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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

書道が苦手な私にとって、能書家 (書に優れていた人) はとても尊敬する存在である。 達筆な字や文章には本当に魅了される。

さて日本の書道同様に、アラビア書道もまた文字を芸術の域に引き上げており、加えて絵画のような美しさがある。
以下にアラビア書道の紹介と解説があるので参照いただきたい。

Islamic art institute 美しきアラビア書道の世界
https://islamicpeaceart.com/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%8D%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E6%9B%B8%E9%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C/

まずはアラビア書道の歴史を確認してみよう。

日本アラビア書道協会 アラビア書道の歴史
https://www.jaca2006.org/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E6%9B%B8%E9%81%93%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

アラビア書道は、クルアーン (コーラン) と深い関わりを持っています。クルアーンはアラビア語で書かれ、西暦650年ごろに編纂されました。しかし、当時アラビア文字は地域によって多様で、書き方も明確に統一されていませんでした。さらに、文字に打つ点の数や位置さえも一貫していませんでした。しかし、アッラーの啓示であるクルアーンを読み間違えないために、アラビア文字には点の打ち方や数が規定され、母音表記のための符号も追加されました。これにより、アラビア語の正書法が徐々に確立されていったのです。
アラビア書道の創始者として知られる人物は、アッバース朝時代の大臣であるイブン・ムクラ (885年頃~940年) です。彼はアラビア文字の形を体系的に整理し、幾何学的な法則と尺度に基づいて文字を書くことを可能にしました。さらに、ナスヒー (ナフス)、ムハッカク、ライハーニー、スルス、タウキーウ、リカーウの6つの重要な書体を確立しましたが彼の直筆作品は現在では残っていません。

アラビア書道の発展には、イスラム教が偶像崇拝を禁じているという要素も一因として挙げられます。クルアンの書写はアラビア語において重要な役割を果たし、優れた書家が輩出されました。

イスラム教の普及とともに、アラビア書道の書体も地域や時代ごとに様々な形が現れるようになりました。
活版印刷技術の登場は、アラビア書道や書道家の立場に大きな変化をもたらしました。コーランの写本は手書きでしか認められませんでしたが、1727年にイスタンブールでリトグラフ印刷術が導入されることで印刷が可能になりました。1924年にエジプトのカイロでクルアーンの活字印刷が許可されるようになると、イスラム教徒の手に入りやすくなり、書道家へのクルアーン写本への依頼が漸減しました。
アラビア書道はクルアーンの写本としての役割から純粋な芸術の領域へと移行して行きました。

アラビア書道の創始者として知られるイブン・ムクラは、10世紀前半にアッバース朝の高位職を歴任したペルシア人である。
アッバース朝の首都であるバグダードに生まれ、3度にわたってワズィール (宰相) 職を務めた。しかし勢力を拡大する地方領主との争いに敗れて解任・逮捕され、最後は獄死している。
一方で、書家としてアラビア文字の形を体系的に整理し、幾何学的な法則と尺度に基づいて文字を書くことを可能にした。この功績は計り知れない。肖像や写真がないのが残念である。

イブン・ムクラが確立したとされるアラビア書道の6書体をみていこう。

スルス体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%82%B9%E4%BD%93

スルス体は大きく流麗な筆記体であり、母音記号や装飾のマークを含む場合がある。アラビア文字を用いる書法において、スルス体は「カリグラフィーの母」と呼ばれる。
スルス体における重要な一側面は、母音を表すために発音記号を使うことと、書を美しくするためにその他の様式的な印を使うことである。母音表記のルールは他のアラビア文字書体と同じであるが、様式的な印の方は配置や組み分けに関して独自のルールがある。そして、それらをどのような形にするか、どれぐらい傾けるかということについては、書家の創作力に大きく委ねられている。
各時代の書家は、スルス体にさまざまな変更や工夫を凝らすことによって、多様な派生書体を生み出した。

ナスフ体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%95%E4%BD%93

ナスフ体という名称はアラビア語で転写を意味する語の語根 「ナサハ」 より採られていると考えられている。ナスフ体は文字装飾が小さいという特徴を持っており、アラビア語、ペルシア語、パシュトー語、シンド語で書かれた文章を印刷する際に一般的に用いられている。
ナスフ体はスルス体から派生して生まれた書体であり、より小さく優美な書体を求める過程で導入された。細いペンを使用して文字を書く際、書籍作成に使用する目的に非常に適った書体でクルアーンを写本する際に使用されていた。
現代でも幅広い用途で使用されている書体である。コンピュータでは一般的にナスフ体もしくはナスフ体様書体が使用されている。

ムハッカク体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AB%E3%82%AF%E4%BD%93

ムハッカク体は「マシャーヒフ」 (クルアーンの転写物など) を転写するために用いられることが多く、この書体は有数の美しい書体であると同時に、習得することが難しい書体の一つであると考えられている。
ムハッカクという語はアラビア語で「完成」もしくは「明快」を表す単語である。
ムハッカク体は、マムルーク朝の時代 (1250~1517年頃) に最も盛んに使用されたが、オスマン朝の時代に入ってから次第にスルス体やナスフ体に取って代わられるようになった。

タウキーウ体
https://en.wikipedia.org/wiki/Tawqi

(翻訳) タウキーウ体はスルス体を修正し、小さくしたものである。オスマン帝国では主に国家文書に使用された。

ライハーニー体
https://en.wikipedia.org/wiki/Rayhani_script

(翻訳) ライハーニー体はアラビア語とペルシア語でバジルを意味する。バジルの花や葉に例えられており、ムハッカク体より細かい変種と考えられている。

リカーウ体
https://en.wikipedia.org/wiki/Reqa%27

(翻訳) リカーウ体は小さな紙に書かれた私信や、非宗教的な書物や文章に使用された。リカーウ体は他の書家によって徐々に簡略化され新しい文字に変更され、現在ではアラブ諸国で最も一般的な手書き文字となっている。

 

これらの6書体がイブン・ムクラにより確立され、その後構成の書家によって変更が加えたりして今日に受け継がれている。
我々が日常的に目にするサウジアラビア国旗のアラビア文字は、イスラームにおける五行の一つであるシャハーダの 「アッラーのほかに神なし、ムハンマドは神の使わせし者」 であるが、これはスルス体で記されている。

なお、イブン・ムクラの10世紀より前にはクーフィー体という書体が用いられていた。
これは8世紀から10世紀にかけ、クルアーンの写本における一般的な書法として定着したもので、曲線的な筆致ではなく、角張った直線形の字体である点が特徴である。
いくつかのイスラム建築で見られるほか、現在のイラクの国旗の 「アッラーフ・アクバル(アッラーフは偉大なり)」 はクーフィー体である。

このように、アラビア書道はとても奥が深い。私がアラビア文字を読めないこともあるが、イスラム世界の神秘性を高めているように思う。
書物を読むのは無理だが、建築などを通じてアラビア書道に接する機会を増やしていきたい。

 



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多くの日本人にとって英語の習得は頭の痛い問題であろう。
英語がネックで自分の表現が制限されてしまうケースが数多くある。多くの時間をかけて英語を勉強してきたのに。
そもそも英語は言語なのだから、我々の日本語同様にネイティヴスピーカーは特に労せずに英語を使っているわけで、不公平感が甚だしい。
日本人が英語の勉強に費やす時間と費用を他にまわすことができれば、日本の生産性や経済力はもっと上がっていたのではないか。
と常々思う。

