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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

一国の国王や王子について、「さすがに生活面で経済的な心配はないだろうけど、いつも国民に見られていて大変そうだ」 とか 「そのような運命のもとに生まれて、そのような環境で育ってきたのだからふつうの感覚なのかな」 といったことを考えてしまう。また 「もしある日この立場になったらどうしよう」 とか 「シンデレラのイメージで広く国民の中から国王が選ばれると面白いのでは」 などと低俗なことを考えてしまうこともある。実際にそのようなことはあるだろうか。

18世紀末までは、世界のほとんどの国家において君主制が敷かれていたが、現在では国王が20名 (このうちマリクが4名、スルターンが2名)、天皇が1名 (日本、議論あるがここでは君主として扱う)、教皇が1名 (バチカン)、アミールが2名、大公が1名 (ルクセンブルグ)、公が4名など計31名が在位している。

そして王位の継承 (日本の皇位継承を含む) について、継承をめぐる紛争を防ぐために継承法を明確に定めていることが多い。その中の多くは世襲によって継承される 「世襲君主制」 がとられている。
その対になるのは 「選挙君主制」 であるが、例えばクウェートの国王はジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出されるなど、限られた候補者の中から互選によるケースが多い。(バチカン市国の君主であるローマ教皇がコンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙で選ばれることは少々意味合いが異なる)

そして王位の継承 (日本の皇位継承を含む) について、継承をめぐる紛争を防ぐため、継承法を明確に定めていることが多い。その中の多くは世襲によって継承される 「世襲君主制」 がとられている。
その対になるのは 「選挙君主制」 であるが、例えばクウェートの国王はジャービル家とサーリム家という2つの首長家から交互に首長を輩出されるなど、限られた候補者の中から互選によるケースが多い。(バチカン市国の君主であるローマ教皇がコンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙で選ばれることは少々意味合いが異なる)
古代まで遡ると、王政ローマでは王は終身だが世襲ではなく、原則として市民集会が選挙でローマ市民権を持った者の中から選出していたという。選出は必ずしも家系や身分によらず、市外の者が選出されていたとのことだ。

一方で中世のポーランド・リトアニア共和国では200年以上にわたって 「国王自由選挙」 として国内外の有力者が国王に選出されていた。
ポーランド・リトアニア共和国 (1569~1795年) は正式には 「ポーランド王国およびリトアニア大公国」 であり、ポーランド王とリトアニア大公の両方を兼ねた共通の君主によって統治された国、およびポーランドとリトアニアによる連邦であった。現在のポーランド、リトアニア、ウクライナ、エストニア、ベラルーシ、ラトビア、ロシアにわたり、16世紀から17世紀のヨーロッパで最も大きく、最も人口の多い国の1つであった。

国王自由選挙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E8%87%AA%E7%94%B1%E9%81%B8%E6%8C%99

1572年、14世紀から続いたヤギェウォ朝のジグムント2世アウグストが子供を残さずに死んだため、ヤギェウォ朝は断絶した。そして、次期国王を選挙で選び、最終的に召集議会によって承認することが決定された。選挙権は投票を望む全ての男性貴族、参政権者に与えられることが決まった。
貴族たちは各県で投票を行い、地元選出の代議員が各候補の得票数をセナト (共和国元老院) に伝えた。元老院議長が国王の選出を布告し、首座大司教が新王に祝福を与えた。1573年の最初の選挙では4万人から5万人が投票したと言われる。

栄えある第1回の選挙で国王に選ばれたのは、ヘンリク・ヴァレズィであり、のちのフランス王アンリ3世である。

アンリ3世 (フランス王)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA3%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

アンリ3世 (1551~1589年) は、ポーランド最初の選挙王およびヴァロワ朝最後のフランス王。ポーランドではヘンリク・ヴァレジ (Henryk Walezy) と呼ばれる。
アンリはポーランド・リトアニア共和国の国王候補の一人となり、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世の息子であるエルンスト大公、スウェーデン王ヨハン3世、ロシアのツァーリ・イヴァン4世らが対立候補となったが、フランス使節ジャン・ド・モンリュクの熱心な働きかけと、ジグムント2世の妹で次期国王の王妃に擬せられていたアンナがアンリを支持したこともあって、1573年5月9日にアンリはポーランド王に選出された。

