2007年12月26日
高崎宿から松井田宿まで歩いた。
高崎宿から松井田宿まで歩いた。
高崎ICから、今晩宿泊するホテルに向かい車を置く。この日は、この冬一番の冷え込みで毛糸の帽子をかぶり手袋にマフラー、ジャケットを着ていても、寒くて身を縮めて歩き始めた。高崎駅前の「もりや食堂」ここは、「NHK街道てくてく旅」の本で紹介されている店。営業時間7:30~15:00ということで、すでに営業していた。寄ってやきそばを食べたい所だったが、今日の行程はとても長いので我慢して通り過ぎた。街道は商店街の中を進む。そこで見つけたのが、写真の店。店先に並ぶ樽には、つやつやした豆が並んでいて、風情がある。
程なく見えてくるのが、お醤油屋さん「岡直三郎商店」
この店は、明治開業当時の建物をそのまま使っているそうだ。おだやかな語り口の店主さんが対応してくれて、用途に合わせたさまざまな醤油を一つ一つ説明してくれた。どれも個性があって美味しそう。どれにしようかと悩んだ末、道中持ち歩く重さと値段の折り合いのついた、おさしみに合うという醤油を購入した。
この店は、明治開業当時の建物をそのまま使っているそうだ。おだやかな語り口の店主さんが対応してくれて、用途に合わせたさまざまな醤油を一つ一つ説明してくれた。どれも個性があって美味しそう。どれにしようかと悩んだ末、道中持ち歩く重さと値段の折り合いのついた、おさしみに合うという醤油を購入した。
外観もさることながら、店内もとても情緒がある。古い看板や醤油造りの道具などが置いてある。とても、心が落ち着く店内だ。
店先に下がっていたロゴ入りの布製の袋もとてもすてきだったので、えんじの小さい袋を購入。お米屋さんや酒屋さんも掛けている前掛けのようなしっかりとした生地でできている。もとは、お醤油を運ぶ袋だそうだ。
店先に下がっていたロゴ入りの布製の袋もとてもすてきだったので、えんじの小さい袋を購入。お米屋さんや酒屋さんも掛けている前掛けのようなしっかりとした生地でできている。もとは、お醤油を運ぶ袋だそうだ。
天明7年(1787)近江商人岡忠兵衛が、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ銅(あかがね)街道の要衝として栄えた群馬県大間々の地に、「河内屋」の屋号を掲げ、醤油醸造業を営んだのが始まりです。以来、伝承の製法で昔ながらの木製大桶に仕込み、自然の気候にまかせてじっくりと醗酵熟成させる天然醸造の醤油造りにこだわり続けてまいりました。明治30年には、高崎市常磐町の旧中山道沿いに岡醤油醸造を開店し、当時のままの建物を活かした店舗は、映画の撮影に使われたり、当時の雰囲気をしのばせる観光スポットとして、人気をいただいています。(店のちらしより)
高崎と言えば、高崎だるま。道々にだるまを作る工場(こうば)があった。この写真は、比較的大きなだるまを乾かしているところ。実は、道を間違えてしまって通りがかった工場。遠回りになったけれど、よいものが見られた。
烏川を渡ると、飯野家茶屋本陣がある。資料館になっているようだが、本日はあいにく休館。歩を進める。道祖神・一里塚などが残っている。大きな鳥居の八幡八幡神社を過ぎると、板鼻宿だ。
烏川を渡ると、飯野家茶屋本陣がある。資料館になっているようだが、本日はあいにく休館。歩を進める。道祖神・一里塚などが残っている。大きな鳥居の八幡八幡神社を過ぎると、板鼻宿だ。
板鼻宿
高崎から一里三十丁。板鼻は関東と信濃の国境・碓氷峠の登り口に位置し、古来武将の往来も盛んで、源義経が金売吉次と奥州に下る途中、伊勢三郎と出会ったという伝説がある。天保14年で人口1422人、家数312軒。本陣1、脇本陣2、旅籠54軒。鷹の巣山の下に、碓氷川の渡し場あり、「徒ち渡し」の有名な所で、増水すると川止めになった。それで、旅人が多数逗留して板鼻宿は繁盛した。(「中山道を歩く」(山と渓谷社)より)
公民館のところが板鼻本陣跡。本陣木島家には、皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁の折、宿泊した。奥に本陣書院が残されている。明治天皇の行幸の際に改装した建物だそうだ。
公民館の隣にある花屋さんは、土蔵造りの家の名残がある。
安中宿
天保14年で人口348人、家数64軒。本陣1、脇本陣2、旅籠17軒。宿場の規模は、板鼻よりずっと小さい。(「中山道を歩く」(山と渓谷社)より)
安中市の中心部にある郵便局の前に「安中宿本陣跡」の碑がある。
ここから、山側の安中城跡の方へ向かうと、旧碓氷郡役所や安中キリスト教会、大名小路と呼ばれる通りがある。かつては安中藩士の家が並んでいたらしい。
通りの左側に、旧安中藩郡奉行役宅と旧安中藩武家屋敷が復元されている。四軒長屋が復元されているが当時は、五軒長屋だったそうだ。庭に飛び出している屋根の部分はトイレ。少し出ている所は、流し。庭に、共同の井戸があった。
ここから、山側の安中城跡の方へ向かうと、旧碓氷郡役所や安中キリスト教会、大名小路と呼ばれる通りがある。かつては安中藩士の家が並んでいたらしい。
通りの左側に、旧安中藩郡奉行役宅と旧安中藩武家屋敷が復元されている。四軒長屋が復元されているが当時は、五軒長屋だったそうだ。庭に飛び出している屋根の部分はトイレ。少し出ている所は、流し。庭に、共同の井戸があった。
安中で有名なのは、「安中遠足(とおあし)」遠足は、マラソンのこと。板倉勝明候が、安政2年(1855年)藩士の心身の鍛錬のために始めたもの。碓氷峠の熊野神社までの七里余りを走る。日本のマラソンの起源とされ、現在は、5月の第2日曜日に「遠足マラソン」として催されている。通り沿いのタンクにも、こんな立派な絵が描かれていた。
また、沿線の和菓子屋さん洋菓子屋さんには、「遠足マラソン」にちなんだお菓子が売られている。最初に目に入ってきてのが、「丸田屋」さんの「遠足おにぎり」おにぎりの形をしているが、米の粉で作ったふわっとしたまんじゅうで、中に餡が入っている。しそみそとわかめの二種類がある。ごまが足型についているところが心憎い。これが、結構おいしい!http://www.maruta-ya.co.jp/
原市の杉並木。江戸時代の初めに植樹されたそうだ。天保15年(1844年)には、731本あったという。その後、減り続け今では、大きな木は、数えるほどしか残っていないが、間に後から植えられた小さな杉がかわいく並んでいる。
杉並木を過ぎると、高札場跡の碑があり、茶屋がある。
妙義道の常夜灯を見て、松井田宿に着いた。
本日の道程、実に20キロ。いやあ、さすがに疲れた。
24時間テレビで芸能人がにわかランナーになって走るが、その後半は歩いている。歩いていても、立ち止まってしまう。走れなくても歩くならなどと思っていたが、大きな間違いだった。20キロ歩くって大変なことだ。
24時間テレビで芸能人がにわかランナーになって走るが、その後半は歩いている。歩いていても、立ち止まってしまう。走れなくても歩くならなどと思っていたが、大きな間違いだった。20キロ歩くって大変なことだ。
間近に迫ってきた妙義山が、ご褒美に、美しい夕景を見せてくれた。