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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

ノーベル賞の資格の1つとして、受賞者が生存していることがある。
詳しく経緯を見ると1973年以前は受賞者候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例えば1931年のエリク・アクセル・カールフェルト (文学賞)、1961年のダグ・ハマーショルド (平和賞) は授賞決定発表時に故人であった。
しかし1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが条件となった。2011年に、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明したが、特別に正式な受賞者として認定されることが決まった。

ということで、基本的にノーベル賞の受賞者は生存であり、華やかに授賞式が行われるもの、と考えていいだろう。当然だが受賞の喜びの声が聞けるのは生存者だけである。
しかし逆に言うと、ノーベル賞に値する功績があったとしても、本人が亡くなっている場合は賞が授与されない、ということだ。候補者の選定段階で生存者のみから絞りこんでいると思われるため、実際にはそのような例は歴史上多くあるだろう。
そして、ノーベル賞の選考期間は以前と比べて長くなっている。

日本経済新聞 2016年6月10日 ノーベル賞、もらうまで29年
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03424910Z00C16A6TJN000/

科学の大きな発見があってからノーベル賞が授与されるまでの期間は、徐々に長くなる傾向にある。
2016年版の科学技術白書は、1940年代以降に科学分野のノーベル賞を受賞した447人について、受賞理由となった科学の発見から受賞まで何年かかったか調査した。1940年代は平均18.5年。1950年代に15.1年と早くなったがその後伸び続け、2010年代には29.2年に達した。
受賞が遅くなっているのには主に2つの要因があると、政策研究大学院大学の原泰史さんは分析する。一つは時代が進むにつれて研究開発の幅が広がり、ノーベル賞に値する研究者が増えたこと。いわば「順番待ち」の状態になっている。もう一つは、ノーベル賞委員会が本当の第一発見者が誰かを重視しており、「慎重に調査しているため」だと原さんはみる。論文を分析し、大勢の科学者に聞き取り調査する。

 

人類の寿命が延びているとはいえ、功績から授賞までの期間が長くなればなるほど、先に述べた功績があっても受賞できないリスクが高まるだろう。
その功績から受賞までの期間の最長記録は「55年」であり、2例ある。1966年に生理学・医学賞を受賞したペイトン・ラウス (Francis Peyton Rous、1879年10月5日 - 1970年2月16日) と、1986年に物理学賞を受賞したエルンスト・ルスカ (Ernst August Friedrich Ruska、1906年12月25日 - 1988年5月27日) である (厳密にはペイトン・ラウスの方が長い)。この2人の功績と受賞までの経緯を見てみよう。

ノーベル賞で辿る医学の歴史 がんとの闘い~ラウス肉腫ウイルス発見から55年目の受賞
https://epilogi.dr-10.com/articles/1388/

ペイトン・ラウスは彼はアメリカの病理学者で、1911年に腫瘍ウイルス (がんウイルス) を発見し、その約半世紀後の1966年にノーベル生理学・医学賞を受けました。実は、これほどまでに時間を要したのには理由があります。
1926年、ヨハネス・フィビゲルという病理学者ががん研究で初のノーベル賞を受賞しました。その研究は、がんの原因を寄生虫とする「寄生虫発がん説」というもの。しかし現在、がんの原因が寄生虫でないのは周知の事実。フィビゲルの説は残念ながら間違っていたのです。
フィビゲルの研究を誤りだと見破るのは、当時の技術では難しかったと考えられており、現在も賞は取り消されていません。けれども、ノーベル財団はこの誤りによほど懲りてがん研究に対する評価を厳しくしたのでしょうか。この件からしばらく、がん研究に対するノーベル賞授与はありませんでした。新しい技術を認め評価する難しさに、昔の人々もまた悩まされていたことがうかがえます。
それから40年経った1966年、がん研究において2番目にノーベル賞を受けたのがラウスです。腫瘍ウイルスを発見した功績が認められ、受賞が決まりました。
がんの存在は古代ギリシアの時代から確認されていましたが、その原因は長らく謎のままでした。20世紀に入ると、西洋医学の世界では「感染症は特定の微生物 (細菌) により引き起こされる」という説が一般的になりました。そこで研究者たちは、がんも細菌による感染症であると考えるようになります。当時この考えがあったからこそ、フィビゲルの寄生虫説は支持されたのです。
その一方で、ラウスはがんの原因を「細菌より小さな何か」だと考え、研究を経て見事に腫瘍ウイルスの存在を突き止めます。ラウスによる腫瘍ウイルスの発見は、その後のがん研究に大きく影響しました。当時、定説の細菌ではなく「細菌より小さな何か」だとするラウスの研究は冷笑されたといいます。それから55年。ノーベル賞受賞の連絡を受けた時、ラウスは87歳の高齢となっていました。定説を疑い、周りの目にも負けず自身の信念を貫抜くことは、多様性が認められつつある現代でも難しいこと。約100年も前であればなおのこと、その道のりは苦難の連続だったのではないでしょうか。


 


ここにもあるとおり、ノーベル賞は取り消されることはない。そのため選考に慎重になり、功績から受賞までに時間を要する例である。

エルンスト・ルスカは電子顕微鏡に関する基礎研究と開発で受賞したが、その電子顕微鏡の歴史とともに経緯を見ていこう。

電子顕微鏡 電子顕微鏡の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1#%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

磁場の電子線に対するレンズ作用を実験で示したのは1927年ドイツのハンス・ブシュである。最初の電子顕微鏡は1931年にベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカが開発した。シーメンスの科学ディレクターだったドイツ人のレインホールド・ルーデンベルクが1931年に特許をとり、1938年に電子顕微鏡を売り出す。走査型電子顕微鏡は1937年マンフレート・フォン・アルデンヌによって製作された。1950年代から多くの分野で活用され、さらに短波長の電子線 (加速電圧の向上) などによって性能は向上した。

 

ここにある「走査型電子顕微鏡」は、観察対象に電子線をあてそこから反射してきた電子ビームから得られる像を観察する顕微鏡である。
また似た言葉の「走査型トンネル顕微鏡」がある。これは対象の近くに非常に細い針 (プローブ) を近づけ、針と対象物の間に流れる電流が針と対象との距離によって変化することを利用して、対象の微細な凹凸を測定するというものだ。どちらも電子ビームや針の先端は「点」なので、一点を観察しただけでは像にはならず、平面像を得るためには電子ビームや針を縦横にZ字状に動かして面全体を観察する必要があり、これを「走査」と言う。 (と調べて記述してみたが、全く理解できていない)
この「走査型トンネル顕微鏡」は1982年に、スイスのハインリッヒ・ローラーと、西ドイツのゲルト・ビーニッヒによって開発された。当初は性能や原子レベルの観測結果に懐疑的な意見もあったが、それまで構造の解明がなされずに30年近く論争の的となっていたシリコン表面の構造解明の手掛かりを、彼らの装置の観測結果をもとに得ることができたため、1986年に2名はノーベル物理学賞を受賞した。これは功績からの期間が4年と短い。

そして同じく1986年にエルンスト・ルスカが、1931年の電子顕微鏡の基礎研究と開発でノーベル賞を受賞した。
このことから、「走査型トンネル顕微鏡」という功績が機会となり、その源である「電子顕微鏡」の基礎研究・開発を改めて評価しノーベル賞を授与した、と考えることができる。
尚、エルンスト・ルスカの共同開発者であったマックス・クノールは1969年に亡くなったため受賞資格がなかったが、その時点で生存していれば当然ノーベル賞を受賞していたことだろう。 (以下がエルンスト・ルスカ (右) とマックス・クノール (左) による最初の電子顕微鏡の写真である)

