化による米のコストダウンが計画された。しかし、政策の目的に反し、農地の貸借売買も離農も進まず、米の生産過剰と政府米の在庫増加は改まらなかった。


米作に代わる農業として、山間地では酪農が奨励された。農協・役場の担当者が、牛乳を売ってもカネになるし、少しは自家用乳として飲めば栄養にもなる、と米作農家を説き歩いた。
不要になった農耕用牛馬と入れ替えに、1頭2頭程度の乳牛を飼育する米作農家が増え、1965年には少数飼育の酪農が流行した。乳牛の出産直後から牛乳をしぼるのだが、搾乳は正確に6時間間隔の手労働であり、乳牛1頭2頭を飼育するだけで、睡眠も外出も不自由の重労働が課せられた。
乳牛の多頭飼育への転換には、牛舎からの排水設備、牛乳保管の大型冷蔵庫、輸入飼料の計画的利用など、重い経済負担がかかった。大半の農家は乳牛の飼育を1回限りでやめた。
1970年代には、多頭飼育に踏み切った酪農農家が、森永・明治・グリコなどの大手食品企業と契約して、牛乳を売った。しかし、牛乳は政府の予想ほどには需要が伸びず、生産過剰に陥った。酪農でも米作同様、生産調整が実施された。21世紀になっても、大手食品企業の牛乳関係部門は赤字が累積、政府がその赤字を補填して、最終的には酪農農家を保護した。酪農農家は政府の価格補償で経営が成り立っていて、米と同じ状況にある。
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減反政策① 稲作転換対策(1971~75)
形式的には「農家の自主的な取組み」としての減反政策である。水田に米を植えずに、麦類・豆・牧草・果実などを作付けをすると、農家には転作奨励金(休耕奨励金)が支給された。減反目標は米生産量で指定された。水田の面積ではなかった。年による違いはあるが、ほぼ100万~200万トンの減産が目標であった。水田面積では30~50万ha相当であった。また、転作奨励金(休耕奨励金)などに要した総経費は、毎年1500億円前後であった。
転作への「農家の自主的な取り組み」は形式的であり、役場の決めた転作面積に達しない市町村は、土地改良事業や構造改善事業などの補助金を削減された。「農家の自主的な取組み」ではなく、政府の経済制裁による、義務的減反政策であった。
水田の耕作放棄は地力低下の原因になる。そこで、水田に他の作物を栽培した場合に転作奨励金を得られた。まじめに飼料用の麦・豆類を栽培する農家がある一方で、手数がかけずに転作奨励金を得る目的で、栗・柿などの果樹を栽培する農家も多かった。収穫を期待しない「捨て作り」であった。
農家は転作奨励金を得、残りの水田では米の生産性を上げた。転作による米の国内生産総量の減少はわずかであり、政府買入米は増加、政府米の在庫は増加した。転作奨励金は1973年、稲作転換対策は1975年に廃止された。

減反政策② 水田総合利用対策(1976~77)
米の生産過剰対策として、米から他作物に転作する水田は、面積を単位に割り振られた。しかし、他の作物栽培を途中で放棄する、いわゆる捨て作りをして、水田総合利用奨励補助金を不正に受け取っている例が続出した。また、農業法人が水田を買い集める時に米作以外の作物栽培が条件でありながら、米の作付けが続いていたり、水田を売ったはずの前所有者が引き続き米作を続けていたり、政府補助金による農地売買が骨抜きになった。
減反政策としての水田利用総合対策は、2年間で終わった。

減反政策③ 水田利用再編対策(1978~86)
米の需要減少と生産過剰が続いた。米以外の特定作物栽培に、転作奨励金を増額した。転作後に果樹・畜産の団地化を進める場合も、転作奨励金が増額された。
米作以外の新しい農業への挑戦が、日本各地で始まった。転作奨励金などの政府補助金は、年3000億円を越え、米作に代わる新しい農業は、転作奨励金などの政府補助金なしには成り立たない農業であった。
1983年には冷夏と減反の超過達成で、米の在庫がなくなった。端境期には韓国から米15万トンを輸入せざるを得なかった。米の生産量を適正水準に戻すため、政府買入米価を1983年から値上げし、1985年に60kg当たり18505円になった。食糧管理法下では最高値であった。