この問題について、2000年初めに当時の小渕総理大臣が施政方針演説で、「21世紀を担う日本人はすべて英語を自在に使えるようにすべきである」 という旨の発言をし、同総理の私的諮問機関である 「21世紀日本の構想」懇談会は「英語の第二公用語化」を提言し、国民的議論の必要性を訴えた。
しかしこの議論が盛り上がることはなく、具体的な検討が進められることもなかった。
2001年の飯塚成彦氏の「英語の第二公用語化は可能か」 (白鷗大学論集) という論文に詳しく取り上げられている。

英語を日本の公用語とするチャンスがあったとすれば、誰もが考えるとおり、それは終戦直後のGHQ統治下での強要であったろう。
実際にそのような計画は進められた。

漢字廃止論 戦後初期
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%BB%83%E6%AD%A2%E8%AB%96#%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%88%9D%E6%9C%9F

太平洋戦争終結後、1948年に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にする計画が起こされた。同年3月、連合国軍最高司令官総司令部に招かれた第一次アメリカ教育使節団が3月31日に第一次アメリカ教育使節団報告書を提出し、学校教育の漢字の弊害とローマ字の利便性を指摘した。正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示、1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査 「日本人の読み書き能力調査」 が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。
柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」 と遠回しに言われたが、柴田は 「結果は曲げられない」 と突っぱね、日本語のローマ字化は撤回された。
しかし、後に問題を作成した国語学者たちは、実は平均点が上がるよう、難しく見えるが易しい問題を出したとも語っている。

柴田武は、日本語の表記に使用する文字をローマ字 (ラテン文字) にすべきだという国字ローマ字論者であり、この計画がローマ字表記化を目論んでいたことは想像できる。
尚、上記の 「平均点が上がるよう、難しく見えるが易しい問題を出した」 という点は以下に記載がある。

PRESIDENT Online 日本人から漢字を取り上げ、ローマ字だけにする」戦勝国アメリカが実行するはずだった"おそろしい計画" 日本人の識字率の高さが、日本語を救った
https://president.jp/articles/-/64646?page=4

1万7000人が対象で、90点満点で平均点は78.3点だった。たとえ問いに対する答えは誤っていても、識字率そのものはほぼ100%に近かったのである。
この結果は、GHQのローマ字論者を黙らせるに十分であった。平均点が50点以下なら、ローマ字社会になっていたかもしれないと語りぐさになっている。
これは裏話になるが、問題を作成した国語学者たちは「実は平均点が上がるよう、難しく見えるが易しい問題を出した」とこっそり漏らしていた。

これが良かったのか悪かったのかはわからないが、史実として日本語のローマ字表記への移行はなされなかった。この計画が実際に採用されていたら、次段階として英語の公用語化の話が進んでいた可能性は大いにある。

海外に目を向けると、一般的に、母国語でなく英語を公用語に制定している国はかつての英米の統治を経験している国が多く、また多言語国家であったり、教育環境の関係で中高等教育では教授言語が英語となる、などの事情がある。
日本の英語公用語化は現実問題としては難しいようだ。

ちなみに、国立国語研究所のチームが2022年に、1948年の 「日本人の読み書き能力調査」を現代に合わせて表現や語彙を修正して、岡山県の自主夜間中学校でテスト (参加者は10~80代の生徒28人とスタッフ15人) を行った。結果は生徒の平均点は79.3点でスタッフは87.9点だったそうだ。問題のサンプルも掲載する。

産経ニュース 日本の識字率、今も高い? 戦後調査から70年、全国実施目指す 国立国語研究所
https://www.sankei.com/article/20220910-LEPJ6RHQJBPRXFVNDEBNI2Y24M/

 

さて、国字ローマ字論は明治時代の初期から唱えられていた。1885年にはローマ字を推進する団体として 「羅馬字会」 (ろーまじかい) が設立された。(なぜ漢字で表記しているのか、とツッコミたくなる)
1910年には、歌人で国語学者の土岐善麿が歌集の 『NAKIWARAI』 を発行するなど、ローマ字による文学作品も発行された。

その後の詳細は割愛するが、その中では「ヘボン式」「訓令式(日本式)」で意見の相違があり、その後いくつかの団体に分かれたり、団結したりしたようだ。1921年から活動していた 「日本ローマ字会」 は、会員の高齢化による減少により2023年3月に解散した。一方で同じくローマ字運動を展開する 「日本のローマ字社」 は活動を続けている。

その 「日本のローマ字社」 のホームページを参照すると、日本語のローマ字化が実現していた世界が少し体験できる。

公益財団法人日本のローマ字社 Kôeki Zaidan Hôzin Nippon-no-Rômazi-Sya
http://www.age.ne.jp/x/nrs/

右側のローマ字表記だけでの読解はかなり厳しい。訓令式なのでさらに違和感がある。まぁ慣れの問題化で、世の中が全てこの表記だったら、ふつうに読み書きをしているだろうが。

結局、どのような経緯があったにせよ、現実に今どのようになっているかを受け止めて、その中で対応していくしかないのだ。

 



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勲章というと、とても崇高なイメージがあり、我々一般の国民からはかけ離れた存在のものである。
日本国憲法第7条7号で天皇の国事行為の一つとして「栄典を授与すること」が定めらており、これに基づいて日本の勲章は天皇の名で授与される。
様々な変遷を経て、勲章は現在22種類存在し、菊花章、桐花章、旭日章、瑞宝章、宝冠章、文化勲章に大別される。一般人視点でなじみがあるのは、科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた者に授与される文化勲章であり、毎年11月3日に皇居宮殿松の間で親授式が行われ、天皇陛下から直接授与されている。

内閣府 日本の勲章・褒章 勲章の種類及び授与対象 
https://www8.cao.go.jp/shokun/shurui-juyotaisho-kunsho.html

 

さて、日本の勲章の起源は幕末まで遡るが、日本の最初の勲章と呼ばれるものは 「薩摩琉球国勲章」 である。これは日本政府によるものではなく、薩摩藩が1867年のパリ万博においてナポレオン3世やフランス高官に贈呈したものであった。

薩摩琉球国勲章
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E7%90%89%E7%90%83%E5%9B%BD%E5%8B%B2%E7%AB%A0

1867年にフランスで開催されたパリ万国博覧会は日本が初めて参加した国際博覧会だが、そこに江戸幕府とは別に薩摩藩と佐賀藩もそれぞれ独自に出展を行った。中でも琉球王国を事実上の従属国としてその領土の一部を実効支配していた薩摩藩は、「日本薩摩琉球国太守政府」を自称して幕府とは別の独立国の政府であることを国際社会に訴えようとし、その戦略の一環として勲章の製作と贈呈が行われた。
各国の高官や外交官が一堂に会する万博は、様々な工作が繰り広げられる外交合戦の場でもあった。薩摩藩は幕府に先駆けて、かなり早い時期からこうした活動をパリで行なっており、同藩全権大使の岩下方平はシャルル・ド・モンブラン伯爵に勧められてフランスで薩琉勲章を制作し、これをナポレオン3世をはじめフランス高官に贈呈した。
デザインとしては、勲章の章部分は赤い五稜星の中央に丸と十を組み合わせた島津家の紋が白地で乗っている。紅白のコントラストが鮮やかで、五稜の間には「薩摩琉球国」の5文字が金色に光っている。。裏面には縦書き2行で「贈文官 兼武官」と記されている。大きさは、勲章を下げる綬とあわせて縦およそ10センチメートル、横4センチメートルと小ぶりである。