革新的な発明の基礎を築いたとしても、実用化、活用化に長い時間を要することや、その評価ができる時代になっていない、ということは当然あるわけで、マックス・クノールのように最初の開発者が受賞できない事例は数多くあるだろう。
ペイトン・ラウスとエルンスト・ルスカは、条件が整ったタイミングがかろうじて間に合った、と言うことができる。
従って、「生存していること」というノーベル賞の条件は不平等であり、それ以上に問題なのは人類が歴史上の功績を正しく把握できないということに繋がっていることなる。授賞式の華やかさよりももっと大事なことがあるはずだ。
もしあなたがノーベル賞の手応えのある発明を成し遂げたら、あとはひたすら長生きできるように規則正しい生活を送った方がいいだろう。

 



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2023年の夏は日本でも世界でも 「観測史上最も暑い夏」 だった。
世界のこの夏の世界平均気温は16.77度で、1990~2020年の平均より0.66度高く、さらにこれまでの最高だった2019年を約0.3度と大幅に上回った。
この中で従来の国内最高気温記録である41.1度 (2018年7月23日 熊谷、2020年8月17日 浜松) の更新はされず、また最高気温ランキングの上位に入る気温も記録されなかったことはちょっと意外だ。
一方で8月10日に糸魚川・高田・境などが (1日の) 各地の最低気温の最高記録を更新した。糸魚川の最低気温31.1度は歴代最高で、夜中も明け方もまったく気温が下がらなかったということだ。このあたりに今年の夏の暑さの性質が表れている。

気象庁 歴代全国ランキング
https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rankall.php

国内の最高気温記録は、1933年7月25日の山形でフェーン現象による40.8度が70年以上にわたって破られなかったが、2007年に多治見 (40.9度) が更新し、その後も上回る事例が見られる。熊谷と浜松の41.1度の更新も時間の問題だろう。
一方で、国内の最低気温である1902年1月25日の旭川の-41.0度は今後破られることがないのではないかと思われる。気象庁のデータをもとに具体的に見てみよう。

気象庁 過去の気象データ検索
https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=43&block_no=47626&year=&month=&day=&view=

旭川(上川地方) 1902年1月(日ごとの値) 
https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/daily_s1.php?prec_no=12&block_no=47407&year=1902&month=1&day=&view=p1

残念ながら当時は1時間ごとの気温は記録されていない (残っていない) ので、1月25日の気温推移はわからない。降水量 (降雪量) だけ4時間に記録されており、7~10時台 1.2mm、11~14時台 0.0mm、15~18時台 2.0mm、19~22時台 0.8mmとなっている。それほど雪が降ったわけではないようだ。

一方で1月の気温一覧を見ると1月23日から気温が大きく下がり27日まで続いている。この寒波については以下に解説がある。

デジタル台風:八甲田山系雪中行軍と、旭川で-41度
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/contribution/weather-chart/013.html.ja

1902年1月25日、北海道の旭川で日本の最低気温マイナス41.0℃を記録しました。天気図を見ると、北海道の東に低気圧、九州の西に高気圧があり、等圧線も4本しかありませんが縦縞に並んでいて、西高東低の冬型気圧配置となっています。旭川は山に囲まれた内陸にあるため、強い風が吹きにくく、夜間地面から熱が奪われる「放射冷却」が強まり、特に冷え込みます。さらに雪が積もっていると、昼間日がさしても、太陽からの熱は雪をとかし蒸発させるために使われ、地面がなかなか温まりません。旭川など北海道の内陸では、冬になるとこうした条件が重なるために、富士山の山頂よりも冷え込むことがあります。

この寒波の影響は広範囲にわたり、十勝地方の帯広では1月25日に-37.2度、26日に-38.2度を記録した。(降水量は0.0mmとなっている) 26日の-38.2度は同日の旭川よりも低く、観測地単位の歴代最低気温ランキング2位となる。
参考までに東京の最低気温は、1月25日が-6.4度、1月26日が-6.6度と、やはり寒かったようだ。

なお、旭川の1月の月平均気温は1901~1910年は-14.1度~-5.8度であった。-14.1度は1909年で、1902年 (-11.7度) が最低だったわけではない。直近の2014~2023年は-8.3度~-5.1度なので、ここでもやはり100年で気温が上がっていることがわかる。

さて、このように1902年1月25日の旭川の-41.0度は公式の最低気温記録であるが、これとは別に非公式の最低気温記録がある。
1953年1月3日上川郡風連町 (現・名寄市) における個人観測で-45.0度を記録した例がある。 (但し、当日の最低気温は旭川市で-24.8度、帯広市で-29.1度など、周辺部で極端な低温は観測されていない)

風中の歴史 ふうれんの取り柄
https://web.archive.org/web/20160306212644/http://city.hokkai.or.jp/~oya88888/fu-rekisi.htm

本町の気象観測について語るとき、“風連町のお天気博士"として知られる上口清藏さんの存在を忘れることはできない。昭和7年以来、今日に至るまで一日も欠かさず気温、降霜、降雪などの観測を続け、克明に記録してきた。そうして蓄積された膨大なデータを分析して、その年の農作物の作況予測を行うなどして本町農業の発展に寄与したことが認められ、平成4年に風連町文化賞を受賞している。
わが町の気象に関して一般的に最も関心が向くのは気温であろう。とりわけ最高・最低気温について知りたくなる。上口さんが自宅近くに設置した百葉箱で観測した最高気温極値(昭和28年以降)は昭和51年7月26日の38.1度で、最低気温極値は昭和28年1月3日の-45.0度。公式記録とは計測条件が違うので比較することはできないことを考慮しても、本町の最高気温、最低気温ともに道内公式記録にかなり接近していることがわかる

 

他にも1931年1月27日の枝幸郡枝幸町の-44.0度、同日の中川郡美深町の-41.5度、同日の中川郡常盤村 (現・音威子府村) の-41.3度、1978年2月17日の雨竜郡幌加内町の-41.2度などの非公式記録がある。
足寄郡陸別町では2019年2月9日に-38.4度を記録 (アメダス観測地点とは別に気象庁の検定を通過した機器を備えた観測地の記録) したということで、現代でも条件が整えば極端な気温があり得るということだ。

ニコニコ大百科 日本一寒い町とは
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E5%AF%92%E3%81%84%E7%94%BA

 

2024年以降も酷暑の夏は続くと思われるが、その際にここで展開したような最低気温記録を思い出して少しでも涼しい思いをしよう。

 



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多くの人が毎日天気予報をチェックしているだろう。
1993年に気象業務法が大幅に改正され、民間気象会社等も一般向けに独自の天気予報を発表出来るようになったり (ただし警報や台風予報など人命に直接関わる重大な事象についての情報の発表は気象庁のみ)、気象予報士の資格が新たに設けられたりした。その後インターネットとデバイスの進化により、よりリアルタイムでピンポイントな天気予報が様々な形で提供されるようになった。また予報の精度も向上しているので、生活において欠かせない情報となっている。

天気が人々の生活に大きな影響を与えるものであることは今も昔も変わらない。しかし当然のことながら、古代の天気予報は天候のパターンを見つけることがメインで、経験に頼ったものであった。
1837年に電報が発明されて、広範囲から同時に気象の情報を収集することが可能となり、これによって風上の天気の情報を元にした天気予報が可能となった。

天気予報の実用化に功績のあった人物として、イギリスのロバート・フィッツロイとフランシス・ゴルトンが挙げられる。

ロバート・フィッツロイ(Robert FitzRoy、1805~1865) は、イギリスの海軍軍人でニュージーランド総督などを務めたが、その後ロンドン王立協会の会員に選出され、気象データ収集のための新設された部門である商務省の気象局長に選ばれた。これは現在のイギリス気象庁の前身にあたる組織である。

