barayuka雑記

時々立ち寄る場所

回想記録 2024/11/02

2024-11-02 05:20:56 | 詩のようなもの
思い出すのが、クリニックの敷地にある、クリニックの建物と介護施設、駐車場、自転車置き場、ベンチで、ベンチの脇に自分の乗ってきた自転車を置いて、私はベンチに寝転んでいた。寝転んでいるのに何故かその情景を上から見下ろしているような映像が自分には見える気がする。そしてアヴェ・マリアのメロディーが聞こえる気がした。

私はキリスト教を知らないけど、自分の関わる生活のどこかにそれは埋め込まれていて勝手に再生されてくることが不思議で、そのルーツについて思いを巡らせた。結局わからなかったが、それが存在することを感じ、それに救われていることを感じていた。私は西洋の神との間に繋がりがあるらしいとぼんやりと思った。




私はその時、システムの中にいた。地上に落ちたのだから、今一度考えないといけないだろう..










「あるとき、ないとき」

2024-10-13 19:53:31 | 詩のようなもの
「あるとき、ないとき」というのは関西の人なら聞いたらピピっとくるお馴染みのネタだけど、よく考えたらどの範囲の人が知っているのか、よくわからない。551の豚饅は関東圏でも売っているようだ。でも、あのCMはどうなんだろう。興味のある人ならちゃちゃっと調べてYouTubeで見られる時代なので、今や完全な内輪ネタというわけでもない。インターネット時代は開かれている。

近畿、徳島を放送圏とするMBS毎日放送とサントリーが手がける1万人の第九のレッスンに出てると、こういうお馴染みのネタみたいなのが時々出てくる。「あるとき、ないとき」というのは、雰囲気的には内輪ネタとして出てくる。出てくると笑いどころがわかるのでホッとする。

この数年、自分でも思わずしてSNS張り付き生活みたいになってしまい、現実の手触りが薄れ、このままではいけない、社会復帰しなければ、と思いつつなかなかうまく出来ず、以前に何度か参加している1万人の第九に応募して、もしあたったら練習に参加して、そこで社会に触れよう、ということにした。無事当選し、レッスンにはもう何度か参加している。初めて出会った先生が「あるとき、ないとき」とネタをはさみながらレッスンをしてて、「うわっ。やっぱり関西やな」というか、「大阪やな」と思った。レッスン会場は拡大しているけどやはり大阪中心で、最終的には大阪城ホールで本番を迎えるのだから、大阪のイベントという色が強い。中身は関西ノリや、テレビ局のイベントっぽい業界ノリみたいなのがたくさんちりばめられており、ウォーミングアップで六甲おろしを歌った回もあった。私は完全に知ってるわけじゃないけど、おかげさまで大体は歌えたし、楽器でも吹けると思う(多分)

レッスンも回をかさね、当初の目的通り、移動を経て会場に入り、レッスンを受けて帰ってくるという行動の中で、久しぶりに所属するという感覚を味わっている。会場でドイツ語の歌詞の読み方や意味を教わったり、発声練習をし、譜読みも一からしてベートーヴェンの交響曲第九番の合唱を仕上げていく。合唱を長年やってる人もいたりして、とても上手い人もいる。練習してると徐々に以前より声が出やすくなったり、周りともあってきたり、譜面も覚え、全体に仕上がっていくのを感じて、ちょっと温まって帰ってくると、あれだけ張り付いていたSNSから距離をとっていられる自分に気が付いた。
移動の間、会場での楽しかった記憶を反芻しながら家に帰ってくると、両親がテレビを見ている。その間の移動。そこにあるのは「あるとき、ないとき」だ。ない時に感じるほのかな寂しさは、あるときの温かさとセットになっている。あるときがあるから、ないときに寂しさを感じ、ないときがあるからあるときが楽しくなる。「あるとき、ないとき」はしみじみとした、深い言葉だと思った。
帰ってくると、鶏の水炊きがコンロにあって、あっためて食べる。これも「あるとき」だ。味わって食べる。大阪のこういう昔からあるようなテレビのネタは、あったかくて妙に深いので私は好きだ。

