ここ何年も直面してきたこの感覚が、ますます決定的なものになってきているのを感じる。私は話が見えないので、はっきりいってあらゆるものを推測でとらえるしかなくなっていて、ずっと毎日考えてばかりいる。
わかりやすくいえば、みんながスマホを持つようになった時代、ということなんだろうけど、スマホの移行で何度も傷ついたりパニックになるような経験をしてきているので、はっきりいってもう嫌だなと思ってる。スマホ、やめてしまおうか。
大学を中退してから、自分が持っているものをつかって、無理して世の中に適応しようとしてきた。それは、私にとっては仕方なかったことだとしか言いようがない。環境がなければわからないこと、情報が得られないことがあると、理屈ではわかっていても、なんとかあるものをすがって前に進むしかない。それだけだったらよかったのだけど、メンタルの問題にも直面した。多分、言葉で書いても伝わらないくらい、それは大変なことだったし、不幸なことは、病院にかかっていたのに、お医者さんのこともあんまり信じられてなかったことだ。
私はこれは当たり前だと思うのだけど、若ければ自分と同じ世代の人とできるだけ同じ時代をきちんと生きたいのだということ。だから、私はずっと同世代の人と同じになることが目標だった。私は氷河期世代と言われる世代だけど、多くの人が就職で苦労した世代と言われても、私の感覚では私はそれ以前にドロップアウトしているので、まったく感覚が違うところがあると思っている。だから、私の「わかってもらえない」という感覚は、もっと早くからはじまっているのだ。ドロップアウトしてしまったら道がなくなってしまうということ、そこに戻る方法はないということ。それを認めたり受け止めたりすることは本当に難しいことだった。
基本的には、私は精神的に結構強いものを持っていたと思う。だからこそ、自分に何もないとは思えなかったから頑張り続けるしかなかった。自分に求めるものは高くなってしまうのだ。だからすごく傷ついても、自分を元のレベルになるべく保とうとすることをしはじめてしまう。
でも周りからは想像もできないくらい、多分私はものすごい葛藤を経験している。「魂の殺人」という言葉が軽く使われすぎている、という言説を最近Twitterでみかけたけど、言っている人の気持ちは何が言いたいのかはとてもわかるのだ。でも、残念ながら、本当にそういうことがあるとしか言いようがない。でも多分理解はされないだろう。
強く人を憎んだことも殺意を感じていた時期もあるけど、私は精神力が強すぎて、それを全部自分で克服する道を選んでしまった。そうするしかなかった。
克服しようとする途上、克服したいとはいえ、自分がものすごく強く感じた憎しみが、なくなってしまったらそれはそれで怖い、というのが私が恐れていたことだった。憎む気持ちを自分で受け止めて、全面的にそれを自分に許しつつ、それを暴走させたりしないようにする、というのは、至難の業だった。自分自身に対して薄氷を踏むような思いで自分と向き合うしかなかった。それはある意味自分で自分を殺すようなことでもあった。言葉では説明できないけど、二度殺されたような感じだった。
私はその過程で自分を許すように努めてきた。きっと人に話せないからつらいのだと思っていても、カウンセリングにいっても昔の知り合いにあっても、それをどんなふうに切り出していいのかすらわからなかったから、私は笑っていたと思う。わからないのが普通だ、という思いもある。わかってもらえないことを責めることなんてできることではないと思っていた。
時間は有限で、社会の中で「普通」を手に入れるためには、時間制限があった。私には色んなことに時間が必要で、仕方なかったと思う。そんな間に、ある日、携帯ショップにいったらiPhoneをすすめられた。「いまみんな半分くらいはこれですよ」という店員さんの言葉を受けて、iPhoneにした。こういった新しい体験をするときに、私は分かち合う人がずっといなかった。なれない新しいデバイスとひとりで格闘した。「老人でも使えるらしいですよ」という販売員の言葉には含みがあるように感じたけど、実際に見下しだったのだと思う。夜中にsiriが突然起動して何かいいはじめたり、うまく言葉にできない恐怖を感じるようになった。
ここでは言えないことや言いたくないことがたくさんある。どうやっても言いたくないこともある。Twitterをやっていたし、つらいことがあったからこそネットに繋がってきたことが結局裏目になって、そこで孤独を感じるようになった。Twitterであった人は、多くの人が毒親問題、精神疾患の問題、性被害などみんな苦しんでいたけど、私はそういう人ともうまくわかりあえなかった。
つらいと言って怒りたいときに、克服しようとした人ってきっと邪魔だったんだろうと思う。はっきりと自分にとってはアウェイだった。理解しようと努めていたけど、だんだん辛くなっていった。憎しみを感じるようになっていった。承認欲求なんて言う言葉がこんなにも注目されるようになったのに、だから優しくなろうとするよりも、それで認められた人の勝ち、みたいなふうに感じられることもあって、そういう価値観が、私は心底嫌になった。
カウンセラーさんが「みんな自分のことしか考えてない」とつぶやいていたのを覚えている。私に合わせていったのか、カウンセラーさん自身の気持ちだったのかは、私にはわからなかった。でも、私は本当に嫌いになりました。ついていけなくてもいいや。こんな冷たい世界になじみたくない。私だって憎みたくなることだってあるよ。十分に憎んできたのに、それをさらけださないと許してもらえないという。どうせかわいそうポルノになって終わりじゃないか。
辛い思いを私はすごく頑張って乗り越えてきたと思う。だから偉いと言いたいのではなく、納得できるようにそうしてきた。私はそれでも自分が人間として大事なものを失わないように、くじけそうになりながらも何度も気を取り直してやってきた。だから、他人に関心がないことを正当化して他者を一切みとめなくて、どうでもいいことでマウントをとる人が心底嫌い。何一つ尊敬できないと思った。
挙句の果てに、私が賢さで負けたくないと思ってるように見える人がいるらしい。馬鹿にするなと思う。そんなくだらないことで勝った負けた言う人になりたくない。世の中には能力の高い人も低い人もいて、でも、「そういうものだ」と思うより、「見返して勝ちたい」と思う人が多いのかもしれない。自分は努力した、だから勝てた。あいつは努力しなかった、そういいたいのかもしれない。私は自分が努力したことを知ってるし、どんなことにたいして努力してきたのかも知ってる。その価値を、お前らだってきっとわからないんだよな、と私は思ってる。
私は自分から喧嘩を売ったり、決め付けたりもしてないし、基本的には変わらず誰に対してもきちんと接したいと思ってやってきた。はっきりいって、自分が出来ることがそれしかなさそうだったからなのだけど、それは私が唯一持てたことかもしれないので。だけど、その唯一のものさえ、出し抜いて見下したりしたい人がいるのだというのはすごく感じてきた。ずっと蚊帳の外だった。
私はそもそも東京に憧れはない。それ自体が悪いことだと全然思わない。自分がいる場所でその環境でベストを尽くしてきただけなので。そんなに見下すのだったらこっちには来ないでください、と思う。地方を見下し、人を軽視し、さんざん大騒ぎをして誰よりも自分のことだけを考えていた人に、地方をめちゃくちゃにされたくない。つらいことやうまくいかないこともあるから、周りと協調して生きていかないといけないと思うのに。
私は一番になりたいなんて思わないし、自分が人より優れてるとも思わないし、そうなりたいとも思わない。
他人の苦しみを馬鹿にする人がいたこと、絶対忘れたくない。
ひとりでどうにかするのはつらいのでカウンセリングを頼ろうと思うけど、カウンセリングがあんまり頼りにならないことが多いのでつらい。今のところ。