ロバート・フィッツロイ 気象学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6

フィッツロイは船の船長が情報を集めて報告できるように器具を手配した。彼は何種類もの気圧計を設計して配布し、それぞれの港に設置した。
1859年に蒸気クリッパー、ロイヤルチャーター号を沈めた大嵐はフィッツロイに暴風警報の必要性を感じさせた。イギリス学術協会の依頼で彼は1860年6月6日に政府から認可を受けて暴風警報センターを設置した。彼は国内13地点の気象観測結果を電報で集めて、その現状を分析して暴風警報の発表を開始した。彼は1961年8月1日から気象予報をも民衆に対して独断で発表し始めた。彼は気象理論に関してはドイツの気象学者ハインリッヒ・ドーフェの信奉者であり、異なる性質の気流の衝突を重視していた。しかし当時はそれはきちんと理論化されておらず、科学的にも認められていなかった。
当時の気象予報には怪しげな占星気象学を用いた物も少なくなく、気象予報の発表には政府やイギリス科学界は科学の信頼性を失墜させるものとして反発した。彼は気象予報を科学としてではなく、実用的な技術として民衆の役に立つと考えていた。彼は気象予報を科学的な予測(prediction)と区別するために「フォアキャスト(forecast)」という造語まで作った。現在ではこの語は気象予報の意味で広く使われている。また気象予報を体系化するために1863年「Weather Book」に出版した。これは当時の科学的な見解からはかなり先進的だった。彼の死後に統計学者フランシス・ゴルトンを委員長とする調査委員会が組織され、その勧告により一般向けの気象予報は1866年5月28日に中止された。しかし同様に中止された暴風警報は要望されて再開されるなどの混乱が生じた。一方で気象予報はその後13年間にわたってイギリスでは発表されなかった。

このように必要性や実用性の観点から気象予報や暴風警報をいち早く取り入れたのがフィッツロイだが、科学的な裏付けは充分ではなかったようだ。forecastの語源がここにあったことは興味深い。

その一般向けの気象予報を中止し、のちに最初でかつ標準的な天気図を作成したのが、フランシス・ゴルトン (Francis Galton、1822~1911) だ。進化論で知られるチャールズ・ダーウィンの従弟で、人類学、統計学、遺伝学など幅広い功績がある。

フランシス・ゴルトン 気象学の研究(天気図の創始者)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3#%E6%B0%97%E8%B1%A1%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%88%E5%A4%A9%E6%B0%97%E5%9B%B3%E3%81%AE%E5%89%B5%E5%A7%8B%E8%80%85%EF%BC%89

1858年にロンドン近郊のキュー天文台の台長になり、科学分野に数学的方法を導入することに興味を持ち、気象図の研究の際に同じ気圧の点を結んで等圧線を書いた。
ゴルトンは気象学の創始者とも言われ、最初の気象図を考案し、ヨーロッパにおける高気圧の理論や短い期間での気象現象を完璧に記録する方法を成し遂げた。
1866年、天文台の台長であるゴルトンは天気予報を初めて行ったフィッツロイの死後に組織された調査委員会の委員長として勧告を行う。その一般向けの気象予報は1866年5月28日に中止となった。
1868年に気象研究会議の会員に挙げられていたゴルトンは1875年4月1日にタイムズ紙に掲載された最初の天気図を作成し、現在では世界中の新聞の標準的な役割をなしている。

その1875年4月1日付のタイムズ紙に掲載された世界最初の天気図は以下のようなものである。これはsynoptic chartと呼ばれ、前日の気象状況を要約したものであり、読者はこの地図が提供する情報をもとに自分なりの予測を立てることができた。
これによると、1875年3月31日のロンドン地方は「曇り (dull) 」で気温は華氏45度 (=摂氏7.2度)、パリ地方は「晴れ (clear) 」、イギリス海峡やドーバー海峡は穏やか (smooth) だたようだ。

このイギリス気象庁は、明治維新を迎えていた日本での最初の天気予報にも関係している。

気象庁 気象庁の歴史
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html

明治政府は、1871年に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めました。この時の測量助師であったイギリス人のジョイネル(H.B.Joyner) が気象観測の必要性を建議し、1873年に測量司は気象台を設けることを決めて、ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼しました。
1875年5月にこれらの器械の据付けが完了しました。場所は内務省地理寮構内 (現在の東京都港区虎ノ門、ホテルオークラのあたり) です。そして、同年6月から観測が開始されました。当初は、ジョイネルが一人で担当して1日3回の気象観測を行い、地震があれば土蔵の中の地震計まで飛んで行きました。
その後ドイツ人のクニッピング(E.Knipping)の尽力により、1883年2月16日から毎日1回午前6時の気象電報を全国から収集できるようになり、当日に東京気象台で初めて天気図が作製されました。同年3月1日からは毎日の天気図の印刷配布が始まりました。また、同年5月26日には東京気象台で初めて暴風警報が発表されました。
さらに翌1884年6月1日には毎日3回の全国の天気予報の発表が開始されています。この最初の天気予報は、「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」という日本全国の予想をたった一つの文で表現するもので、東京の派出所等に掲示されました。

この1884年6月1日の最初の天気予報 (天気図と予報) は以下のようなものだ。特徴的なのは日本語・英語併記でクニッピングのサイン (カタカナは右から左) もされている。さらに全国22都市が西からの並べられて、天気、気温、風、気圧も情報が記されている。イギリスの最初の天気予報 (天気図) から9年経っているので当然の進歩とも言えるが、かなりレベルが高い内容だ。

大型台風、ゲリラ豪雨、大寒波など世界的な気候の極端化が進む中で、天気予報の重要性は今後もますます高まっていくだろう。その礎を築いた先人たちの努力に感謝したい。

 



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以前このブログで、初期のビデオゲームとして「OXO」「Tennis for Two」「スペースウォー!」を紹介した。 これらは1950年代から1960年代にかけてのビデオゲームの黎明期において特筆すべきゲームであった。しかし「ビデオゲーム」ではなく「コンピューターゲーム」と捉えると、その起源はさらに時代を遡ることができる。 定義や捉え方によって変わってくるが、歴史上最初のコンピュータゲームと呼ばれるのは1912年にスペイン人の技術者レオナルド・トーレス・ケベード (Leonardo Torres Quevedo、1852~1936年) によって開発されたエル・アヘドレシスタ (El Ajedrecista、チェスプレーヤーの意味) だろう。

エル・アヘドレシスタ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%BF

エル・アヘドレシスタは、レオナルド・トーレス・ケベードが1912年に発明したチェスのオートマタ (機械人形、自動人形) である。 1914年にパリ大学で公開されて評判を呼び、1915年11月6日にはサイエンティフィック・アメリカン誌から「トーレスと驚異の自動装置」として初めて大々的に取りあげられた。

エル・アヘドレシスタは、チェスボードの下にそなえた電磁石を利用して、3種類の駒で自動でエンドゲームを行う装置であり、キングとルークを動かして人間のプレイヤーが操るキングにチェックメイトをかけることができた。この装置は史上初のコンピュータゲームと考えられている。 エル・アヘドレシスタは必ず相手をチェックメイトすることができた。とはいえそのアルゴリズムはシンプルであったため、最小限の手数でチェックメイトをかけることはできず、また50手ルールによるドローも回避することはできなかった。また相手が禁じ手を指した場合は、それを判定してシグナルを発した。 このオートマタは、完全にアナログ回路でありながら機械を動かすためのプログラムが予め組まれており、自分と相手の駒の動きをプログラムによって、チェックメイトするためのアルゴリズムで計算してゲームを進める仕組みであり、電磁石によって駒が動いている。