アンリはポーランド最初の国王自由選挙に勝利したものの、貴族の権力が異常に強く王権の弱いポーランドの政治文化に違和感を抱き始めていた。さらに兄シャルル9世の結核が悪化したため、次期フランス王位継承者のアンリは出国を躊躇したが、ポーランド使節団に促されてフランスを発ち、1574年1月にポーランド入りした。
しかし1574年2月に戴冠式に際して開かれた議会では、アンリはカトリック勢力の支持を得て、宗教寛容体制を認める統治契約を無視しようとしたため、反感を買った。またアンリはポーランド貴族内の複雑な派閥関係に通じておらず、貴族たちは新王による官職任命が派閥間の勢力バランスを欠いたものだとして不満を抱いた。また国際語のラテン語をほとんど話せない国王がポーランド人貴族には近づかず、連れてきたフランス人の側近ばかりと付き合うことも問題視された。
1574年5月30日にフランスでシャルル9世が崩御し、その訃報は6月14日にクラクフへ届いた。既に出国の準備としてフランス人側近の殆どを本国へ帰していたアンリは、6月18日深夜、残った側近数人を伴い王宮を出奔した。国王の逃亡という大事件にポーランド貴族たちは愕然としたが、フランス人の国王によるそれまでの期待外れな振舞いを快く思っておらず今回の逃亡にかえってせいせいしたと思う貴族も少なくなかった。

ちなみにアンリはフランス帰国後から約15年にわたってフランス国王として国政を指導したが、1589年に暗殺されて生涯を閉じた。

ここまでを纏めると、(1) 国王自由選挙の選挙権は男性貴族のみ、(2) 国王の候補者は諸外国の有力者、(3) 選挙の詳細は不透明、(4) 選出された国王は着任後半年で国外逃亡 となる。

そして2回目の国王自由選挙選挙では、最初の選挙でヘンリク・ヴァレズィを指示していたアンナ・ヤギェロンカ (ジグムント2世の妹) が選出され、女王となった。

そのアンナと結婚したハンガリー出身のステファン・バートリがアンナとともに共同統治王 (3代目の自由選挙王) となった。
4代目はジグムント3世で、アンナ・ヤギェロンカの妹カタジナの長男である。また5代目のヴワディスワフ4世はジグムント3世の長男、6代目のヤン2世はジグムント3世の4男、というように結局限られた一族から国王が選出された。

国王自由選挙は1791年に廃止されるまでに13回実施されたが、後半は外国軍の軍事的圧力の下で実施されて自由選挙の性格を失ったと言われる。
結果として、国王の権威を弱め、候補者の支持をめぐって各選挙区 (県) の中で争いを起こさせ、外国の王家がポーランド国内に干渉しやすくさせた。

ということでポーランド・リトアニア共和国の国王自由選挙が有効であったとは言い難い。これが現代の選挙制度に基づいて実施されればまた違うのかもしれないが、知名度が優先されたり、パフォーマンス主体のトンデモ候補が現れたりとそれはそれで問題が生じるのであろう。やはり世襲君主制や閉ざされた選挙君主制には意味があるようだ。



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歴史上でこれまでさまざまな国家が成立し、その多くは既に消滅している。
その中で名前だけ聞くと映画や漫画かと思えてしまうような「海賊共和国」(1706~1718年) という国家が、現在のバハマの首都ナッソーで存在した。

「海賊共和国」を語る前に、当時の「海賊」について理解する必要がある。
海賊は、海上を航行する船舶を襲撃して暴行や略奪など航海の安全を脅かす行為をする者のことだ。一方で15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代を経て航路が世界規模になり、国家がカバーしなければならない海域が広大となり、海軍の能力が及ばなくなった。そこで諸国が海軍力を補うために民間船に私掠勅許状を与え、敵国の艦船を拿捕することを許して海賊行為を奨励した。
この私掠勅許状を得た個人の船は「私掠船」(しりゃくせん)と呼ばれる。厳密には私掠船は海賊ではないが、国家公認の海賊と捉えることもできる。
政府としては私掠勅許状を発行するだけなので大きな負担はないが、一方で統制がきかずに、同盟国や母国籍の船まで襲う者や、本物の海賊に転身する者も現れた。

