barayuka雑記

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「あるとき、ないとき」

2024-10-13 19:53:31 | 詩のようなもの
「あるとき、ないとき」というのは関西の人なら聞いたらピピっとくるお馴染みのネタだけど、よく考えたらどの範囲の人が知っているのか、よくわからない。551の豚饅は関東圏でも売っているようだ。でも、あのCMはどうなんだろう。興味のある人ならちゃちゃっと調べてYouTubeで見られる時代なので、今や完全な内輪ネタというわけでもない。インターネット時代は開かれている。

近畿、徳島を放送圏とするMBS毎日放送とサントリーが手がける1万人の第九のレッスンに出てると、こういうお馴染みのネタみたいなのが時々出てくる。「あるとき、ないとき」というのは、雰囲気的には内輪ネタとして出てくる。出てくると笑いどころがわかるのでホッとする。

この数年、自分でも思わずしてSNS張り付き生活みたいになってしまい、現実の手触りが薄れ、このままではいけない、社会復帰しなければ、と思いつつなかなかうまく出来ず、以前に何度か参加している1万人の第九に応募して、もしあたったら練習に参加して、そこで社会に触れよう、ということにした。無事当選し、レッスンにはもう何度か参加している。初めて出会った先生が「あるとき、ないとき」とネタをはさみながらレッスンをしてて、「うわっ。やっぱり関西やな」というか、「大阪やな」と思った。レッスン会場は拡大しているけどやはり大阪中心で、最終的には大阪城ホールで本番を迎えるのだから、大阪のイベントという色が強い。中身は関西ノリや、テレビ局のイベントっぽい業界ノリみたいなのがたくさんちりばめられており、ウォーミングアップで六甲おろしを歌った回もあった。私は完全に知ってるわけじゃないけど、おかげさまで大体は歌えたし、楽器でも吹けると思う(多分)

レッスンも回をかさね、当初の目的通り、移動を経て会場に入り、レッスンを受けて帰ってくるという行動の中で、久しぶりに所属するという感覚を味わっている。会場でドイツ語の歌詞の読み方や意味を教わったり、発声練習をし、譜読みも一からしてベートーヴェンの交響曲第九番の合唱を仕上げていく。合唱を長年やってる人もいたりして、とても上手い人もいる。練習してると徐々に以前より声が出やすくなったり、周りともあってきたり、譜面も覚え、全体に仕上がっていくのを感じて、ちょっと温まって帰ってくると、あれだけ張り付いていたSNSから距離をとっていられる自分に気が付いた。
移動の間、会場での楽しかった記憶を反芻しながら家に帰ってくると、両親がテレビを見ている。その間の移動。そこにあるのは「あるとき、ないとき」だ。ない時に感じるほのかな寂しさは、あるときの温かさとセットになっている。あるときがあるから、ないときに寂しさを感じ、ないときがあるからあるときが楽しくなる。「あるとき、ないとき」はしみじみとした、深い言葉だと思った。
帰ってくると、鶏の水炊きがコンロにあって、あっためて食べる。これも「あるとき」だ。味わって食べる。大阪のこういう昔からあるようなテレビのネタは、あったかくて妙に深いので私は好きだ。

私はこれを社会復帰のため、ということを言い聞かせて参加しているのだけど、改めて、これって社会復帰のためにはとても有効なのではないだろうか。
大体の人間は社会参加は学校に通うところから始まっていて、集団に所属するというだけでなく、明確に役割の決まったレッスンを受けて、その間、生徒のようにレッスンを受けていく。ドイツ語を教わり、ベートーヴェンの人生や作曲されたときの時代背景に触れる話が聴けたりもする。レッスンを受けているうちに歌が変わって行ったり、あきらかによくなっていく手がかりを得られると、楽しくなってくる。レッスン回数が決まっていて、きちんとゴールになる発表の場がある。本番は大阪城ホールという大きな舞台でのオーケストラの演奏と一緒に一万人のメンバーで合唱をする。指揮者は佐渡裕さん。ゲストも招かれる。昨年がEXILE TAKAHIROさん、過去に参加した時は辻井伸行さん、森山良子さん、槇原敬之さん、平原綾香さんがゲストだった。歴代ゲスト(リンク先参照)を見ていても、布袋寅泰さん、角野隼斗さん、 反田恭平さんなど、かなり豪華だ。

もう少し書こうかと思ったけどこのくらいにしておく。
マイペースに。生活に即して続けることが大事かなと思ったので。





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