私はこれを社会復帰のため、ということを言い聞かせて参加しているのだけど、改めて、これって社会復帰のためにはとても有効なのではないだろうか。
大体の人間は社会参加は学校に通うところから始まっていて、集団に所属するというだけでなく、明確に役割の決まったレッスンを受けて、その間、生徒のようにレッスンを受けていく。ドイツ語を教わり、ベートーヴェンの人生や作曲されたときの時代背景に触れる話が聴けたりもする。レッスンを受けているうちに歌が変わって行ったり、あきらかによくなっていく手がかりを得られると、楽しくなってくる。レッスン回数が決まっていて、きちんとゴールになる発表の場がある。本番は大阪城ホールという大きな舞台でのオーケストラの演奏と一緒に一万人のメンバーで合唱をする。指揮者は佐渡裕さん。ゲストも招かれる。昨年がEXILE TAKAHIROさん、過去に参加した時は辻井伸行さん、森山良子さん、槇原敬之さん、平原綾香さんがゲストだった。歴代ゲスト(リンク先参照)を見ていても、布袋寅泰さん、角野隼斗さん、 反田恭平さんなど、かなり豪華だ。

もう少し書こうかと思ったけどこのくらいにしておく。
マイペースに。生活に即して続けることが大事かなと思ったので。




意味ありげな人たち

2024-09-15 10:23:29 | 詩のようなもの
困るのは、無関係な人が暴こうとすることだ。
忘れて普通に生きていこうとすることを許してもらえないことだ。
ただ普通に穏やかに生きていきたいと思うことが許されないことだ。
努力してるのに、納得いかないのは全部そっちの都合だよな。

怒らないようにしているのに怒りの強い人という前提にされたりするくらいなら、無関心でいてほしい。
お前らの人生の安全を獲得することを、他人を都合よく調整することで確保しようとしないでほしい。
頼まれてもいないことを勝手に解決しようとしないでほしい。
優しさでもおせっかいでもない。境界侵犯して、迷惑をかけてるのに、なんで気づかないの。
私が苦労して保っている人としてありたい自分としてやってることを、なんで全部台無しにするの。
お手軽に解決したいって、全部自分本位の考えでしかないのに、なんでしてやってると思ってるの。

推測で語るしかない状況でここまで私に言わせて、なんで平気でいられるのかな。当事者として、自分が考えてきたことのほうがはるかに真実だってなんでわからないかな。
それとも、自分たちが被害者だとでも思ってるんですか。

長い時間、誰にも助けてもらえなくて全部自分でやってきて、それさえ奪われてるのに、私のどこに利益があって、どのように得してると思いますか。
障害年金も生活保護も何一つもらっていない。社会的身分も確保されず、配偶者も子供もいない。こんなに努力してきたのに、誰にも謝ってももらえない。お前らに出来ることってありますか。

こういうことを、私が直接ぶつけたりなんて、別にしてないでしょ。誰にどういっても、めんどくさいって思われるだけでしょ。おいかけまわすくらいならさっさと言いたいこと言ってくれたほうがラクなのに、介入するかしないのかはっきりしてほしいし、でもどうせするだけの力もないわけじゃないですか。

私ははっきり言って憎んでますけど、そういう話をカウンセラーだってやたら偉そうなのに本当に口だけだから、専門家として務めを果たそうともしないわけじゃないですか。東京ってそのくらいプライドだけは高いくせに嘘ばかりなんだよな。

幸福追求権があるから幸福を追求してるのに、さっさと諦めてほしいわけですよね。めんどうだから。そのほうが自分たちがラクだから。自分たちがラクになるために、誰かに不幸になってほしくて、他者を幸福にするためにあるべきしごとをいい加減にしたりしてサボっているわけですよね。

