比叡山の借景庭園、円通寺(圓通寺)
円通寺は、京都市左京区岩倉幡枝町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は大悲山。
円通寺の庭は、知る人ぞ知る比叡山の借景庭園。借景とは、景色を借りるように庭園の背景に在る景色自体を庭園の一部として利用するもの。比叡山の借景を得るために後水尾天皇は各所をまわってようやくこの地を探し当てた。京都の借景庭園でも白眉の完成度を誇る。ちなみに修学院離宮も後水尾天皇によるもの。江戸時代初期に幡枝離宮を寺に改めたもの。
円通寺はこの庭園を護るため、少しづつ周囲の土地を買い足し、ガイドブックにも極力載らないようにし、小学生以下拝観禁止、団体は事前申込制、写真撮影厳禁を貫いてきたそうだ。一方では、この庭の先に大規模開発の許可がおり、庭園の景観はこれまでと悟った住職が写真撮影の許可を出したとされる。その後、京都市は円通寺庭園など借景を保護するための眺望条例(正式名称は京都市眺望景観創生条例)を制定した。
なお、この寺は、入場後流されるテープによるガイダンスを必ず聞いてから、撮影が許可されるのでご注意を!
源光庵の丸窓と四角窓
今年の京都訪問で最も楽しみにしていた、源光庵の丸窓と四角窓から見る枯山水庭園。
朝起床して、真直ぐ向ったにもかかわらず、源光庵到着時点ではかなりの観光客。洛北の人気スポットのひとつだ。
1346年(貞和2)大徳寺2代徹翁義享国師によって開創。1694年(元禄7)卍山道白禅師により臨済宗から曹洞宗に改められた。現在の本堂はその年の建築されたもの。
本堂の庭に向かった壁面には丸い窓と四角い窓が開けられていて、四角と丸に縁取られた絵のような光景は禅の教えを表現している。丸い窓は「悟りの窓」といわれ、何事にもとらわれないおおらかな気持ちを「禅と円通」の心で表し、角窓は「迷いの窓」といわれ、生きることや病、死ぬことなど日々のさまざまな苦しみの「人間の生涯」を表している。窓越しの枯山水庭園をしばらく見つめ禅の境地の一端に触れることができる。
また、本堂の天井は、伏見城の遺構で、落城の悲劇を伝える血天井。
天井板は伏見桃山城から移築したもので、1600年(慶長5年)に徳川家家臣鳥居元忠らが石田三成に破れ三百八十余人は城内で自刃したときの跡が残り、血天井となっている。
アクセス
京都市営地下鉄烏丸線京都駅→京都市営地下鉄烏丸線北大路駅
(市バスに乗り換え:「北大路バスターミナル」より)→市バス北1 が早い。
「北1」系統にて「鷹峯源光庵前」下車
京都最古の自然が残る池(天然記念物の生物群集)
「深泥池」と書いて『みぞろがいけ』。
実は地元の方に、鞍馬街道からこの池に抜けたいのだがと、声をかけてみたところ、『みぞろがいけ』と発音されて唖然としてしまった。お話しするまで、読めませんでした。
1927年に、深泥池の水生植物群落が国の天然記念物に指定された。1988年には、極めて特異な生物群集が天然記念物の指定対象として、動物を含めた「深泥池生物群集」に変更された。
周囲1.5kmの小さな池に見えるが、現代でも氷河時代以来の動植物が生息する貴重な池。京都盆地は暖温帯に属すが、この池には東日本北部の冷温帯に成立する高層湿原が残っている。北方系の動植物が共存しているとか。
浮島が存在し季節により上下変動する。夏は浮かび、冬は沈む。冬に冠水する浮島やその周囲にミツガシワやカキツバタが生育する。分布の南限となっているホロムイソウも生育する。
何故かしら北海道と親しい関係も。
興味津々訪れてみたものの季節が秋ゆえ、紅葉を見て次の目的地へ。
小生なりの観光でした!
