2007年11月25日(日)
新町宿~倉賀野宿~高崎宿を歩いた。行程は、13km。
新たに購入した「街道てくてく旅」(講談社)を事前に読み、勅使河原さんが行った和菓子屋と食堂をチェック。また、「上野七宿散策絵地図」(ぐんま中山道ルネッサンス協議会)を持参して行った。この絵地図は、「高崎河川国道事務所」で無料でもらえる。返信切手を同封して郵送してもらった。
今回も、車で行った。新町の駅前にパーキングがあることを調べてあったので、そこをめざして行ったが、あいにく満車。そこで、近くのスーパーに置かせてもらうことにした。何も買わずに置くのは気がひけるので、おにぎりや飲み物を購入して歩き始めた。
新町宿
新町宿は本庄から2里。江戸から11番目の宿場。この宿は中山道が開かれた時は寂しい寒村だったが、後に町並みが出来て落合村と笛木村の2つが合流した。天保14年で人口1437人、家数407軒。本陣は落合新町に2、脇本陣は落ち合い新町に1。旅籠43軒。(「中山道を歩く」(山と渓谷社) 昔は茶店だった八坂神社や、高札場だった行在所公園を通り、小林本陣跡・一茶が泊まった旅籠後などを経て、関越をくぐる。烏川の土手に沿った細い道を歩いた。民家と野菜畑の中を進むのどかな道。なんの標識もなかったので、本来の中山道ではなかったかもしれないが、通りすがりの人と「こんにちは」と自然に挨拶をかわすような心地よい道だった。
大根の収穫時期。大根を振り分けにして竿に干している風景を何度も目にした。あんなにたくさんの大根を干しているを間近に見るのも、干している作業を見るのも初めてだった。 旧中山道は、烏川を渡る。当時の渡し場より少し先の柳瀬橋で、川を渡った。
倉賀野宿
倉賀野は江戸から12番目の宿場。ここは烏川と利根川を利用する江戸通いの物資運搬船の、最上流の河岸でもあった。天保14年の人口2312人(男1417人、女895人)、家数2917人。本陣1。脇本陣は2。旅籠32軒。(「中山道を歩く」(山と渓谷社) 倉賀野追分は、日光例幣使道との分岐点で、常夜灯があった。倉賀野の本陣跡は、スーパーになってしまっていたが、脇本陣だった建物が残っていた。
倉賀野宿には、旅人が新しいわらじに履き替えたり、履き潰したわらじを供養したりする場所があったという。それにちなんで星野さんが作るわらじの形をした「わらじパイ」は人気商品だ。「街道てくてく旅」(講談社)ということで、星野さんのお店により、わらじパイを食べながら歩いた。
松の並木道を通り、上越新幹線の下をくぐる。そして、上信電鉄の踏み切りを渡る。家並みすれすれを通る線路。踏み切りを渡り終えたところで、警報機が鳴り始めたので、どんな電車が来るか待った。レトロっぽい車体を予想してたが、シマウマの柄。群馬サファリパークの広告車両でびっくりした。
高崎駅から電車に乗り、二駅戻って、新町駅へ。いつも思うけれど、電車に乗れば、ほんの僅かな時間の距離であっけない。それでも、今回は、寄り道が少なく、ただただ歩いた所が多かったので、時差はいつもよりは少なかった。
次は、一泊二日で、年末に行く予定。松井田宿までかな?
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