憎む権利はあると思う。お前らがあるべき仕事の意味を理解しないのは、お前らの怠慢ですよね。世界を報われないものにしてるのは、お前ら自身ですよね。お前らは獰猛だから、世界の安全を誰かを殺すことで解決しようとした、それしかできない獣なんですよね。学歴、とか、教養とか、ごっこ遊びで、何一つ中身もない形だけの獣ですよね。

武器を持って戦う人間が、人間としての尊厳を傷つけられたという時、ここまでのことを思っているなら、私は武器を持つ人の気持ちがわかるかもしれない。それをわかった上でなお武器を持たない選択をする人は勇気のある人間だと思うけど、教科書を読んだだけの薄っぺらい知識で戦争反対なんていう人もまた、薄っぺらいのだと思う。人は不完全なので間違わずにいられないというのは、人として生まれた以上仕方ないのだと思う。そのために教育を受けて、そのうえ失敗してもそれを許容されながら成長を待たれているのに、それでもやはり、足りないのだろうか。

待たれているのは私ですか?つらいことを経験してもそれを乗り越えて今を生きようとしているのに、過去を突きつけようとする人は何をしたいのでしょうか。その人が私に言いたいことがあるなら、私に察してもらうことを待たずにきちんと言葉にしてほしい。怒っているなら怒っていると言ってほしい。言葉にすべきなのはそちらなのではないですか。

他人から搾取したり略奪しておきながら、謝ったり埋め合わせをするのではなく、自分たちを恐れて生きろというのですか。きっと神を信じるということは、力で言うことをきかせようとすることではなく、裁くのは自分ではないから神にゆだねて自分の今を生きろということなのだと思う。そうなのだとしたら、私は神を信じる人なのだと思う。だけど、どっちが優れてるとか劣ってるとか言いたいわけじゃない。

神を信じて失うものもきっとあるのだと思う。それをどうしたらいいのか、私はまだ考えあぐねています。殴ったり憎んだりできるならそうしたほうがいいのかもしれない。私は昔、神のような母親に絶望したことがあるから、人間らしく生きたい気持ちがあるけど、自分の意思ではどうしようもない解離があって、直面しきれないところがある。特定の関係でいうならば、過去のことなんてどうしようもないと思っているのに、過去を暴こうとしたり目の前に現れたりなんてしないでもらえますか。無関係な人は介入しようとする傲慢をやねていただけませんか。お前には関係ないよね、と思う人が意味ありげに何かを確認してこちらを見るとき、この人たちは何かしらの暴力性を持つ人なのだなと思うわけです。何か問題があるならきちんと言葉にしてほしい。

優越感を感じますか。万能感を感じますか。でもそれって、自分だけの世界に生きてるのではと思う。私はあなたたちの思っているよりは強い自我を持った人間ですよ。








ついていけない世界

2024-09-10 19:16:26 | 詩のようなもの
ここ何年も直面してきたこの感覚が、ますます決定的なものになってきているのを感じる。私は話が見えないので、はっきりいってあらゆるものを推測でとらえるしかなくなっていて、ずっと毎日考えてばかりいる。
わかりやすくいえば、みんながスマホを持つようになった時代、ということなんだろうけど、スマホの移行で何度も傷ついたりパニックになるような経験をしてきているので、はっきりいってもう嫌だなと思ってる。スマホ、やめてしまおうか。

大学を中退してから、自分が持っているものをつかって、無理して世の中に適応しようとしてきた。それは、私にとっては仕方なかったことだとしか言いようがない。環境がなければわからないこと、情報が得られないことがあると、理屈ではわかっていても、なんとかあるものをすがって前に進むしかない。それだけだったらよかったのだけど、メンタルの問題にも直面した。多分、言葉で書いても伝わらないくらい、それは大変なことだったし、不幸なことは、病院にかかっていたのに、お医者さんのこともあんまり信じられてなかったことだ。