 

1867年のパリ万博については、2021年の大河ドラマ 「青天を衝け」 でも詳しく取り上げられ、吉沢亮演じる渋沢栄一や一行が、蒸気機関などに驚く場面などが描かれていた。

この中で薩摩藩が独自に出展していることについても描かれていたが、この経緯については以下が詳しい。

深港恭子 1867年パリ万博における薩摩藩とその出品物について
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20220517125815-1.pdf

フランスにおいて、万博開催に向けた具体的な準備が始まったのは1865年3月のことで、すぐさま諸外国の政府に対して万博への正式な参加要請が行われた。
日本で幕府が参加の意思を表明したのは1865年8月22日の書簡においてであった。当初幕府独自で出品物の収集が始まったが、1866年5月19日に至って諸藩や商人にも出品を呼びかけることとなる。
ただし、あくまでも幕府統率の下での「日本」の展示が意図されていた。幕府に対して参加を表明したのは,江戸の商人清水卯三郎、薩摩藩 (1866年9月6日に表明)、佐賀藩であり,この4者が参加することとなったのである。
しかしながら、他方で薩摩藩は幕府の参加表明とそれほど変わらない1865年10月15日に単独での出品を決め、フランス人貴族のモンブランにその全権を委託して博覧会委員会に登録し 「琉球公国」 名で独自の展示場を確保した。
幕府の使節団が薩摩藩の 「琉球公国」 としての出品を知ったのは、一行がフランス・マルセイユに到着した1867年4月3日のことであった。これが発端となり国内における幕府と薩摩藩の政治的対立がパリを舞台に表面化することとなった。
幕府の抗議を受け幕府・薩摩藩・博覧会事務局の三者で協議が行われ、最終的に「日本」という枠組みの中で、幕府は「日本大君政府」、薩摩藩は「薩摩太守政府」と名乗り、展示場は別々に行うことになったのである。

 

薩摩藩は琉球産物や調度品など128品目、約400箱を出品し、特に薩摩焼は絶賛された。そして薩摩藩は参加記念票として「薩摩琉球国勲章」 をつくり、ナポレオン3世をはじめフランス高官に贈呈した。ナポレオン3世からその返礼も受け取っている。
勲章は相互交換が原則であり、勲章制度のない幕府は、国際外交の輪の中にとけ込むことが出来なかった。完全に幕府は後れをとった形となった。

危惧した幕府は、対抗するべく早急に勲章の鋳造・発行を行うよう計画した。それが 「葵勲章」 である。しかし、実現を見ないままに大政奉還が行われて幕府は滅亡し、この勲章は幻のものとなった。
ということで葵勲章は実在はしないが、1997年に千葉県松戸市の戸定歴史館の主導により、そのデザインの再現復刻された。 (戸定歴史館はパリ万博にも参加した徳川昭武が、隠居後に造った別邸だある戸定邸に整備された博物館である)

日本近代史研究者の長谷川昇氏の研究に基づくもので、三葉葵紋に龍がからむ伝統的なモチーフとなっており、徳川幕府の勲章として充分に権威を示している。

パリ万博から大政奉還の流れが少しでも違っていたら葵勲章が歴史上に存在し、日本の外交もまた違ったものとなったと思われる。
その点では残念だが、葵勲章は計画のみに終わったことが史実である。

 



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少し古い統計になるが、2017年の世界の映画製作本数は9,618本で、5,559本だった2005年と比較してほぼ毎年本数を増やしている。世界一の映画大国であるインドの本数の伸びが大きく全体を牽引している。

世界事典 - 映画製作本数ランキング
https://theworldict.com/rankings/produced-movies/

これだけ本数が増えると、映画評論家の方々は観るだけで多くの時間が割かれてしまい大変だと思う。さらに長くてつまらない映画というのは評論家の方にとっては苦痛になるのではないだろうか。
ということで上映時間の長い映画を紹介していく。

2023年4月時点で世界最長の映画は、スウェーデンのエリカ・マグヌッソン (Erika Magnusson) とダニエル・アンダーソン (Daniel Andersson) による 「Logistics」 (2012) という映画で、上映時間は51,420分に及ぶ。これは約36日 (857時間) に相当する。

Logistics (film) 
https://en.wikipedia.org/wiki/Logistics_(film)

(翻訳)
2008年、エリカ・マグヌッソンとダニエル・アンダーソンは、現代の電子機器がどこから来たのかを自問自答しました。そこで、歩数計の生産サイクルを逆時系列で追いかけ、最終的な販売からその起源と製造まで遡っていくことを思いつきました。旅のルートは、ストックホルムから始まり、インシェーン、ヨーテボリ、ブレーマーハーフェン、ロッテルダム、アルヘシラス、マラガを経て、深センの宝安の製造元で終了しました。
このプロジェクトは、製品を購入したストックホルムの店舗から製造された中国の工場までの製造ルートを追いながら、工場への移動中や工場でのロケをリアルタイムで撮影しました。
51,420分の本作は、2012年12月1日から2013年1月6日までウプサラ市立図書館、ストックホルムのThe House of Cultureで上映され、2014年のFringe Film Festival Shenzhenで世界初公開、ネット配信されました。

Logistics Art Project
https://logisticsartproject.com/

 

72分に短縮されたバージョンがYouTubeにあるので、これを倍速かつ飛ばし飛ばしでの鑑賞がちょうどよさそうだ。

同じくスウェーデンから、アンデシュ・ヴェドベリ (Anders Weberg) による 「Ambiancé」 も720時間というとんでもない長い映画の予定だったが、公開はされなかった。

Ambiancé
https://en.wikipedia.org/wiki/Ambianc%C3%A9

(翻訳)
この映画の上映時間は720時間と予想され、当初は2020年12月31日に公開予定だった。この映画の最初の上映が完了すると、ヴェドベリは映画全体の唯一存在するコピーを破棄し、これは「存在しない映画で最も長いもの」と語った。 また彼はこれを最後の映画と明かしたことがある。
ヴェドベリは古い名画の再創造に対する抗議としてAmbiancéを制作したと述べている。
2016年の時点で、ヴェドベリは400時間の映像を完成させたと主張しており、公開日までに映画を完成させるためには、毎週7〜8時間の生映像を撮影しなければならないと述べていた。ヴェドベリは本作の予告編を2本公開しており、その1本目は2014年に公開され72分の長さである。2016年に公開した2本目の予告編は439分で、ノーカットのシングル・テイクで構成されている。彼は2018年に72時間の予告編を公開すると述べていたが、実現することはなかった。
Ambiancéは2020年12月31日に上映される予定であったが、これは実現しなかった。
2021年1月3日、ヴェドベリは自身のTwitterと映画の公式サイトに「C'est fini」(フランス語で「完成した」という意味)というフレーズを投稿した。このフレーズは、Ambiancéを完成させた後に監督を辞めたウェーバーグに関連して、映画の予告編の説明で使われていた。ウェーバーグ自身のウェブサイトでは、この映画をフィルモグラフィーに掲載しており、上映時間は43,200分、合計するとちょうど30日であるとしている。