減反政策④ 水田農業確立対策(1987~92)
水田農業(米作)の生産性を上げ、高い生産性を維持するための条件整備を図るため、条件整備を推進する。行政主体であった転作計画を、行政と農業関係者の協議で決めることになった。
転作推進のため、農林省から[需要即応型水田農業確立推進事業基金]として毎年総額1000億円が都道府県水田農業推進協議会に交付された。具体的政策は前期対策と後期対策に分けられ、きめ細かい政策がとられたが、これまでの米余りの傾向は変わらなかった。
●前期対策(1988~89年)は 米需給均衡化緊急対策が中心
・1989年度の転作等目標面積を77万haに拡大。
・学校給食への米飯給食導入拡大。
・米の需要拡大のため、新米を配給米用とし、古米を配給米としない。
・古米処理のため、食品加工用の他用途米と工業用の需要開発米への転作推進。
●後期対策(1990~92年)は 農業者と農業団体の主体的取組が中心
・転作農地を利用する地域輪作農業(田畑交互利用)を確立する。
・生産団地化による規模拡大、生産性拡大を図る。


1964年には日本全国で350万戸が計8千万羽を飼育、1戸当たり25羽であった。
2009年には全国で3100戸の養鶏農家が1億4千万羽を飼育。1戸平均4万5千羽。水田転作としての養鶏であり、養鶏農家が養鶏団地をつくって輸送・飼育のコストダウン、鶏卵は安値でも経営は黒字であった。大手商社が養鶏用飼料調達、鶏・卵の販路拡大、鶏舎建設などで支援した。しかし、コレラ・ペスト・インフルエンザなど、人間並みの伝染病による大量死の経営リスクも大きい。
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減反政策⑤ 水田営農活性化対策(1993~95)
新農政プラン(1992)により、米作と転作作物を組み合わせた、生産性の高い水田利用が推進された。また、国際的にはウルグアイラウンド合意(1994年。WTO農業協定)として、国内農業市場の開放、国内農産物への政府補助金削減、輸出補助金廃止の3分野を、2000年までに実行することが国際公約になった。このため、国内の米作保護を目的とする食糧管理法が廃止された(1995)。
代わりに新食糧法が施行され、自主流通米(ヤミ米)が合法化された。新食糧法は米の自由売買に道を開いた。
減反政策は法的根拠のない行政指導であったが、新食糧法によって法的根拠を得た。政府による減反政策つまり米の生産調整は「米穀の需給均衡を図るための手段」となった。しかし、結果的には、従来と変わらない減反政策、つまり政府主導の政府補助金による生産調整が続けられることになった。


減反政策⑥ 新生産調整推進対策(1996~97)
新食糧法の精神に則り、農民と行政の協調による減反つまり生産調整が実施された。減反は政府からの補助金と、地域米作農民の出し合った協力金とが、減反を実施した農家に支払われた。これが「とも補償」である。政府は減反に要する農業補助金の一部を米作農民の負担とし、農業補助金を1000億円以下に減らすことができた。
「とも補償」とは米作農家が金を出し合い、国からの補助金と合わせて、生産調整を実施した農家に支払う補償金である。地域全体が生産調整の目標を達成するための、互助会的発想の農業政策である。
最初は3か年計画であったが、天候に恵まれたり、農民の生産意欲が高まったりして、米の豊作が続いて米価が値下がりをしたため、新生産調整推進対策は2年間で中止された。