後年(1951年)のものであるが、実際の映像を見ると駒が動く様子がわかる。

このアルゴリズムは以下のような内容とのことだ。(理解できないが。。)

El Ajedrecista - Technical description (翻訳)

https://en.wikipedia.org/wiki/El_Ajedrecista

トーレスはそのアルゴリズムで使用するために2つのゾーンを定義した。1つ目はa-、b-、c-ファイルからなり、2つ目はf-、g-、h-ファイルから構成される。アルゴリズムは以下の通りである。(プレーヤーは黒)

1. 黒のキングがルークと同じゾーンにいる場合、ルークはそのゾーンからa-または h-ファイルに移動する。

2. 黒のキングがルークと同じゾーンにおらず、

(1) 黒のキングとルークの間の垂直距離が1マス以上の場合、ルークは黒の王に向かって垂直方向に1マス移動する。

(2) 黒のキングとルークの間の垂直距離が1マスで、

(2-1) 2人のキングの垂直方向の距離が2マスより遠い場合、白のキングは黒のキングに向かって垂直方向に1マス移動する。

(2-2) 2人のキングの垂直方向の距離が2マスで、

(2-2-a) 2人の王の水平方向の距離が奇数の場合、ルークがaまたはhのファイルにあれば、それぞれbまたはgのファイルに移動し、その逆もまた然り。

(2-2-b) 偶数の場合、白のキングは黒のキングに向かって水平に1マス移動する。

(2-2-c) ゼロの場合、ルークは黒のキングに向かって縦に1マス移動する。

まさにアナログなコンピューターゲームで、機械を相手にチェスが楽しめるというのは画期的であっただろう。 それまでのチェスのオートマタは「トルコ人」のように、実際は人間が操っていて機械が考えているふりをしているというようなもの (あくまでも見世物) だったので、全く次元が異なる。 さて、この発明者のレオナルド・トーレス・ケベードの功績はエル・アヘドレシスタや各種のアナログ計算機械のみではない。人間の輸送に適した安全性が向上したロープウェイ (現在でもナイアガラの滝で修正が施されたうえで観光用に用いられている)、大型のゴンドラの吊り下げに耐えられる半硬式の飛行船、実用的なラジオコントロールなど幅広い分野にわたる。

どの時代でも卓越した技術者によって、世界や人類の大きな発展がもたらされることは間違いがない。



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今の時代に生きていてよかったと思うことはいろいろあるが、最も恩恵が大きいものは医学の進歩だろう。人類の長寿化の最大の要因は医学の進歩であり、日常生活においても病院や医療行為が怖いと感じることはなくなってきている。

昔はどうだったかというと、例えば江戸時代の医療事情は以下のようなものだ。

お江戸の科学 江戸時代の東洋医学
https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/05/kaisetsu2.html

江戸後期に西洋医学が輸入される前の東洋医学は、人体の構造をあまり重要視していなかった。人間の健康は五臓六腑の調和によるとした。五臓六腑を支えるのが「気」で、五臓六腑の調和が崩れた状態が「病気」とみた。
内科に関して東洋医学では、望 (目で診る)、聞 (音や臭いで判断する)、問 (症状を質問する)、切 (脈診と腹診) の四診が基本の診察方法だった。中でも脈をとる「脈診」と腹部に触れる「腹診」を重要視した。
診察を終えると症状に合わせて薬剤を調合し、患者に与える。医療は基本的に、五臓六腑の調和を取り戻すための内服薬を処方した。




一方で既に日本にも西洋医学は伝わっていた。1557年にポルトガルのLuis Almeidaが豊後 (現在の大分県) で治療を行ったのが最初とされる。しかし当初は西洋医学を習得できる医師はおらず、また当時の西洋医学のレベルでは東洋医学で診察結果に大きな差はなかったようだ。
その後江戸時代後期になると日本の医師たちは東洋医学に西洋医学の実証主義を取り入れていった。

山脇東洋 (1705~1762) は五臓六腑説に疑問を抱いており、1754年に死刑囚の解剖に立会い、この観察に基づいて1759年に日本初の解剖書『蔵志』を発刊した。日本の医学はここから人体の構造に着目するようになった。
杉田玄白 (1733~1817) と前野良沢 (1723~1803) は1771年に解剖に立会い、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図の正確さに驚ろかされた。そして4年の歳月をかけて翻訳本の『解体新書』を刊行し、医学界に大きな影響を与えた。



そしてこれらの効果により日本の医学は大きな進歩を遂げたが、その一例として華岡青洲 (はなおかせいしゅう、1760~1835) によって行われた全身麻酔での手術は、欧米諸国よりも40年以上も早く実施されたことが挙げられる。

華岡青洲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%B2%A1%E9%9D%92%E6%B4%B2

医学書の中で特に影響を受けたのが永富独嘯庵の『漫遊雑記』であった。そこには乳癌の治療法の記述があり「欧州では乳癌を手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれているのを知ったことが後の伏線となる。この時、乳癌を根治するほど大きく切るのは、患者が受ける耐えがたい痛みを解決しなければ不可能だ。麻酔法の完成こそ、癌の医療を進歩させる最重要の課題と考えた。
手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始める。実母と妻の妹が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散 (つうせんさん)」を完成させた。
1804年11月14日、大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に対し、通仙散による全身麻酔下で乳癌の摘出手術に成功した。
1952年、外科を通じて世界人類に貢献した医師のひとりとして、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属の栄誉館に祀られた。



一方で華岡青洲の手術よりもはるか前の1689年に高嶺徳明 (たかみね とくめい、1653~1738) によって既に全身麻酔による手術がされたという説もある。

高嶺徳明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B6%BA%E5%BE%B3%E6%98%8E

中国語が堪能で、福州へ渡り、琉球王府の中国語通事となった。中国医師の黄会友を訪ねて、補唇術を学んだ。1689年5月に帰国し、同年11月20日、琉球王国王孫の尚益に口唇裂手術を施し治癒させた。沖縄学学者東恩納寛惇・金城清松は同手術が全身麻酔を施した上で行われたと指摘し、事実であれば日本史上最古の全身麻酔手術例となるが、史実である確証はない。

『琉球王国 人物列伝』によると、中国人医師の黄会友 (こうかいゆう) が補唇治療を行っていることを耳にし、中国語を完璧に理解する徳明は補唇の技術を取得することが命じられて黄会友に弟子入りし、秘法と秘伝の巻物を授けられて帰国し、また尚益の口唇裂手術は大成功で、尚益の子供ですら傷跡に気付かなかったと言われている、とのことだ。



この真偽について展開することはしないが、正確に確認できる記録である華岡青洲の手術が、西洋で初の全身麻酔による手術である1846年のアメリカでウィリアム・T・G・モートンによる手術よりも40年以上早く行われたことは確かなようだし、さらにその100年以上前に高嶺徳明によって全身麻酔による手術が行われるだけの下地があったと言えるだろう。

さて実際の麻酔の状況について以下のような記事がある。

華岡青洲の麻酔
https://www.wakayama-med.ac.jp/med/bun-in/seishu/anesthesia.html

華岡青洲が開発した麻酔方法は、曼陀羅華 (まんだらげ)、別名チョウセンアサガオなど数種類の薬草を配合した麻酔薬「通仙散」を内服するというものでした。チョウセンアサガオは3世紀頃の中国で麻酔薬として使われていたと言い伝えられていましたが、具体的な配合や使い方に関する記録は何も残っていませんでした。青洲はチョウセンアサガオに数種類の薬草を加え、動物実験だけでなく母と妻の協力による人体実験を繰り返し、実に20年の歳月をかけて通仙散を開発しました。
青洲の麻酔は、通仙散が飲み薬であるために麻酔が聞き始めるまでに約2時間、手術を始められるまでに約4時間後、目覚めまでに6~8時間と、現在の麻酔と比べて格段の時間を要するものでした。