私はこれは当たり前だと思うのだけど、若ければ自分と同じ世代の人とできるだけ同じ時代をきちんと生きたいのだということ。だから、私はずっと同世代の人と同じになることが目標だった。私は氷河期世代と言われる世代だけど、多くの人が就職で苦労した世代と言われても、私の感覚では私はそれ以前にドロップアウトしているので、まったく感覚が違うところがあると思っている。だから、私の「わかってもらえない」という感覚は、もっと早くからはじまっているのだ。ドロップアウトしてしまったら道がなくなってしまうということ、そこに戻る方法はないということ。それを認めたり受け止めたりすることは本当に難しいことだった。
基本的には、私は精神的に結構強いものを持っていたと思う。だからこそ、自分に何もないとは思えなかったから頑張り続けるしかなかった。自分に求めるものは高くなってしまうのだ。だからすごく傷ついても、自分を元のレベルになるべく保とうとすることをしはじめてしまう。

でも周りからは想像もできないくらい、多分私はものすごい葛藤を経験している。「魂の殺人」という言葉が軽く使われすぎている、という言説を最近Twitterでみかけたけど、言っている人の気持ちは何が言いたいのかはとてもわかるのだ。でも、残念ながら、本当にそういうことがあるとしか言いようがない。でも多分理解はされないだろう。
強く人を憎んだことも殺意を感じていた時期もあるけど、私は精神力が強すぎて、それを全部自分で克服する道を選んでしまった。そうするしかなかった。

克服しようとする途上、克服したいとはいえ、自分がものすごく強く感じた憎しみが、なくなってしまったらそれはそれで怖い、というのが私が恐れていたことだった。憎む気持ちを自分で受け止めて、全面的にそれを自分に許しつつ、それを暴走させたりしないようにする、というのは、至難の業だった。自分自身に対して薄氷を踏むような思いで自分と向き合うしかなかった。それはある意味自分で自分を殺すようなことでもあった。言葉では説明できないけど、二度殺されたような感じだった。
私はその過程で自分を許すように努めてきた。きっと人に話せないからつらいのだと思っていても、カウンセリングにいっても昔の知り合いにあっても、それをどんなふうに切り出していいのかすらわからなかったから、私は笑っていたと思う。わからないのが普通だ、という思いもある。わかってもらえないことを責めることなんてできることではないと思っていた。

時間は有限で、社会の中で「普通」を手に入れるためには、時間制限があった。私には色んなことに時間が必要で、仕方なかったと思う。そんな間に、ある日、携帯ショップにいったらiPhoneをすすめられた。「いまみんな半分くらいはこれですよ」という店員さんの言葉を受けて、iPhoneにした。こういった新しい体験をするときに、私は分かち合う人がずっといなかった。なれない新しいデバイスとひとりで格闘した。「老人でも使えるらしいですよ」という販売員の言葉には含みがあるように感じたけど、実際に見下しだったのだと思う。夜中にsiriが突然起動して何かいいはじめたり、うまく言葉にできない恐怖を感じるようになった。
ここでは言えないことや言いたくないことがたくさんある。どうやっても言いたくないこともある。Twitterをやっていたし、つらいことがあったからこそネットに繋がってきたことが結局裏目になって、そこで孤独を感じるようになった。Twitterであった人は、多くの人が毒親問題、精神疾患の問題、性被害などみんな苦しんでいたけど、私はそういう人ともうまくわかりあえなかった。

つらいと言って怒りたいときに、克服しようとした人ってきっと邪魔だったんだろうと思う。はっきりと自分にとってはアウェイだった。理解しようと努めていたけど、だんだん辛くなっていった。憎しみを感じるようになっていった。承認欲求なんて言う言葉がこんなにも注目されるようになったのに、だから優しくなろうとするよりも、それで認められた人の勝ち、みたいなふうに感じられることもあって、そういう価値観が、私は心底嫌になった。