大田神社は上賀茂神社(賀茂別雷神社)の摂社で、踊りや芸能の神様として知られる『天鈿女命(あめのうずめのみこと)』が御祭神。平安時代中期に編纂された延喜式にも載っている古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬を受けてきた。
本殿、拝殿ともに1628年(寛永5年)に造営された。本殿は一間社流造。拝殿は「割拝殿」という古い形式。
神社入り口の東側には、「大田の沢」と呼ばれる沢池があり、古代より野生の杜若(かきつばた)が自生する場所として有名。5月上旬より紫一色の花を咲き始め、下旬まで約2,000平方メートルの沢一面に咲きほこる。昭和14年に国の天然記念物に指定されている。
1190年(文治6年)に、『千載和歌集』の編者で著名な藤原俊成が、紫一色に染まる様子を一図な恋心に例えて詠んでいる。
~~ 神山や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ ~~
この大田神社の背後の小山には、「大田の小径」と呼ばれる散策路が続く。神社の西側の道を山手に向かって歩いて行くと、その散策路入り口の標識に出会う。北大路魯山人が愛したという山つつじが出迎える山道を進むと、展望箇所が設けられ、好天時には京都タワーや伏見桃山城を遠望できる。
この大田の小径に一歩踏み入れたところで、偶然遭遇したのがニホンジカ。写真には一頭だけ写っているが、背後には数頭群れを成していた。他に観光客もなくとても恐怖を感じた。ヒグマ同様、睨みつけながら後ずさりして逃げることにした。写真撮影したくらいだから冷静だったかも。
史跡 詩仙堂 丈山寺
石川丈山は、隷書、漢詩の大家であり、煎茶の開祖。
石川丈山は、家康に仕え、平素から読書に親しみ特に詩を好む。59歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を、清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ。その庭は当時でも代表的な名園、後世修理が加わった今でも現代に引き継がれる。 詩仙堂には様々な文献や書などが遺されている。
いま、詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸?であり、詩仙堂はその一室である。凹凸?とは、でこぼこした土地に建てた住居というほどの意。
ここを訪れるのは、かれこれ3度目、春に1度、秋は2度目となる。
コンパクトに纏まり、見る者を唸らせるこの名園は、毎年訪れるたびに観光客が増えているように感じる。四季折々の姿を納めてみたいものだ。
詳しくは、HPにて↓↓
http://www.kyoto-shisendo.com/Ja.html
2011/11/23(祝日)
『妙満寺』
日什上人(にちじゅうだいしょうし)は日蓮大聖人の遺志である帝都弘通を想い、1389年六条坊門室町に妙塔山妙満寺を建立し、根本道場とした。
妙満寺はその後、応仁の乱など幾度かの兵火に遭い、1536年、比叡山の僧徒による焼き討ちで二十一坊の大伽藍を類焼。そして、1583年豊臣秀吉の時代に寺町二条に移され400年にわたり「寺町二条の妙満寺」と親しまれてきた。
その後、昭和43年に「昭和の大遷堂」を挙行。現在の岩倉の地に移る。
【後方は比叡山と紅葉】
『雪の庭』
俳諧(俳句)の祖といわれる松永貞徳(1571~1653)の造営した枯山水の庭です。
松尾芭蕉や与謝蕪村などを輩出して確立し今日に至る。妙満寺は俳諧(俳句)の地といえます。
妙満寺の塔頭・成就院の時の住職日如上人は貞徳の門下であり、その縁からこの「雪の庭」を造営。清水寺本坊の「月の庭」、北野(一説に祇園)の「花の庭」(現存しない)とともに、いずれも成就院にあったことから成就院「雪・月・花の三名園」と並び称す。
昭和43年妙満寺が中京区の寺町二条からこの岩倉の地に遷堂した際、石組みをそのままに移築し本坊の庭として復興。
☆☆本日の行事☆☆ お急ぎください!!
「大根だき」
平成23年12月3日(土)午前11時より
一椀…500円
※午後3時、または無くなり次第終了となります。
拝観料 本坊(雪の庭、展示室)への拝観料は、当日に限り250円(通常300円)になります。
「紅葉ライトアップ 夜間特別拝観」
期間 平成23年11月23日(水・祝)~12月4日(日)午後6時~午後8時
拝観料 本坊(雪の庭、展示室)への拝観料は300円。屋外は無料です。
詳しくは、HPにて↓↓
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/info.htm