これだと麻酔が効いているのかどうか、或いは手術中に効き目が薄れないか不安になりそうだが、麻酔が患者・医師双方に大きなメリットをもたらしたことは間違いない。

このように海外からの学問や技術を取り入れて、短期間にさらに発展させるのは昔から日本の得意とするところであり、全身麻酔の例も誇らしいものだ。 
現在我々が安心して医療に臨めるのは、この時代の医師たちの功績の延長であると言えるだろう。ただただ感謝である。



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「今日は忙しくてあっという間に1日が過ぎてしまった」ということはよくあるが、1日は24時間で不変なので、これはあくまでも感じ方の問題である。
しかし1日 (正確には平均太陽日) の基準となっている地球の自転は、必ずしも24時間ではなく毎日変化している。
例えば今日 (2021年12年31日) の1日の長さは24時間+0.02ms (ミリ秒、ミリ秒は1/1000秒) である。昨日 (12月30日) は24時間+0.29msだったので、「昨日の方が1日 (太陽日) が長かった」と言ってもいいだろう。

このように地球の自転の速度は変化する主な要因の一つは、地球を取り巻く天体である。例えば月の引力は潮汐を引き起こし、地球の形を変え、最終的には回転速度を低下させる。地球と月の間の距離は絶えず変化し、そのため地球ががその軸を中心に回転する速度が日々変化する。

さて、地球の自転スピードは長期的には遅く、1日は長くなっている。

国立天文台(NAOJ) 質問4-4)1日の長さは変化しているの?
https://www.nao.ac.jp/faq/a0404.html

地球の自転速度は、長期的には、主に「潮汐摩擦」(潮の満ち引きによって起こる海水と海底との摩擦)によってだんだん遅くなっています。 しかし、数年から20年ぐらいの期間で考えると、地球内部にある「核」の運動の変化や、地球規模での水(海水、陸水、氷河)の分布変化などが原因となって変動し、自転速度は必ずしも一定の割合で遅くなっているわけではありません。
それでは地球の自転はどのぐらいの割合で遅くなっているのでしょう。
19世紀の約100年間の地球の自転による1日の長さの平均が24時間に等しくなるように定められましたが、1990年頃には、地球は24時間より約2ミリ秒長くかかって1回転しています。もしもこの割合がこれからもずっと続くと考えると、5万年で1秒、1億8千万年で1時間長くなることになります。このことはつまり、1億8千万年後には、1日の長さが25時間になってしまうということを意味しています。


また、NHKの「チコちゃんに叱られる!」(2019年1月11日放送) で紹介されたように、「地球が回っているのは地球が生まれた時の惰性」、すなわち地球の自転は最後の大きな天体との衝突の勢いが残っているものである。そう考えると、いつの日か地球の地球の自転は止まってしまうと考えられる。
もし地球の自転が (直ちに) 止まると以下の動画のようになってしまう。これ以外にも他にもいろいろ影響があるようだが。端的に言うと自転が止まった時点で人類は滅亡するだろう。



しかし長期的には地球の自転スピードは遅くなるはずなのだが、逆に2020年から地球の自転がスピードアップしているという。

Business Insider Japan 2021年1月14日 地球の自転がスピードアップ…2020年はいつもの年より短かった
https://www.businessinsider.jp/post-227741

気づいていたかもしれないが、2020年は2019年より短かった。
地球が通常より最大1.5ミリ秒、速く回転したため、1960年以降の最も速い自転記録の28位まではすべて2020年に発生した。これらの28日間はすべて、それまでに記録された最短の日である2005年7月5日の記録を上回っている。その日は標準の1日である8万6400秒よりも1.0516ミリ秒短かかった。現在では最短の日は、以前の記録よりもさらに0.45ミリ秒、短くなっている。
地球のコアや海洋、大気などの影響で、1日の長さが変動するのは珍しいことではない。しかし、TimeAndDate.comによると、2020年に短い日が集中したのは、地球の自転が全体的にスピードアップしている兆候かもしれないという。




2010年以降の1日の長さに関するデータは以下のとおりで、それまでは24時間以上だったものが2020年から急に24時間よりも短くなってしまっており、2021年、2022年とさらに短くなる。
調整のために実際の時間にプラスしていた「うるう秒 (Leap Seconds)」も2016年を最後に行われておらず、将来は行われるとしてもマイナスの調整になるかもしれない。

TimeAndDate.com - How Long Is a Day on Earth?
https://www.timeanddate.com/time/earth-rotation.html#calc-daylength



もしこの傾向が加速し、地球の自転が高速化すると以下の動画ようになってしまう。



改めて、あらゆる奇跡が重なって地球が誕生し、そこで生命が生まれ、奇跡的なバランスのもとで存続していることを痛感する。そして地球上には様々な自然美が拡がり、文明や芸術が展開されている。何と素晴らしいことだろうか。
地球、生物、人類を守るために、全ての前提とも言うべき地球の自転スピードについてもっと気にしていこう。


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ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。この遺言は1895年に記されたもので、化学、物理学、文学、平和、生理学・医学の5つの分野で「人類に最大の利益」を与える偉大な成果に対して賞を贈るよう記されている。(ノーベル財団は経済学賞をノーベル賞とは認めておらず、正式名称である「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼んでいる。)

当然のことだが、5つの分野以外でもさまざまな企業・団体によって世界的な賞が授与されている。数学のフィールズ賞、建築学のプリツカー賞、気象学の国際気象機関賞などを挙げることができ、これらは「〇〇界のノーベル賞」と呼ばれたりもするが、ノーベル賞・ノーベル財団とは関係がない。
この「〇〇界のノーベル賞」の中にはノーベル賞よりも長い歴史を持つ賞がある。人類学のトーマス・ハックスリー記念賞である。

トーマス・ハックスリー記念賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%B3%9E

トーマス・ハックスリー記念賞は、イギリスの王立人類学研究所(Royal Anthropological Institute of Great Britain and Ireland)による、人類学の分野で顕著な功績をあげた人物におけるに贈られる賞である。
生物学者であったトマス・ヘンリー・ハクスリーの業績をたたえる目的で1900年に設けられ、王立人類学研究所の理事会によって受賞者が決定される。受賞は人類学者における最高の栄誉とされる。


歴代の受賞者は以下リンクをご参照。

Royal Anthropological Institute - Huxley Memorial Medal and Lecture Prior Recipien
https://www.therai.org.uk/awards/honours-prior-recipients/huxley-memorial-medal-and-lecture-prior-recipients/