ということで本作品は"未遂"に終わった感じだが、この2本目の予告編がYouTubeにある。少しだけ雰囲気を確認すれば充分だろう。

この2作品は監督であっても繰り返し観るということはないのではないだろうか。

さて上記2作品は実験映画 (experimental films) であり、顧客を対象にしたものというよりは、一部分だけが見られることが想定されている。
通常の映画 (cinematic films) の中で最長の映画は、バングラデシュのアシュラフ・シシル (Ashraf Shishir) による 「Amra Ekta Cinema Banabo」 (2019) という映画で、上映時間は1,265分で約21時間だ。

Amra Ekta Cinema Banabo
https://en.wikipedia.org/wiki/Amra_Ekta_Cinema_Banabo

(翻訳)
Amra Ekta Cinema Banabo (訳 We will make a film、副題The Innocence) は2019年5月16日に検閲委員会の前で上映され、5月19日にバングラデシュ映画検閲委員会から検閲証明書を受け取った。 バングラデシュ映画アーカイブにアーカイブされている。 2019年12月20日にバングラデシュでリリースされた。
この映画は、愛、夢、政治、革命、バングラデシュ解放戦争の余波に基づいており、欺瞞に満ちた展開、地域性のねじれ、人々の闘争と願望が特徴である。
2009年1月、パブナ県イシュワルディ・ウパジラのループール村にて主要撮影が開始された。全編はパドマ川とハーディンゲ橋を囲むイシュワルディと隣接する村で撮影された。撮影は9年間以上にわたり、4,000人のアーティストが参加した。

これも予告編 (4分) がYouTubeにある。セリフにOzu (小津安二郎) やKurosawa (黒澤明) の名前が出てくるのは誇らしい。

監督のアシュラフ・シシルは1983年生まれの映画監督・脚本家だ。2014年に監督したGariwalaは22カ国・65の国際映画祭で上映され、24の国際賞を獲得している。バングラデシュ国立映画賞も受賞しているが、最優秀短編映画賞というのが興味深い。次は世界最長映画を狙ったのだろうか。

これらの最長映画は現時点のもので、やろうと思えばいくらでも長い映画をつくることは可能だ。しかしSNSで短い動画が視聴され、かつ倍速で再生される時代に長い映画は敬遠されるだろう。
重要なのは映画としての面白さであり、時間を忘れるような作品であれば歓迎 (ただし限度あり) だ。

 



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国宝は文字どおり国の宝であるが、具体的には近代以降の日本において文化史的・学術的価値が極めて高いものとして法令に基づき指定された有形文化財のことである。
日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いもので類いない国民の宝たるものであるとして、国 (=文部科学大臣) が指定する。
カテゴリーは大きくは「建造物」と「美術品」、そして美術品には絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料、歴史資料がある。

現時点で国宝に指定されているのは以下のように1,131件 (2022年10月1日現在)だ。



さて現在の文化保護法は1950年に施行されたもので、それ以前と以後では「国宝」の扱いは大きく異なっている。

国宝 「旧国宝」と「新国宝」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%9D#%E3%80%8C%E6%97%A7%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%96%B0%E5%9B%BD%E5%AE%9D%E3%80%8D

文化財保護法施行以前の旧法では「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、国指定の有形文化財 (美術工芸品および建造物) はすべて「国宝」と称されていた。

従来の「国宝」は1950年時点で宝物類 (美術工芸品) 5,824件、建造物1,059件に及んだ。これらの指定物件 (いわゆる「旧国宝」) は文化財保護法施行の日である1950年8月29日付けをもってすべて「重要文化財」に指定されたものと見なされ、その「重要文化財」の中から「世界文化の見地から価値の高いもの」で「たぐいない国民の宝」たるものがあらためて「国宝」に指定されることとなった。混同を避けるため旧法上の国宝を「旧国宝」、文化財保護法上の国宝を「新国宝」と通称することがある。
文化財保護法による、いわゆる「新国宝」の初の指定は1951年6月9日付けで実施された。


すなわち現行制度下の最初の国宝は1951年6月9日付で登録されたものということになる。
「建造物」では以下の38件が該当する。さすがに有名な建造物が並ぶ。



「美術品」では143件が該当する。リストは割愛する。

さて、国宝には各カテゴリーで 「指定番号(登録番号)」 というものが存在する。 
これは国土行政区画による都道府県順に並べられたもので、国宝の時代順でもなく、ましてや国宝の価値順ではない。
一方で建造物のリストでわかるように欠番もあるし、日光東照宮などは遅めの番号になっているし、かなり飛んだ番号も存在したりする。
原則は北に位置するというだけであまり規則性はなさそうだが、せっかくなので各カテゴリーで指定番号00001の国宝をリストしてみよう。



建造物は「中尊寺金色堂」 (ちゅうそんじこんじきどう、岩手県平泉町) で、平安時代後期建立の仏堂である。
1124年に奥州藤原氏初代の藤原清衡が建立したもので、平安時代の代表的な浄土教建築である。



絵画は「絹本著色普賢菩薩像」 (けんぽんちゃくしょくふげんぼさつぞう、東京国立博物館) で、平安時代の絵画だ。
密教を唐に定着させた不空金剛の訳による「千手観音大悲心陀羅尼経」を元に描かれるが、胎蔵界曼荼羅の影響も受けているとのことだ。



彫刻は「木造弥勒菩薩半跏像」 (もくぞうみろくぼさつはんかぞう、京都・広隆寺) で飛鳥時代の彫刻だ。
作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、「日本書紀」に記される、西暦603年に聖徳太子が譲り受けた仏像、または623年に新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。



工芸品は「太刀 〈銘長光(大般若長光)〉」 (たち <めいながみつ (だいはんにゃながみつ)>、東京国立博物館) で、鎌倉時代の工芸品だ。
足利義輝より三好長慶を経て、織田信長が所持し、姉川合戦に功績のあった徳川家康に贈られ、その後、長篠の戦功により奥平信昌に与えられた。
「大般若」と号し、室町時代以来の大名物として名高い備前長船 (岡山県) の刀工・長光の傑作である。



書跡・典籍は「圜悟克勤墨蹟〈印可状〉」 (えんごこくごんぼくせき、東京国立博物館) で、1124年の中国の作品だ。
中国・北宋時代の禅僧である圜悟克勤が弟子に与えた印可状の前半部分で、現存する墨蹟 (禅僧の筆跡) として最古のものである。この墨蹟が桐の筒に入って薩摩の坊ノ津海岸に漂着したという言い伝えから、「流れ圜悟 (ながれえんご)」と呼ばれている。



考古資料では「袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉」 (けさだすきもんどうたく、東京国立博物館) で、1124年の作品だ。弥生時代の資料だ。
江戸時代に讃岐国で発見されたと伝える銅鐸で、僧侶の袈裟襷の模様に似ていることから、この名前がついた。
絵画は、トンボ、イモリ、シカを射る人、工字型の道具を持つ人などが描かれている。弥生時代の農耕社会や生活環境を知るうえで貴重な資料であるが、その解釈についてはさまざまな説がある。



ということでこれらが「現行制度下で最初に登録された指定番号00001の国宝」となる。繰り返しだが国宝第1号という意味ではない。

ちなみに、古文書カテゴリーの指定番号00001は「海部氏系図」 (あまべしけいず、京都府個人所蔵) で1976年6月5日に指定されたもの、また歴史資料カテゴリーは「慶長遣欧使節関係資料」(けいちょうけんおうしせつかんけいしりょう、仙台市博物館) で2001年6月22日に指定されたものだ。

