大相撲の1場所15日で年6場所開催という開催要領は1958年から続いており、2020年のコロナウィルス流行などによる中止もあったが、年間カレンダーとして完全に定着している。(それ以前は4場所開催が通常であった)
併せて、現在の対戦方法である 「部屋別総当たり制」 も1965年1月場所に導入されて50年以上が経過する。
日本相撲協会公式サイト 部屋別総当たり制導入50年「昭和40年1月場所」
https://www.sumo.or.jp/KokugikanSumoMuseumDisplay/wrap20150825/
昭和40年1月場所から、部屋別総当たり制が導入されました。それまでは、親子、兄弟関係にある部屋同士の対戦は組まれない方式 (一門系統別) でした。昭和39年ごろは大相撲の人気が低迷しており、これを打開する方策の一つとして、時津風理事長 (元横綱双葉山) の主導により、部屋別総当たり制への移行が決まりました。これによって、栃ノ海 (春日野部屋) と佐田の山 (出羽海部屋)、大鵬 (二所ノ関部屋) と玉乃島 (のち玉の海、片男波部屋) など、新しい取組が増えるとともに、対戦相手の不均衡がかなり解消されるとあって、場所前から大きな注目を集めました。力士にとっては、相撲を取りにくいという気持ちもあったようですが、ファンからの好評を得て成功に終わり、現在に至っています。
この制度のもと同部屋同士 (兄弟同士、4親等以内の力士も) の取組は組まれない。優勝決定戦は例外であり、1989年7月場所の千代の富士と北勝海 (九重部屋)、1995年11月場所の若乃花と貴乃花 (二子山部屋) の実兄弟対決は印象深い。
さて、大相撲は自然発生的に江戸時代から行われているが、明治時代まで個人の成績優秀者への顕彰制度はなかった。 (しかし番付と星取は概ね完全な形で現存しているので、「優勝制度が存在していたら表彰されていたであろう力士」 を遡って推定することができる)
転機となったのは1909年の(旧)両国国技館の開場である。
東西制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E5%88%B6
1909年6月、旧両国国技館が開場し、晴雨にかかわらず相撲興行が可能になった。このとき、新しく、優勝争いの制度を策定することとなった。当時は、番付の東西は画然とわかれていて、同じ側の取組はなかったので、東西対抗の団体戦という発想が生まれた。そこで、優勝旗をつくり、幕内の東西のそれぞれの勝ち星を合計して、多いほうを優勝とし、優勝旗を授与し、翌場所の番付で東に位置せしめることとした。これを東西制と呼んだ。
千秋楽に優勝旗の授与式があり、優勝した側の主将 (番付最高位の力士が務める。普通は横綱) が優勝旗を受け取り、土俵下に控えた優勝旗手 (関脇以下の最高成績をあげた力士) に渡す。その後、旗手を中心にしてパレード (人力車が多かったという) が行われることが多かった。旗手は名誉とされ、記録にとどめられた。
それ以前の相撲には優勝争いという概念がなかったため、この制度は歓迎され、すぐに定着した。しかし、この方式は両方が均衡した関係にないとうまく機能しないので、ときどき入れ替えを実施する必要があった。また、優勝する側に好成績の力士が多くなるため、かえって番付の昇進が難しくなる事例もあらわれた。当時の東西制下では東西対抗の団体戦による優勝制度が最重要視され、個人の最高成績は二の次であった。
優勝旗手は東西で勝ち越した片屋に所属で、かつ関脇以下でなければならないため、全体での最優秀力士ではないことが多かった。
しかし1932年1月に春秋園事件という力士によるストライキが発生し、多くの力士が抜けたことで東西制が実施できなくなり、新に 「系統別総当たり制」 が導入された。基本的には総当たり制であるが、特定の部屋どおしの対戦 (出羽海と春日野と山分、高砂と若松と富士ヶ根と大山 など) は行わなかったため、系統 (一門) 別という制度となった。
しかしその後出羽海系統の力士が幕内の半数を占めるようになり、取組編成が硬直化したため、1940年1月場所から再び東西制が復活した。
この際にも頻繁に東西の配置換えが行なわれた。上位力士にとって、部屋や系統が異なっても東西の方屋が同じ上位力士とは対戦しないため有利な制度だった。
番付表を見て考えればわかるが、東同士・西同士の対戦がなければ、まともに取組みができないし、優勝争いは盛り上がらないだろう。
第二次世界大戦後になると、優勝決定戦や三賞など新しい制度が導入されるとともに、東西制が廃止された。しかし、出羽海と春日野のように深い関係の部屋があったために、部屋別の総当たりはできずいくつかの系統が定められた。
加えて、独立した部屋はもとの部屋とは対戦しないというルールもあった。そのため、大鵬 (二所ノ関部屋) と初代若乃花 (二所ノ関から独立した花籠部屋) の対戦が行われないなど不公平さが段々と目立つようになってきた。
そのため、冒頭で紹介したように1965年1月場所に 「部屋別総当たり制」 が導入された。制度導入当時はいくつかの部屋の閉鎖につながることもあったが、その後独立が目立つようになり、部屋別総当たり制が定着した。
尚、この制度下でも実の兄弟が別の部屋に属している場合は対戦なく、また2009年には4親等以内の関係は対戦させないことが決定した。
この流れを纏めると以下のようになる。現在の制度が当たり前でなく、様々な試行錯誤があったことがわかる。
1909年1月以前 成績優秀者への顕彰制度なし
1909年6月 ~ 1931年10月 東西制 (第1期)
1932年2月 ~ 1939年5月 系統別総当たり制 (第1期)
1940年1月 ~ 1947年6月 東西制 (第2期)
1947年11月 ~ 1964年11月 系統別総当たり制 (第2期)
1965年1月 ~ 部屋別総当たり制
さすがに同部屋や兄弟・親族の対決をふだんから行うと問題が生じる可能性があり、対戦方法の制度としては当面このままだろう。
一方で少子化や一部の不祥事の影響で、力士数はピークだった1994年の868人から2024年初場所では599人に減っているという。2023年の新弟子53人も過去最少だったとのことだ。
目を離せない優勝争いが毎場所繰り広げられるように、今後も様々な制度変更を取り入れながら、相撲を盛り上げてほしい。