カウンセラーさんが「みんな自分のことしか考えてない」とつぶやいていたのを覚えている。私に合わせていったのか、カウンセラーさん自身の気持ちだったのかは、私にはわからなかった。でも、私は本当に嫌いになりました。ついていけなくてもいいや。こんな冷たい世界になじみたくない。私だって憎みたくなることだってあるよ。十分に憎んできたのに、それをさらけださないと許してもらえないという。どうせかわいそうポルノになって終わりじゃないか。

辛い思いを私はすごく頑張って乗り越えてきたと思う。だから偉いと言いたいのではなく、納得できるようにそうしてきた。私はそれでも自分が人間として大事なものを失わないように、くじけそうになりながらも何度も気を取り直してやってきた。だから、他人に関心がないことを正当化して他者を一切みとめなくて、どうでもいいことでマウントをとる人が心底嫌い。何一つ尊敬できないと思った。

挙句の果てに、私が賢さで負けたくないと思ってるように見える人がいるらしい。馬鹿にするなと思う。そんなくだらないことで勝った負けた言う人になりたくない。世の中には能力の高い人も低い人もいて、でも、「そういうものだ」と思うより、「見返して勝ちたい」と思う人が多いのかもしれない。自分は努力した、だから勝てた。あいつは努力しなかった、そういいたいのかもしれない。私は自分が努力したことを知ってるし、どんなことにたいして努力してきたのかも知ってる。その価値を、お前らだってきっとわからないんだよな、と私は思ってる。

私は自分から喧嘩を売ったり、決め付けたりもしてないし、基本的には変わらず誰に対してもきちんと接したいと思ってやってきた。はっきりいって、自分が出来ることがそれしかなさそうだったからなのだけど、それは私が唯一持てたことかもしれないので。だけど、その唯一のものさえ、出し抜いて見下したりしたい人がいるのだというのはすごく感じてきた。ずっと蚊帳の外だった。

私はそもそも東京に憧れはない。それ自体が悪いことだと全然思わない。自分がいる場所でその環境でベストを尽くしてきただけなので。そんなに見下すのだったらこっちには来ないでください、と思う。地方を見下し、人を軽視し、さんざん大騒ぎをして誰よりも自分のことだけを考えていた人に、地方をめちゃくちゃにされたくない。つらいことやうまくいかないこともあるから、周りと協調して生きていかないといけないと思うのに。

私は一番になりたいなんて思わないし、自分が人より優れてるとも思わないし、そうなりたいとも思わない。
他人の苦しみを馬鹿にする人がいたこと、絶対忘れたくない。

ひとりでどうにかするのはつらいのでカウンセリングを頼ろうと思うけど、カウンセリングがあんまり頼りにならないことが多いのでつらい。今のところ。

家に帰ってきた・・・ところでダラダラとひとりごと

2024-08-18 21:09:37 | 詩のようなもの
第九のレッスンが終わって家に帰ってきた。
帰る途中に感じたことを色々文章にしたりしながら帰ってきたけど、帰ってくるととても偏ったことを書いているなぁと思った。ただ、なんとなくそういう風にでも言葉にせずにおられない気がその時はしてしまうのだ。大げさだと言われそうだけど、自分の存在が消えてしまいそうに頼りないから、見えない敵に抵抗したり戦ったりしてしまう。実際にそういう人はいるかもしれないのだけど、わざわざ出かけて行ってしまうのだから自分が迂闊な気もする。

会場にいるときはとにかくとても楽しい。教わることがとても楽しくて、その時その時言われたことを受け止めて歌うのが楽しい。話をきいているだけで楽しい。でも、終わるとなぜか突然、疑心暗鬼の時間がはじまってしまう。これは何の時もそうで、素直に信じてしまった自分を直後に責めてしまうのだ。きっと私はあの団体と運命共同体なわけではないからだと思う。いつかどこかに去ってしまうような人間に本気で愛情を注いだりするわけにもいかないんだろう。帰ってきてみればそういうことがわかるのに、その場にいるといちいち振り回されてしまう。