ノーベル賞よりも僅か1年早く始まった形だが、その記念すべき第1回 (1900年) の受賞者はジョン・ラボックという人物だ。

ジョン・ラボック
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%AF

ジョン・ラボック (John Lubbock 1834~1913) はイートン校で1845年から教育を受けた。卒業後父の銀行に勤め22歳で共同経営者となった。1865年に父が死去すると準男爵位を相続した。1870年と1874年にメイドストーン選挙区から自由党の下院議員に当選した。1886年に自由党がアイルランド統治法のために紛糾すると、分裂した自由統一党に参加した。
ラボックは1879年の銀行家協会の初代理事長となった。1881年にはイギリス学術協会の会長、1881年から1886年までロンドン・リンネ学会の会長を務めた。1883年に銀行員孤児院(the Bank Clerks Orphanage)を設立した。1884年に、のちに選挙改革協会となる比例代表制協会を設立した。
1865年にラボックは考古学のテキスト『前史時代:古代遺跡と、現代の未開人のマナーと習慣による描写』を執筆した。また石器時代を大きく二つにわけ、旧石器時代(Palaeolithic)と新石器時代(Neolithic)という用語を提案した。ラボックはいくつかの分野でアマチュアの生物学者であり、膜翅目に関する本『アリ、ミツバチとスズメバチ:社会的膜翅目の習性の観察記録』を書いている。また昆虫の感覚器とその発達について、動物の知性について、他の自然史のいくつかの話題についても本を書いた。彼はトマス・ヘンリー・ハクスリーのXクラブの9人の会員の一人でもあった。
ラボックはチャールズ・ダーウィンと幅広く交流した。ラボックは幼い頃からダーウィンと親しく、科学的思考や自然の探求の方法を学んだ。




このように経歴を参照すると、専門は金融、政治、生物学であり、人類学の権威とは思えず、「トマス・ヘンリー・ハクスリーのXクラブの9人の会員の一人でもあった」ことが受賞に関係したのかもしれない。いずれにしても影響力の大きい人物であったことは間違いない。

ではこの賞で記念されているトマス・ヘンリー・ハクスリーとはどういう人物だろうか。

トマス・ヘンリー・ハクスリー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC

トマス・ヘンリー・ハクスリー (Thomas Henry Huxley 1825~1895) は、イギリスの生物学者。「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。リチャード・オーウェンとの論争においては、人間とゴリラの脳の解剖学的構造の類似を示して進化論を擁護した。
科学啓蒙家としての才能があった。「不可知論」の語を作って自らの信仰を表現した。
ハクスリーは「生物発生説 (生物の細胞は他の生物の細胞からのみ発生する説)」と「自然発生説 (無生物から生物が発生するという説) 」の概念を作ったと信じられている。

生物学者として様々な功績を残し、英国の学校教育にも多大な影響を与えたトマス・ヘンリー・ハクスリーは自身も、1852年にロイヤル・メダル (自然界についての知識の発展、応用科学の分野で顕著な貢献に対する賞)、1876年にウォラストン・メダル (優れた業績をあげた地質学者に授与している賞)、1888年にコプリ・メダル (数学または物理科学の研究者と生命科学の研究者から一年ごとに交互に選出) を受賞している。




この中で出てくるコプリ・メダル(Copley Medal)は 科学業績に対して贈られる最も歴史の古い賞であり、1731年にイギリス王立協会によって創立され、毎年贈られている。 コプリとは第2代準男爵ゴッドフリー・コプリ(Sir Godfrey Copley 1653頃~1709) はイギリスの裕福な地主だったそうだ。

そして1731年の最初の受賞者は、電気伝導の発見者として知られるスティーヴン・グレイ (Stephen Gray 1666~1736) だ。"For his new Electrical Experiments: – as an encouragement to him for the readiness he has always shown in obliging the Society with his discoveries and improvements in this part of Natural Knowledge" とのことだ。
しかも翌1732年にも "For the Experiments he made for the year 1732" として2年連続で受賞している。こちらはおまけのように感じる。。

エピソード科学史Ⅱ――物理編 11. 初期の電気実験 1 スティーブン・グレイの実験
http://ktymtskz.my.coocan.jp/S/physic/phi11.htm#1



こうして見ていくと、英国を中心に賞の長い歴史を痛感するし、その受賞者を称える賞が新たに設けられることで新たな表彰が行われていることがわかる。信賞は人類の鉄則であり、長きにわたって賞によって人類が高められてきたことは間違いないだろう。


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日本で一番高い山は富士山である。ここでいう「高い」は「標高」のことであり、海面の延長であるジオイドからの距離とすることが一般的であり、海抜とも呼ばれる。
一方で、近接した2地点の高度差を「比高」といい、段丘の高さや山脈上に噴出した火山の高さなどのように、海抜高度で表わすよりも河床からの比高や基盤山脈と火山山頂の比高で表す方が有効なことがある。
地質学的にどうかではなく、実際に立っている位置から見上げた山の高さという点で、標高よりも比高の方が山の大きさのイメージに近いはずである。

富士山は南側は田子の浦に面しており、海抜0m地点が山麓といえるので比高も標高と同じ3,776mとなるが、北側の富士五湖方面からは、例えば山中湖湖面は標高980mなので以下のような山中湖から見る富士山の比高は3,776-980=2,796mとなる。



同様に世界一高いエベレスト (チョモランマ) は標高8,848.86mだが、比高はまわりを囲むチベット高原の北の麓から4,600m、南の麓から3,600mであるので、南方面から見た富士山とそれほど変わらないとも言える。

この比高で捉えたときにエベレストを上回るのは、アラスカにあるデナリ (Denali) である。

デナリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8A%E3%83%AA

デナリは、アメリカ合衆国アラスカ州にある山で、アラスカ山脈、アメリカ合衆国、北アメリカ大陸の最高峰。標高は6,190.4m。山名は、英語由来のマッキンリー山(英語: Mount McKinley)と長らく並立していたが、2015年よりデナリが正式な呼称となった。「大きな山」「高きもの」「偉大なるもの」を意味する。
デナリはエベレストよりも大きな山体と比高を持つ。エベレストの標高はデナリより2,700mも高いが、チベット高原からの比高は3,700m程度に過ぎない。一方、デナリはふもとの平地の標高は600m程度であり、そこからの比高は5,500mに達する。




デナリは、植村直己が1970年に世界で初めて単独で登頂し、世界初の五大陸最高峰登頂者となり、その後1984年に冬期として世界初となる単独登頂をしたが、下山中に消息不明となり命を落とした山である。

一方で、標高よりも比高が高い山がある。ハワイ島にあるマウナ・ケア山 (Mauna Kea) だ。ハワイ語で「白い山」の意であり、冬になると山頂が雪に覆われる。



Geology.com - Highest Mountain in the World
http://geology.com/records/highest-mountain-in-the-world.shtml

Mauna Kea, a volcanic mountain on the island of Hawaii, has an altitude of 4,207 meters (13,803 feet) - much lower than Mount Everest. However, Mauna Kea is an island, and if the distance from the bottom of the nearby Pacific Ocean floor to the peak of the island is measured, then Mauna Kea is "taller" than Mount Everest.
Mauna Kea is over 10,000 meters tall compared to 8,848 meters for Mount Everest - making it the "world's tallest mountain."