減反政策⑦ 緊急生産調整推進対策(1998~99)
1999年の米の大豊作に驚いた農林省は「新たな米政策大綱」を決定、2000年以降の減反面積を96万haに拡大した。全水田面積の35%に達し、前年比1.4倍であった。
生産調整(減反)に協力した米作農家には、稲作経営安定化対策として自主流通米の価格補填が行われた。また、減反損失分には、農家と行政の資金拠出による「とも補償」があった。
政府買入米の価格低下傾向が続き、1999年には60kg当たり15,550円に定められた。なお、最高価格は1985年の16,615円であり、この時から6.4%下落した。


減反政策⑧ 水田農業経営確立対策(2000~03)
農業基本法に代わり、1999年に「食料・農業・農村基本法」(新農業基本法)が制定され、それにもとづいた減反政策が実施された。
● 米の計画生産で需給調整と価格の安定をめざす。
米の需要が減り、輸入米が増加しているため、米の計画生産とは米の減反政策強化のことである。
● 麦・大豆・飼料作物など転作作物栽培の本作化、水田を利用した多角経営を進める。
米作の裏作として飼料作物の栽培を進め、肉牛・乳牛の飼料自給率を高める。しかし、水田を乾かして裏作で栽培した飼料はコストが高く、輸入飼料への依存する農家の体質は変化しなかった。農協系列の飼料メーカーが、アメリカなどから飼料としての大豆・とうもろこしなどを積極的に輸入していることも背景にある。
● 稲作経営安定化対策により、減反協力農家には、販売した自主流通米が安値の場合に政府が損失補償をする。

減反政策⑨ 水田農業構造改革対策(2004~11)
食糧管理法(1942~95)に代わる食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)が1994年に施行された。減反政策は1971年から農林省主体の官僚的方法が続いてきたが、2004年には食糧法が改正され、農民・農業者主導になった。政府の米買入量は100万トン以下に減らす。政府が米を買い入れる目的はこれまでの価格維持から、緊急時の備蓄に移行する。
水田農業構造改革対策は改正食糧法による新しい農業政策つまり構造改革をめざした。
第1に従来の行政主導の減反政策を、農民・農業団体主導に改める。
第2に減反を、面積割当から、生産量割当に移行する。1971年の減反開始時も減反は数量割当であり、面積ではなかった。数量割当は1975年まで続いた。
しかし、行政の監視が緩むと、2007年には減反割当の水田で米作が公然と行われ、また減反外の水田でも米が豊作であった。自主流通米の米価が下落すると、政府は農家主導の姿勢を転換して米の緊急買い上げを実施して価格の下落を食い止めた。農協の全国組織全農も、過剰米の飼料への転換を進めた。
今後の減反割当を都道府県の監視で厳重に実施させることになり、再び行政主導の減反政策に戻った。なお2008年以降、減反政策に協力する農家に、10a当たり3,000円の一時金が交付された。


2012年以降の減反政策   民主党の戸別所得補償政策
与党民主党は一律減反政策の廃止を選挙公約の一つとして、政権の座についた。米が生産過剰になれば米格が下落するが、その場合、政府が、農家に米作赤字分を補償することにした。しかし、民主党の権力基盤が弱く、民主党政権の農業政策の行方は定まっていない。

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1971年から2008年までに減反政策に6兆3824億円の国費が使われた。現在、水田の30%以上が転作あるいは休耕により、米の栽培がなされていない。 



米の消費量が1960年代と同程度であれば、古米在庫の問題も、減反の問題も小さかった。最大40%の減反をしても、米の減産は20%以下である。米の減産に一番効果的であったには米価の引き下げであり、減反政策の強化・強制ではなかった。高米価のままで減反政策を推進しても、土地生産性が上昇し、米の総収穫量は減らない。1980年の減反率19.8%、米の作付面積は295万ha、収穫量は975万トンであった。2008年は減反率 5.5%、米の作付面積は159万ha、収穫量は847万トンであった。土地生産性の向上が著しく、減反政策の効果が上がらなくなった。

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