人間は弱いから、私たちは集団だから、自分が思っているよりお互いに影響を受ける。子供のころは受け身でいてもいいし、怒られたりしないし、素直であることはむしろ賞賛される態度だったりする。そうして多くのことを学んだ過去の経験を同じように享受したくても、それだけでは済まないようなものがあるらしい。お金を払っているから客なのか、それだけではない責任や条件が求められるのか、どうなんだろう。
きっと、人によって、その集まりに求めるものが違うんだろう。音楽というのは簡単ではないなんて、私ごときが言うつもりはない。自分なりにまじめに取り組んで楽しめればいいし、その深度が人によって違ってもそれは仕方ないと思ってる。どっちにしろ、影響は受けずにいられないから。専門教育を受けたことが楽しむ心を摘み取ってしまうんだったら、私はそれは本末転倒だと思ってしまう、まじめにやることでさえ、誰かのプライドを満たすためにするのではないというか、そういうことをしたいならそういう場所にいけばいいのではと思ってしまう。私の個人的な考えでは、公募で参加者を募ってやることはそれとはまったく違う意義があると思う。開かれたチャンスならどんな人でも挑むことは自由だ。自分のやりたいことがあるなら他人に憎しみを向けている暇なんてあるだろうか。

私の考えが間違っているなら、私がその場から去るべきかもしれない。
自分のことでいっぱいいっぱいだと他の人のことなんて知る前にみんな自分より充実していたり恵まれてるように見えてしまうから、なんとなくわからない人間に対して敵視してしまうのかもしれない。私ごときに嫉妬する要素なんて全くないと思うし、むしろお前ごときが、という思いなのだろう。だとしても、私にも私の言い分があったりする。音楽の質について勝ち負けを決めたいというなら、そういう人こそ何か謙虚さを欠いてうぬぼれているのではと思ってしまう。私ごときだからこそそう思ってしまう。

許可したのは私ではない。それなら、私を当選させてくれた人に言ってほしい。私は自分の居場所を得られることが当たり前だなんて思っていないので、誰かに嫉妬してても、それをむき出しにしたり決してしたくないと思うけど。

純粋に音楽を、といっても、崇高なものであるべきと思っているわけではない。集まればどこかで縄張り争いみたいになってしまう、そういう感じは、人間としての嫌な部分だなと思う。そんなことする必要なかったんだ、というふうになれればいいなと思っているのだ。敵じゃないですよアピールをしたところで、そういう行動がかえって胡散臭く思えてしまうこともあるような気もする。人間は難しい。

上手に悪口を言えるのがうらやましいとか、思わぬ方向に学んでしまって、隠した嫌味を言ってくる人もときどきいる気がする。もともとの性格として皮肉っぽいなら全然いいのだけど、そういう人が結構やっかいだなと思う。皮肉っぽい人はなにも人に勝ちたいわけではないと思うのだ。皮肉っぽくなってしまうということは、本人にとっては割とじりじりと自身を抉りながらでもそうしてしまうようなところがあって、その原動力は自分が持ち続けたい信念や理想のためだったりする。決して勝ちたいからじゃない。浅はかな真似なんてムカついてしまう。

気が付いたらこんな年齢で、みんな結婚して子供がいて・・・当たり前のように、ほぼ既婚者ばかりの参加者なのは、歌詞の意味などを知ると当然のような気がするのだけど、明示されない境界を黙って受け入れないといけないのが人間なんだったら、もうあんなように新鮮に見えていた世界を見ることはにどと叶わないんだろうか。何もしらないふりをして、いつも初対面のように人に会っていたい。きっとでもあの場にいる人たちはそんな風に思わないんだろう。

歳をとりたくないなんて言わない。でも、ずっと新鮮な気持ちで学べるようでありたいと思ってしまう。