このようにマウナ・ケア山は、裾野にあたる太平洋の海洋底から測ると、10,203メートルの高さがあり、エベレスト山を抜いて世界で最も高い山である。

また、同じくハワイ島に位置するマウナ・ロア山も世界一の山である。



allhawaiiオールハワイ 世界一長い山?マウナロア
https://www.allhawaii.jp/article/1248/

マウナロアは標高4,169メートルです。高さではマウナケアに若干劣るとはいえ、実は、マウナロアは別の意味で世界一の山。それはこの山の大きさ、体積です。ハワイ島の面積の半分を占める広大なマウナロアは、なんと地球で一番体積が大きい山。そのあまりの重さに、ハワイ島は創世以来、8キロメートルも地盤沈下したといわれています。ちなみにマウナロアとはハワイ語で長い・広い山という意味。まさにこの山にぴったりの名前ですよね。



具体的にはマウナ・ロア山の体積は約75,000 km3であり、富士山 (1,400 km3) の50倍以上の大きさとなる。
もし地球に海がなかったら、マウナ・ケア山が世界で最も高い山、マウナ・ロア山が世界で最も大きい山ということになるだろう。

そしてマウナ・ケア山は車で山頂まで登ることができる。

ヤマレコ マウナ・ケア山(参加ツアーの車で頂上まで登坂)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-294233.html

マウナ・ロア山は途中から車道が通じていないため、徒歩で山頂まで登る必要がある。もちろんタフな登山ではあるが不可ではないようだ。ハワイ島を訪問した方には、ぜひ世界一の山への登山やドライブをお勧めしたい。


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人間は誰でも子供の頃に未来に憧れる。「鉄腕アトム」や「ドラえもん」に描かれた未来は、少年少女たちの中で明確なイメージとなり、大きくなって科学の道に歩んでいる人も多いと思う。
私の中では、漫画に描かれた未来都市・生活に加えて、「未来=人が空を飛ぶ」というイメージが強かった。それは1984年のロサンゼルスオリンピック開会式の "ロケットマン" と、1989年公開の「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ」のホバーボードの影響が大きい。21世紀には人が自転車の乗るように気軽に空を飛んで、空中を人が飛び交うようになると考えていた。「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ」の未来(2015年)が過去になった今でもそのような世の中になっていないが、人が空を飛ぶ技術はどうなっているかを整理してみよう。




"ロケットマン" は正式には「Bell Rocket Belt」と呼ばれるもので、かつてアメリカに存在した航空機メーカーのベル・エアクラフト社 (Bell Aircraft Corporation) が開発したものだが、ロサンゼルスオリンピックよりずっと前の1950~60年代に開発されたものだ。

Bell Rocket Belt
https://en.wikipedia.org/wiki/Bell_Rocket_Belt

Bell Aerosystems began development of a rocket pack which it called the "Bell Rocket Belt" or "man-rocket" for the US Army in the mid 1950s. It was demonstrated in 1961 but 5 gallons of hydrogen peroxide as fuel for 21 seconds of flight time did not impress the army and development was cancelled.
The pilot can vector the thrust by altering the direction of the nozzles through hand-operated controls. To protect from resulting burns the pilot had to wear insulating clothes.


ベル・エアクラフト社は第二次世界大戦中に戦闘機を生産し、またヘリコプターメーカーとしても成功した。1960年にテキストロンに買収されてヘリコプター部門はベル・ヘリコプターとして存続している。
ベル・エアクラフト社の技術は現在ではメキシコのTecnologia Aeroespacial Mexicana社に引き継がれて、販売もされている。

Tecnologia Aeroespacial Mexicana / Rocket Belt
http://www.tecaeromex.com/ingles/RB-i.htm

TAM is the first and only company in the world that produces a complete package of a custom designed Rocket Belt using the most advanced technology and aerospace materials with the special distillation machine to produce your own rocket grade fuel hydrogen peroxide.
TAM have built and flight more Rocket Belts than any other company or individual in the world, even more than the original Bell company.
We are the only company that can make a custom Rocket Belt.
This is the kind of flying machine that millions of people saw in the James Bond 007 movies flown by Bill Suitor and at the opening ceremony of the Los Angeles Olympic Games in 1984 also flown by Bill Suitor.
Contact us for price and sale conditions.




Popular Machines / Jet Packs Finally On Sale: How to Buy Your Rocket Belt
https://www.popularmechanics.com/flight/how-to/a1756/4217989/

Mexican start-up Tecnologia Aeroespacial Mexicana (TAM) offers its custom-built TAM Rocket Belt for $250,000, which includes flight and maintenance training. On a full tank of hydrogen peroxide the belt weighs 124 to 139 pounds (the bigger the pilot, the bigger the belt), and provides 30 seconds of flight.

ということで、"ロケットマン" は決して未来のものではなかったが、金額は高いし耐熱服を着なければならないしということで、手軽な乗り物として人々が乗りこなす時代は今後も来なさそうだ。

それではホバーボードはどうだろうか。
最も技術的に確立していると思われるのは、フランスのフランキー・ザパタ (Franky Zapata) が2016年に発表した「Flyboard Air」だろう。その後も改良が重ねられ、昨年ついに英仏海峡横断を成し遂げた。

TECHABLE フランス人発明家がホバーボード「Flyboard Air」で英仏海峡横断に成功! (2019年8月6日)
https://techable.jp/archives/104968

フランス人の発明家フランキー・ザパタさんが、2度目の挑戦でホバーボード「Flyboard Air」での英仏海峡横断に成功した。
直立した状態で自由に空を飛べるというFlyboard Airに乗り、長さ35キロの海峡を22分で横断した。
Flyboard Airは5つの小型ジェットエンジンを搭載したベース部分や燃料を積んだバックパックのようなものから構成され、ザパタさんのツイッターによると、飛行時の速度は最高で時速170キロに達したという。
ヘリコプターなどに比べるとかなり軽装備でありながら、それなりのスピードで数十キロも飛べるというのはまさに新テクノロジーであり、海峡を渡る以外の用途も考えられる。実際、ザパタさんの発明には、フランス政府が軍用途を目的に出資も行なっているとのことで、将来的には上空からの偵察などに活用されることもあり得る。
横断達成後のザパタさんは「疲れた」と語っていて、少なくともこのホバーボードは今のところレジャー向けではないことは確かなようだ。




Flyboard Airは凄いことは間違いないが、一般的に身近な存在ではなく、空中を人が飛び交うイメージは程遠い。やはり常識的な金額で買えるものでなければ普及はしないだろう。
ということで実際に市販されている(されていた)ホバーボードとして「HENDO Hoverboard」と「ArcaBoard」を見ていこう。

「HENDO Hoverboard」はアメリカのHENDO HOVER社が製作した次世代ホバーボードで、特殊な地場を発生し浮遊させる仕組みになっており、アルミニウムや銅など、伝導性のある物質の上で2.5センチほど浮遊する。

The Hendo Hoverboard
https://hendohover.com/

The hoverboard is simultaneously fascinating and exhilarating. The enabling technologies for its success have been in existence, but no one had yet been able to align them to give rise to a hoverboard. Hendo has done so, and our hoverboards are working in almost every way we could have imagined. The magic behind the hoverboard lies in its disc-shaped hover engines. These engines induce an opposing magnetic field in the surface substrate below that provides lift, levitating our board off the ground.



日本でも2014年に輸入代理店のドゥモアによって販売された。 HENDO 1.0 Hoverboardというモデルだ。

INSIDE 空飛ぶスケボー「HENDOホバーボード」国内販売が決定、価格は130万円 (2014年12月5日)
https://www.inside-games.jp/article/2014/12/05/83157.html

「HENDOホバーボード」は2015年10月出荷予定で、価格は130万円(税別)。「HENDO開発キット-THE WHITEBOX+-」は2015年7月出荷予定で、価格は15万円(税別)です。なお、ドゥモア・ショップにて予約受付中です。

しかしその後の更新情報がない。HENDO社のホームページでも2013年1月の最初のプロトタイプから2015年10月のHENDO 2.0まで掲載されているが、その後のモデルは 2016 SOON となったままである。



HENDO Hoverboardは「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅡ」のホバーボードのイメージに近いのだが、伝導性のある物質の上でないと浮遊できない点など、まだまだ課題は多そうだ。

もうひとつの「ArcaBoard」は、アメリカの航空宇宙企業 ARCA Space Corporationが開発した製品で、場所を選ばずに浮遊できるものだ。

ARCA / ArcaBoard
https://www.arcaspace.com/en/arcaboard.htm

The ArcaBoard is a machine lifted by 36 high power electric ducted fans with a maximum thrust of 200 kgf (430 lbs). It has a built-in stabilization unit, meaning that ArcaBoard is stable in any condition and is a very safe platform to fly on. You will be able to utilize your phone for control and navigation of the vehicle itself. But for the most intense experience you can turn off the stabilization system and steer the ArcaBoard with your body.