重要文化財も含めて有形文化財はいずれも他に代えられない価値を持っており順位などないが、指定番号をきっかけに多くの文化財に親しむ人がいてもいいのではないか、と思う。


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芸術の価値を金額で示すことは好きではないが、世の中には高額な金額で取引される絵画が存在し、その時点でその金額で評価されたということは事実である。
多くの日本人にとって印象深い高額な絵画の購入は、1987年の安田火災海上によるゴッホの『ひまわり』の購入だろう。ロンドンのクリスティーズで2250万ポンド (当時の為替レートで約53億円、最終的には手数料込みで約58億円) で落札した。
日本ではバブルの象徴的に報道されたが、それまで1800年以前のオールド・マスターの作品が絵画オークションの中心だったところに、初めてゴッホという「モダンな」絵画が高額売買の記録されたことに意義があった。
これを機会に絵画の取引価格が高騰し、その後30年以上で多くの絵画がより高額な価格で取引されている。また現代絵画や印象派が多くを占める傾向にある。

『ひまわり』以降の高額な絵画の一覧は以下に記されている。

List of most expensive paintings List of highest prices paid
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_most_expensive_paintings#List_of_highest_prices_paid

2022年4月時点で最も高額で取引された絵画は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』だ。青いローブをまとったイエス・キリストの肖像画である。

サルバトール・ムンディ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3

1500年ごろフランスのルイ12世のために描かれたとみられる。後に、イギリスのチャールズ1世の手に渡ったが、1763年以降行方不明となる。
1958年にオークションに出品されたが、複製とされてわずか45ポンドで落札された。2005年に美術商が1万ドル足らずで入手した後、修復の結果ダ・ヴィンチの真筆と証明される。2008年にロンドンのナショナル・ギャラリーが世界中の権威5人に鑑定依頼。結果は賛成1、保留3,反対1であった。2011年にはロンドンのナショナル・ギャラリーで展示された。2013年にサザビーズのオークションでスイス人美術商に8000万ドルで落札された後、ロシア人富豪ドミトリー・リボロフレフが1億2750万ドルで買い取った。
2017年11月15日にクリスティーズのオークションにかけられ、手数料を含めて4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円)で落札された。この額は、2015年に落札されたパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」の1億7940万ドル(約200億円)を抜き、これまでの美術品の落札価格として史上最高額となった。
落札後の所有者は不明とされていたが、サウジアラビアの王太子ムハンマド・ビン・サルマーンが所有する高級ヨットの中にかかっていたことが2021年に報道されている。クリスティーズでの落札後は一度も一般公開されていない。




絵画として波乱に満ちた歴史を歩んでいるようだ。所有者が絵画を一般公開するしないは自由だが、くれぐれも大事に扱ってほしい。

高額ランキングとしては、2位はウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』、3位はポール・セザンヌの『カード遊びをする人々』 と、現代絵画やポスト印象派が上位に続いている。多くが個人間取引であることも特徴として挙げられる。



さて、これらは取引された絵画であり、特に1800年以前のオールド・マスターの作品は通常は美術館が所有していて所蔵品が売却されるは希である。従って多くの名画の価格は「値段がつけられない」ということが実際のところである。
参考までに最高額の絵画と推定されているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』で、1962年にアメリカ国内各地での展示における保険の査定が1億ドルだったそうだ。2020年の価格最低でも推定約8億6000万ドルであり、『サルバトール・ムンディ』の約2倍である。実際に取引されたら本当に値がつかないのではないだろうか。

さて、高額で取引された絵画は多くが西洋美術であるが、ここにきて東洋美術もリストアップされるようになってきた。その筆頭として現代中国画の巨匠と評される 斉白石 (せい/さい はくせき、Qi Baishi) の『十二景図屏風』 (1925年) が2017年12月の北京でのオークションで1億4080万ドルで落札された。

Qi Baishi Just Became the First Chinese Artist to Break the $100 Million Mark at Auction | Artnet News
https://news.artnet.com/market/qi-baishi-record-140m-beijing-1182881

The painter Qi Baishi has become the first Chinese artist to join the $100 million club.
A set of Qi’s ink-brush panels, Twelve Landscape Screens (1925), sold for $140.8 million at Poly Beijing. It is the highest price ever paid for a work of Chinese art at auction.
The artist—best known for his calligraphy and brush painting—created the work in 1925, when he was 62 years old, according to a description on Poly’s website. “It can be regarded as the most expressive style from Qi Baishi’s stylistic transformations but is also the largest in dimension of the twelve landscape screens format,” the auction house says.




斉白石
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%99%BD%E7%9F%B3

白石は湖南省湘潭県杏子塢星斗塘の貧農に生まれ、幼い頃から絵を描くことを好んだ。7歳で数カ月間、私塾に通い初等教育を受けたが家計が貧窮したため学業が継続できず放牧などの手伝いをしながら独学で絵を描いて過ごした。少年期は体が病弱で鋤などを使う農作業ができず、12歳で大工見習いになり1年後に家具職人となった。10年余、木工として生活したが、その並外れた技能によって全郷に知れ渡ったという。木工の傍ら表具師出身の蕭薌陔(伝鑫)について肖像画を習い後に美人画も描いた。
27歳になってからようやく文人画家の胡沁園に就いて本格的に画の勉強を始め、精緻な花鳥画・鳥獣画を学んだ。また詩文を陳少蕃、山水画を地元画家の譚溥に学んでいる。30歳になると書法や篆刻も独学し、文人的な資質を培った。篆刻は大工だったこともあり鑿を使うように大胆に鉄筆を揮るい、拙劣な枯れた作風とされた。
40歳以後の7年間で「五出五帰」といわれるように5度にわたり中国全土を巡遊し名山や大河を堪能した。同時に過去の名家の真筆や銘文などを実見し芸術的な視野を広げた。その後10年を「家居十年」と呼び、故郷にじっくり腰を据え読書に耽り、詩書画印の製作に没頭した。「借山図巻」・「石門二十四景」などの大作もこの頃の作品である。
故郷での争乱事件を避けて、55歳で北京に居宅を定め、売画・売印で生計を立て始めた。当時の北京は臨模や倣古を重んじ文人的素養を第一とするような保守的な風潮が色濃く、農民出身で木工だった白石は白眼視され、ときに排撃された。このような辛い状況にあって高名な画家で日本に留学経験のあった陳師曽は白石の才能を見出し芸術的な交流を深めるとともに様々な形で白石を支援した。1922年、東京で開催された日中共同絵画展に白石の作品を出典したのも陳師曽だったが、これをきっかけに白石の国際的な評価が高まった。




東京国立博物館 - 1089ブログ 斉白石作品のたのしみかた
https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2018/12/11/%E6%96%89%E7%99%BD%E7%9F%B3%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%82%80/

斉白石の作品は『松柏高立図・篆書四言聯』 (1946年) も2011年に6550万ドルと高額で取引されている。
金額での評価の是非はともかく、世界の中で東洋美術がプレゼンスを高めることは喜ばしい。是非世界の人々に東洋の文化の奥深さをもっと知ってもらいたいのだ。