この製品も2016年頃に日本国内で購入できた。2,903,590円だったようだ。

海外通販のRAKUNEW(ラクニュー) ArcaBoard|夢のホバーボード「アルカボード」
https://www.rakunew.com/items/73010



消費電力が課題であるが、安定感はありそうでスケボーに乗れなくても扱えそうだ。この形なら椅子を設置して座って乗れるようにすれば、高齢者の移動手段にもなるのではないかと思う。
子供の頃は未来に夢を描き、その実現に向けて人類の開発する技術は確実に進歩しているが、私はだんだん現実的な考えになってしまっていることが悲しい。



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日常の業務ではMicrosoft Excelを多用している。というかExcelなしでは仕事が全く成り立たない状況であり、これは私だけでなく世の中の相当数の人に共通しているのではないだろうか。Excelをはじめとする表計算ソフトは人類最高の発明のひとつだと思う。

現在のパソコン用の表計算ソフトのスタートは、1979年に発売されたVisiCalcだ。

VisiCalc
https://ja.wikipedia.org/wiki/VisiCalc

1979年、Personal Software 社が Apple II 向けに発売した VisiCalc は、ダン・ブリックリン考案、ボブ・フランクストン設計、彼らの Software Arts社開発によるものであった。これにより Apple II はホビースト向けの玩具から便利なビジネスツールへと変貌した。
ブリックリンによれば、彼はハーバード・ビジネス・スクールで教授が黒板に金融モデルを書くのを見ていた。その教授が間違いに気づいてパラメータを修正しようとしたとき、表の中の大部分を消して書き直さなければならなくなった。これを見たブリックリンは、このような計算をコンピュータ上で処理する「電子式表計算」を思いついたのである。
ブリックリンは友人のフランクストンと共同でSoftware Arts社を設立し開発をスタートさせた。1978年から1979年にかけての冬の2カ月間でVisiCalcを開発。
VisiCalc はビジネスツールとしてのパーソナルコンピュータの有効性を示し、Apple II の躍進に寄与した。このことは、それまでPC市場を無視していたIBMがPC市場に参入する要因にもなった。




VisiCalcで特筆すべきは、当時既にベストセラーとなっていた Apple II 向けのソフトであったことである。ブリックリンは当初、表計算専用のハードウェアを設計・製造して販売することを考えていたが、大学教授から紹介されたダン・フィルストラの「わざわざハードを作らなくても、既に売れているハード向けにソフトを作って売ったほうが賢明だ」という助言に基づくものだ。
ハードのパソコンはまだ何に使用されるかが模索されていた段階で、VisiCalcはビジネスや確定申告などの一般的な使用への道を開き、またApple IIは一般ユーザーにも購入されるようになった。
そしてこれを機にコンピュータ業界ではソフトウェアの重要性が認識されるようになった。まさにビジネスモデルを変えた歴史的なソフトだと言えよう。

しかし、表計算ソフトのプログラムはそれまでにも大型のメインフレームにおいて存在していた。以下を参照しながらもう少し遡ってみてみよう。

Spreadsheet Early implementations
https://en.wikipedia.org/wiki/Spreadsheet#Early_implementations

SlidePlayer SPREADSHEETS by Marjory White
https://slideplayer.com/slide/8415149/

(1) BCL
表計算ソフトのコンセプトは、1961年に当時カリフォルニア大学バークレー校のRichard Mattessich (1922~2019) によって「Budgeting Models and System Simulation」という論文で概説された。
そして2人の研究助手Tom C. SchneiderとPaul A. Zitlauの助けを借りて、Fortran IVを使用してメインフレーム用のこのコンピュータープログラムが作成され。1962年にIBM 1130にて「BCL」 (Business Computer Language) というプログラムとして実行された。これはバッチシステムなので我々が表計算として描いているリアルタイムなものとは全く異なる。その後BCLは1968年にIBM 360/370に移植され、ワシントン州立大学での金融の授業でも使用された。

(2) LANPAR
1969年にはハーバード大学の学生だったRene K. PardoとRemy Landauは「LANPAR」 (LANguage for Programming Arrays at Random) と呼ばれるプログラムを開発した。LANPARはBell Canada、GE、AT&T、および多くの電話会社によって予算管理業務に使用された。
LANPARはユーザーに任意の順序で入力させ、電子コンピューターに正しい順序で結果を計算させる (自動自然順序計算アルゴリズム) という特徴があり、これは後にVisiCalc、SuperCalc、MultiPlanの最初のバージョンで使用された。

(3) Autoplan / Autotab
1968年にGeneral Electricコンピューター会社の3人の元従業員でCapex Corporationの創業者であるA. Leroy Ellison、Harry N. Cantrell、and Russell E. Edwardsがビジネスプラン作成の計算のためのプログラム「Autoplan」と開発し、GEのタイムシェアリングサービスで使用された。またその後IBMメインフレームでは「Autotab」として導入された。AutoPlanとAutoTabはスプレッドシート用のシンプルなスクリプト言語であった。

(4) IBM Financial Planning and Control System
1976年にIBM CanadaのBrian Inghamが開発したもので、少なくともIBMで30か国で実装された。 IBMメインフレームで実行され、APL (プログラミング言語) で開発された最初の財務計画用アプリケーションの1つであり、プログラミング言語をエンドユーザーから完全に隠すことができた。ユーザーは、行間および列間の単純な数学的関係を指定でき、また非常に大きなスプレッドシートをサポートできた。またバッチシステムから引き出された実際の財務データを各ユーザーのスプレッドシートに毎月ロードできるなど、プログラムの効率を従来の50倍も向上させるものだった。

(5) APLDOT
1976年に米国鉄道協会でIBM 360/91で開発された表計算ソフトで、メリーランド州ローレルのジョンズホプキンス大学応用物理学研究所で運営された。
この表計算ソフトは米国議会およびConrailの財務および原価計算モデルなどのアプリケーションの開発に長年にわたって使用された。

このように表計算ソフトの発案者はRichard Mattessich (のちにカナダのUniversity of British Columbiaのビジネスエコノミストで会計学名誉教授) だ。

Decision Support Systems Resources Spreadsheet:Its First Computerization (1961-1964)
http://www.dssresources.com/history/mattessichspreadsheet.htm

Mattessich also pioneered financial spread sheet analysis and simulation and did the basic research on which such best selling micro-computer programmes as Visi-Calc, super-Calc, Lotus 1-2-3, etc. are based. His book Simulation of the Firm through a Budget Computer Program (1964) contains the following basic ideas, decades later revived in those micro computer programmes: the use of matrices or spread sheets, the simulation of financial events, and most importantly, the support of individual figures by entire formulas behind each entry.
From: Hugh Legg "Ricco Mattessich: Acclaimed Researcher," Viewpoints (Summer 1988)




表計算ソフトはMattenssichの発案が種となり、VisiCalcで芽が出て、Lotus 1-2-3を経てMicrosoft Excelで花開いたという感じだろうか。
今後も表計算ソフトの機能は拡張してより便利に (または消化不良に) なっていくだろうが、それはMattenssichの発案の延長線上に位置するものだ。近い将来に全く新しい価値を提供する、これまでとは不連続で破壊的イノベーションを起こす製品が出現し、現在の表計算ソフトが足元をすくわれる日がくるかもしれない。日常業務を通じてアンテナを高く張っておこう。



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