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現在は音楽を聴く場合はデジタル配信のストリーミングが中心となっており、CDの売上は大きく減っている。その一方でアナログレコード (gramophone records) が再び脚光を浴びており、かつて撤退したソニーが2017年に再参入するなど、商業的なレベルまで市場が拡大している。レコードプレーヤーも多く販売されており、Bluetooth機能ややUSB端子を搭載するなど時代にあった進化をしている。

レコードの形状としては、アルバムがLP盤 (直径30cm (12インチ)、33 1/3回転)、シングルがシングルレコード (通称はEP盤やドーナツ盤、直径17cm (7インチ)、45回転) が多く普及していた。クラシック音楽のLPを45回転で聴くとハイテンポになってノリが良くなったり、ということを試した方も多いだろう。
この2種類が標準的であったが、これは様々な開発と進化の結果で標準化されたもので、レコードの歴史の中では様々な形状のものが存在した。

世界最小のレコードは直径3.33cm (1 5/16インチ、78回転) で、1924年にイギリスのHMVのスタジオで録音されたレコードだ。

World’s Smallest Playable Record
https://medium.com/museum-of-portable-sound/worlds-smallest-playable-record-36d071b8bb42

The record holder for the world’s smallest playable record is a tiny shellac pressed by HMV in 1924, a functional miniature gramophone record containing a recording of Peter Dawson singing ‘God Save the King.’
It was originally created as part of a doll’s house for England’s Queen Mary that began construction in 1920.
The doll house contained functional items 1/12th the size of their real-life counterparts, including a functional miniature gramophone.
The record is 33.3mm / 1 5/16th inches in diameter and plays back at 78rpm. 35,000 copies were pressed.




メアリー王妃のドールハウスは、1924年に当時の英国王ジョージ5世の王妃、メアリー・オブ・テックへ贈られたものだ。1/12スケールで作られ、3フィート (91cm) を超える大きさのハウスに、ウィンザー城にある収蔵物や装飾物品がレプリカで収められている。レコードは1/12よりは大きいが、演奏可能なものとなると限界だったと思われる。王室の愛蔵品としてだけでなく、市販されたことがよかったと思う。



一方で世界最大のレコードは直径50cm (19.7インチ、120回転) で、1910年頃にフランスのPathéが発売したレコードだ。(ドイツのOdeon Record、イタリアのFonotipia Recordsも50cmのレコードを発売している)

Russian Record.com / Pathé Record
https://www.russian-records.com/categories.php?cat_id=55

Pathé was founded by brothers Charles & Émile Pathé, who were owners of a successful bistro in Paris.
In 1905 they entered the growing field of disc record . In October of 1906 they started producing discs in the more usual material of shellac. Even with this less eccentric material, Pathé discs were unlike any others.
The grooves were cut vertically into the discs, rather than the more common lateral method. The discs rotated at 90 rpm (and even 120 rpm), rather than 78 or 80.
The recordings started on the inside near the center of the disc, spiraling out to the edge rather than vice-versa. Possibly all of this unusual technology was a preventive measure to ensure that no other record company could sue Pathé for violating their patents. Even the record sizes were unusual; other disc records came in 7 inch, 10 inch, and 12 inch sizes, while Pathé's came in 21 cm, 25 cm, 27 cm, 29 cm, 35 cm, and 50 cm sizes. Unsurprisingly, these Pathé system records could only be played on Pathé phonographs, which would usually not play other types of recordings.




Pathéのレコードは当時の他のレコードとは全く異なり、120回転というのも独自だが、何よりも特徴的なのは演奏がディスク中央近くの内側から始まり端に向かって進むことで、とても違和感がある。



さらにレコードの「穴」(spindle hole) に注目すると、1907年から1914年まで営業していたアメリカのAretino Recordsのレコードは、3インチ (7.6cm) という最大の穴を持っていた。

Aretino Records
https://en.wikipedia.org/wiki/Aretino_Records

Aretino was started by Arthur J. O’Neill, who was linked to several Chicago-area record and phonograph operations.
Aretino is an oddity distinguished by its records' spindle hole, the largest ever produced for commercial purposes. A phonograph machine was offered cheaply, however, this phonograph could only play Aretino records because it came with a 3-inch spindle. The design was intended such that an Aretino record could be played on any disc phonograph of the time. As such, O’Neill also offered adapters for Aretino discs that allowed them to be played on phonographs with a standard spindle, or even on a Busy Bee machine with its extra spindle hole.




もともとレコードは、1877年にトーマス・エジソンが発明した円筒型レコード (フォノグラフ) と、1887年にエミール・ベルリナーが発明した円盤型レコード (グラモフォン) が競合し、量産が可能で保管にも幅をとらないという利便性からグラモフォンが勝利した規格争いの歴史がある。更にその形状や回転数についても様々な開発がされて淘汰された結果が標準的な規格となったものである。
その後もビデオやコンピュータのインターフェース等で様々な規格争いが展開されるが、レコードがその先駆けだと言えるだろう。



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クラシック音楽の古典派音楽やロマン派音楽は、いずれも日本の江戸時代のものである。当時の日本の音楽は鎖国政策のもとで箏と三味線を中心とした「邦楽」が進化し、浄瑠璃、地歌、長唄、筝曲などが発展した。このような中で初めて耳にした西洋音楽は大きな驚きであっただろう。
その初めての機会は1853年にペリーが浦賀に来訪時であり、この来訪には大規模な軍楽隊が同行していた。

明治時代におけるアメリカ音楽の受容 - 立命館大学
http://www.ritsumei.ac.jp › lcs › kiyou › pdf_26-1

ペリーの最初の日本訪問中、何度か西洋音楽が演奏される機会があった。7月10日の日曜日、サスケハナ号では安息日の礼拝が執り行われ、聖書の朗読と祈祷がささげられた。またフルバンドの伴奏で300名の水夫がアイザック・ワッツの "Old Hundreds" を合唱した。7月14日木曜日、楽団が "Hail Columbia!" を演奏する中、ペリー提督は日本に上陸した。

ということで、日本人が最初に耳にした西洋音楽は、初代アメリカ国家の "Hail Columbia!" と思われる。( "Old Hundreds" は船上での演奏)



その後幕末から明治にかけて、まず日本が取り入れた西洋音楽は軍楽であった。当時の日本は新式軍隊の整備を急いでいたが、西洋の兵器の訓練とあわせて西洋軍楽が導入され、オランダ式の鼓笛隊が編成された。
その後日本で初めての吹奏楽隊として結成されたのが薩摩藩士による「薩摩バンド」である。

薩摩バンド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89

薩摩藩と吹奏楽の遭遇は、1863年の薩英戦争とされる。イギリス軍は戦死者13名を錦江湾で水葬する際に葬送曲を演奏した。
1866年、薩摩藩はパークス駐日英国公使夫妻と英国陸海軍300人を招聘して磯海岸で相互の軍事訓練を披露。英国陸軍の演奏した軍楽を聴いた薩摩の人々は感心したという。また、英国艦に招待された島津久光・忠義親子の前で、英国の「国王の楽」(国歌)が演奏された。
1869年に大山巌が上京した際に、イギリス領事館を吹奏楽の指導を依頼した。薩摩藩は30人余りの藩士の若者(鼓笛隊出身者が中心であった)を「軍楽伝習生」として横浜に派遣。本牧山妙香寺(横浜市中区)で、イギリス陸軍第十連隊第一隊長のジョン・ウィリアム・フェントンの指導を受けた。
当初、楽器は竹や鋳物で間に合わせる状況で、楽譜も読めず惨憺たる有様であったという。島津忠義が資金を出して、ロンドンのベッソン楽器店に新品の楽器を注文した (1組1500ドルであったという)。新しい楽器が届くと、演奏の腕もみるみる上達したという。
主に公務で外国との式典の開会や閉会の際に音楽を奏でたと言われている。




この薩摩バンドを指導し、日本で最初に西洋音楽を指導したのが、ジョン・ウィリアム・フェントン (John William Fenton、1831~1890) である。

ジョン・ウィリアム・フェントン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3

フェントンは13歳で、少年鼓手兵としてイギリス陸軍に入った。日本を訪れる前にインドに13年、ジブラルタルおよびマルタに5年弱、ケープ植民地に3年4か月いた。1864年8月に第10連隊第1大隊軍楽隊長に就任し、その後同大隊は横浜のイギリス大使館護衛部隊となり、フェントンは妻と娘とともに1868年4月に横浜に到着した。
1869年10月頃から日本で初めての吹奏楽の練習として、横浜の本牧山妙香寺で薩摩藩の青年約30人を指導した。イギリスから楽器が届くまでは、調練、信号ラッパ、譜面読み、鼓隊の練習を行ない、1870年7月31日にベッソン社製の楽器が届いた。フェントンが使った教科書には楽譜の書き方から作曲法までがカバーされており、日本で初めて西洋音楽の理論を体系的に教えたとされる。




そしてフェントンと薩摩バンドによる最大のヒット曲(?)は「君が代」だろう。

君が代 礼式曲「君が代」の成立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3#%E7%A4%BC%E5%BC%8F%E6%9B%B2%E3%80%8C%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B

1869年4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。
当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山巌は、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞に選びフェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。
同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンドを設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。翌1870年8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏された。同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。
しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。



讃美歌的なメロディーでこれはこれで美しいのだが、確かに歌詞とは合っていないの残念である。結果的に1876年にフェントンの君が代は廃止されてしまった。
一方で交儀礼上欠かせないものとして国歌の必要性は認識され、1880年に雅楽演奏者の林廣守が作曲した (実際には廣守の長男の林広季と、宮内省式部職雅樂課の伶人である奥好義がつけた旋律をもとに林廣守が曲を起こしたもの) 現行の「君が代」が採用された。

さて、フェントンは1877年に任期を終えて帰国しているので、その後の現行の君が代については知らないと考えられていた。しかしフェントンが改訂に携わっていた可能性を示す資料が発見された。

日本経済新聞 2017年12月4日 元祖「君が代」作曲者に光 今村朗
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO24143730R01C17A2BC8000/

宮内庁の公文書館で史料を調べるなかで、改訂にフェントンが主体的に関わった可能性があることが分かった。1877年にフェントンの依頼で雅楽の演奏会が行われたことを示す史料が見つかったのだ。
同年、薩摩出身の海軍軍楽長、中村祐庸は「君が代」を雅楽風に改訂すべしという建議書を書いた。フェントンが雅楽を採譜して改訂するという一見奇妙な案だ。だが、フェントンが翌年離日し改訂には全く関わっていないというのが通説だ。
新史料の発見でフェントンが建議に従い、雅楽を学ぼうとした可能性が浮上した。なぜこのような改訂プロセスが構想されたのか。フェントンは1870年に薩摩藩から「君が代」を短期間で作曲するよう頼まれた際、本来なら日本古来の音調を学んでから作曲すべきだと述べたという。建議書はその意をくんだもので実際の作業にも着手していたというのが私の見方だ。
史料には雅楽の演奏家として現行の「君が代」の作曲者、奥好義の名前もあった。彼はフェントンに洋楽を学んでおり、師が依頼した演奏会の目的も知っていたはずだ。後年、奥は師に遠慮してか別バージョンを試作しただけだと述懐したが、師が成し遂げられなかった改訂を教え子が完成させたといえる。




尚、薩摩バンドが吹奏楽、そして初代君が代の練習を積んだ横浜の本牧山妙香寺は「日本吹奏楽発祥の地」「国家君が代発祥の地」となっている。
このように見ていくと、音楽も鎖国状態にあった日本がペリーの来航とともに西洋音楽に触れ、外国人の指導のもとで吹奏楽を習得し、並行して国歌が制定されたという流れがよくわかる。さらに単純に西洋音楽を取り入れるのではなく、日本の音楽の良さも再認識している。
現代の日本の音楽の礎はこの時代に横浜の寺で築かれたものと言えるだろう。


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オセロゲームはボードゲーム研究家・長谷川五郎氏によって開発されて1973年にツクダから発売された。19世紀にイギリスで開発されたリバーシに依拠しているかどうかの議論があるがここでは触れない。
オセロは運の要素がなく、2人のプレイヤーが互いに知恵を絞って実力だけを頼りに勝敗を決する。ゲームのルールは極めてシンプルだが、多数の戦術が生み出されている。「覚えるのに一分、極めるのに一生」というのキャッチフレーズがまさに当てはまる。
オセロは世界的に普及しており、2015年時点で世界36の国と地域に連盟があり、世界競技人口は約6億人と推計されているそうだ。ルールがシンプルで比較的短時間でプレーできるので老若男女問わず愛好者が多い。またひっくり返す様を「オセロのように」と表現することも多く、日常的にも浸透している。
世界選手権も1977年から実施されている (残念ながら2020年は中止)。2018年のオセロ選手権で当時11歳の福地啓介君が優勝しプラハから帰国する際に搭乗したANA機の機長は従前の最年少記録保持者の谷田邦彦氏 (1982年に15歳で優勝) で、谷田氏が機内アナウンスで福地君を称え自己紹介をしたエピソードは広く紹介された。



さて、オセロはゲーム理論において「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類される。

二人零和有限確定完全情報ゲーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E9%9B%B6%E5%92%8C%E6%9C%89%E9%99%90%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0

二人零和有限確定完全情報ゲーム (ふたり ゼロわ (or れいわ) ゆうげん かくてい かんぜんじょうほう ゲーム) は、ゲーム理論によるゲームの分類の一つ。
二人:プレイヤーの数が二人
零和:プレイヤー間の利害が完全に対立し、一方のプレイヤーが利得を得ると、それと同量の損害が他方のプレイヤーに降りかかる
有限:ゲームが必ず有限の手番で終了する
確定:サイコロのようなランダムな要素が存在しない
完全情報:全ての情報が両方のプレイヤーに公開されている という特徴を満たすゲームのことである
二人零和有限確定完全情報ゲームの特徴は、理論上は完全な先読みが可能であり、双方のプレーヤーが最善手を指せば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるという点である。実際には選択肢が多くなると完全な先読みを人間が行う事は困難であるため、ゲームとして成立する。


囲碁、将棋、チェス、五目並べなどのボードゲームがこれにあたるが、囲碁は対局者が合意しないと無限に継続したり、将棋・チェスは千日手の扱いが定かでなかったりするので、厳密には該当しない。
小学生の時に誰もが遊んだ三目並べ(○×ゲーム)で、慣れたプレーヤー同士だと後手がミスをしない限り絶対に引き分けになることを知っている方は上記の特徴の意味がよく理解できると思う。



オセロの複雑性 (ゲーム木複雑性) はおよそ10の58乗とのことだ。有限ではあるが、果てしない数字だ。
理論上は双方が最善手ならば先手必勝・後手必勝・引き分けのいずれかの結論が下せるはずだが、2019年時点では未だにコンピュータによる完全解析はされていない。しかし、盤面を4×4に縮小したオセロでは3対13で後手の必勝、盤面を6×6に縮小したオセロでは16対20で後手の必勝ということがわかっており、8×8のオセロは最善進行で引き分けになる可能性が高いと予想されているそうだ。経験的にオセロの引き分け (32対32) の確率は数%と思われるので、これはとても興味深い。

オセロはシンプルなルールがコンピュータのプログラミングに適しているため、これまで数々のコンピュータ・プログラムが開発されてきた。そしてその実力は人間をはるかに上回っており、世界チャンピオンでもコンピュータオセロには敵わない。逆に多くのプレーヤーがコンピュータオセロを研究に活用するようになり、オセロ戦術が大きく進歩している。
ちなみに一般的なプレーヤー (けっこう強いと思う) がコンピュータオセロソフトの24手読みと対戦すると以下のような感じだ。



個人的には毎年の世界オセロ選手権で (ではなくてもいいが公式の大会として)、コンピュータオセロソフト部門を新設し、各社のオセロソフトが競う場があると面白いと思う。話題にもなるし、公式な認定となることでコンピュータオセロソフトの開発にさらに磨きがかかり、オセロを通じてAIの進化が促進されるように思う。
そして、その決勝戦が引き分けになった時は、二人零和有限確定完全情報ゲーム・オセロの完全解析が達成されたということになるのではないだろうか。


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日本の芸術関係の表彰として最も権威があるのは「日本芸術院賞」であろう。国の栄誉機関である日本芸術院が授与する賞で、卓越した芸術作品を作成した者または芸術の進歩に貢献した者に対して授与される。
日本芸術院は1919年 (大正8年) に帝国美術院として創設され、昨年で100年を迎えた。そして日本芸術院賞は1942年 (昭和17年、昭和16年度) の第1回から、第二次世界大戦末期と直後 (1945年~1947年) を除いて毎年授与されている。1950年からは毎年の受賞者の中でも特に選ばれた者に対して「恩賜賞」が授与されている。共に皇室の下賜金で賄われており、受賞者には賞状・賞牌・賞金が贈呈されるとともに、授賞式は毎年6月に天皇・皇后の行幸啓を仰いで行われている。



この賞は第一部 / 美術 (日本画、洋画、彫塑、工芸、書、建築)、第二部 / 文芸 (小説・戯曲、詩歌、評論・翻訳)、第三部 / 音楽・演劇・舞踊 (能楽、歌舞伎、文楽、邦楽、洋楽、舞踊、演劇) と芸術のさまざまなジャンルから選出される。みなその道のレジェンドであり、「長年の秀でた業績に対し」という選出理由も多い。必然的に年長者が多く、例えば平成30年の受賞者 (恩賜賞および日本芸術院賞) 8名の平均年齢は70歳だった。

さて、日本芸術院賞は戦前の第1回~第3回は「帝國藝術院賞」(以下「帝国芸術院賞」) と呼ばれた。この3年での受賞者は以下の10名だ。



特徴として受賞者の平均年齢が比較的若いことに気づく。10名の平均年齢は約51歳で、30代の受賞者も4名含まれている。 (年齢は受賞日を4月1日として計算)
また受賞作品から察することができるとおり、戦意高揚の意図が感じられる受賞も見られる。「娘子関を征く」の小磯良平、「建つ大東亜」の古賀忠雄、「山下パーシバル両司令官会見図」(写真) の宮本三郎はいずれも卓越した芸術家だが、生涯を通じてみると受賞後の功績の方が目立つように思われる。小磯良平は群像表現を極めることを生涯のテーマとして戦争画にも取り組んだが、戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛むと晩年に語っている。



33歳で受賞した井口基成は、当時すでに日本初の本格的なピアニストとして、また音楽教育者として著名であった。しかし日中戦争・太平洋戦争が勃発し、外国音楽は「敵性音楽」として演奏を禁じられた中で帝国芸術賞を受賞した背景として、井口が文部省と情報局との共管による楽壇統制の新団体「日本音楽文化協会」の常務理事となり、陸軍省 からは兵隊たちに対潜警戒のための音感教育訓練を命じられたという経緯もあるようだ。井口は終戦後に「子供のための音楽教室」(後の桐朋学園音楽部門の母体) を開設し、小澤征爾や中村紘子など多くの音楽家を育成した。

また、第1回3名が第2回6名と受賞者が増えたのちに、第3回の受賞者がわずか1名となったのは、いよいよ戦況が悪化したことが原因と考えられる。
その中で受賞した (二代目)豊竹古靭太夫 (とよたけこうつぼだゆう) は、豊竹山城少掾 (とよたけやましろのしょうじょう) の前名で、近代屈指の義太夫節大夫の名人だ。

豊竹山城少掾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%B0%91%E6%8E%BE

豊竹山城少掾 (1878年12月15日~1967年4月22日)は明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した義太夫節大夫。近代屈指の名人として知られ、義太夫節・人形浄瑠璃に大きな足跡を残した。本名は金杉彌太郎(かねすぎやたろう)。
東京浅草生まれ。3歳で三代目片岡我童の弟子となって、片岡銀杏の名で歌舞伎の舞台に立ったこともあるが、8歳のとき竹本政子太夫・鶴澤清道に師事し、義太夫の修行を始める。1889年に大阪へ移り二代目竹本津大夫に入門し、津葉芽大夫を名乗る。またこの年人形浄瑠璃において初舞台を踏む。
1909年に二代目豊竹古靱太夫襲名。このころから若手の有望株として認められ、竹本摂津大掾や相三味線三代目鶴澤清六などについて積極的に学ぶ。1930年に四ツ橋文楽座が開場して後は、三代目竹本津大夫、六代目竹本土佐大夫らと並んで三巨頭と呼ばれ、1942年には文楽座付きとなる。1943年4月帝国芸術院賞を受賞。
1946年帝国芸術院会員、大阪府文芸賞。1947年秩父宮より掾号受領、名を豊竹山城少掾藤原重房と改め、名実ともに当代の第一人者として目されるようになる。この年には昭和天皇の行幸にあわせて御前演奏も勤める。1955年人間国宝。
1959年、文楽座で引退興行を行い、『二月堂』の良弁を語る。同年大阪市民文化賞。1960年文化功労者。1964年勲三等旭日中綬章。その3年後に死去、享年88。従四位が追贈された。


1959年の引退興行の映像が残っているので見てみよう。



国の重要無形文化財で世界無形文化遺産でもあるにもかかわらず、私は文楽についてほとんど知識がない。しかし歴史的な義太夫節名人ののダイナミックで華麗な語りを感じることができる。
この引退興行では務めていないが、相三味線を永く務めた四代目鶴澤清六 (1889年2月7日~1960年5月8日) も、1950年に日本芸術院賞を受賞している。また、豊竹山城少掾の弟子であった八代目竹本綱大夫 (たけもとつなたゆう)、その息子の豊竹咲太夫 (とよたけさきたゆう) も日本芸術院賞の受賞者である。

このように見ていくと、日本芸術院賞の歴史と価値を改めて認識することができる。文楽のみでなく多分野にわたるので理解が及ばないが、今後毎年受賞者の功績をよくチェックするようにしよう。



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