そして「海賊共和国」は「私掠船」の乗組員が設立した国家である。

海賊共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた「スペイン継承戦争」において、1703年と1706年にフランスとスペインの連合艦隊によってイギリス領バハマのナッソーが攻撃され、島は多くの入植者たちによって事実上放棄され、イギリスの統治機構も撤退した。そして、ナッソーは私掠船の乗組員らに引き継がれることとなった。海賊らはフランスとスペインの船舶を襲撃したが、両国の艦隊もまたさらに数回に渡ってナッソーを攻撃した。海賊たちは、ナッソーに自治権を確立し、事実上の自分たちの共和国を設立した。
1713年までにスペイン継承戦争は終わったが、多くのイギリス所属の私掠船の乗員らは、それを知るのが遅かったり、無視して、そのまま海賊行為を続けた。失業した多くの私掠船の乗組員らはナッソーにやってきて共和国に加わり、海賊たちの数が膨大に増えることに繋がった。
1718年に海賊退治の使命を受けたウッズ・ロジャーズが総督としてナッソーに着任してイギリスの支配を回復するまで、西インド諸島における海賊活動の拠点として、貿易と海運に大きな混乱をもたらした。

海賊共和国は当初イギリスの私掠船乗組員だったベンジャミン・ホーニゴールド (Benjamin Hornigold) と、カリブ海で活動していたトマス・バロウ (Thomas Barrow) が自治を行った。その後にジャマイカ総督からの正式な私掠免許を持つヘンリー・ジェニングス (Henry Jennings) が指導者的な役割を担った。
海賊共和国が「共和国」として維持されていたのは、海賊たちが「海賊の掟」と呼ぶ規則によって活動していたことがひとつの要因である。この掟に基づいて、海賊たちは自分たちの船を民主的に動かし、略奪を平等に分け合い、公平な投票によって自分たちの船長を選んでいた。海賊の多くは私掠船の廃業者や反乱を起こした元船員たちであったが、出身や国籍を問わずに平等なメンバーになることができた。

そして既述のとおり1718年にウッズ・ロジャーズが着任したが、その際にロジャーズは海賊を辞めるならば恩赦を与えると彼らに布告した。この申し出を受けたものの中に当初の海賊共和国の指導者だったホーニゴールドがおり、地理を熟知するホーニゴールドは「海賊狩り」としてかつての仲間たちを追跡した。そして10人の海賊が彼に拘束され、そのうち9人が処刑された。これによってイギリスは支配権を再確立し、バハマでの海賊共和国を終わらせた。

さて、海賊共和国が輩出した最高の海賊はエドワード・ティーチ (Edward TeachまたはEdward Thatch)、いわゆる「黒髭」だろう。

黒髭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%AB%AD

エドワード・ティーチは1716年頃にベンジャミン・ホーニゴールドの手下となって彼の拠点であるナッソーに移住した。ホーニゴールド配下の時代では、後に拿捕したスループ船の船長に任命されて海賊船団の一角を構成するなど、共に多数の略奪行為を重ねる。その後ティーチは海賊団の実権を握り、残った船団を統率するようになる。
1717年11月、ティーチはフランスの商船ラ・コンコルド号を拿捕し、これを「アン女王の復讐号 (Queen Anne's Revenge) 」と名付けて40門の大砲を乗せ、海賊団の旗艦とした。ここからティーチは海賊としての知名度を上げ、その豊かな黒いアゴ髭と恐ろしい外見から「黒髭 (Blackbeard)」と渾名された。ティーチの海賊団はその後も勢力を拡大し、1718年5月にはカロライナ植民地のチャールズタウンの港を封鎖し、人質をとって町に要求を突きつけるなど悪名を轟かせた。しかし、翌6月にノースカロライナ州ボーフォート近くの砂州でアン女王の復讐号と他1隻が座礁・損傷し、放棄しており、海賊団からボネットが離脱するなど、海賊団は大幅に縮小した。
イギリスによる対海賊政策が強化される情勢の中で、ティーチはノースカロライナ植民地の総督チャールズ・イーデンの恩赦を受け、カロライナ植民地のバスの町に移住する。しかし、間もなくティーチはイーデンの黙認下で海賊活動を再開しした。この動きによって、隣地のバージニア植民地総督のアレクサンダー・スポッツウッドに目をつけられ、彼の執拗な捜査の結果、1718年11月22日の激しい戦闘によって黒髭は、何人かの手下たちと共に殺害された。
ティーチは、自分が望む反応を相手から引き出させるためにイメージ作りをするなど、ただ力に頼るだけではない計算高いリーダーだった。現代ではステレオタイプの専制的な海賊のイメージがあるが、実際には船員らの合意を得て命令を下し、また、捕虜を傷つけたり殺したというような記録はない。後世においては黒髭のキャラクターは、ジャンルを問わない多くの創作物において典型的な海賊像としてインスピレーションを与えた。

黒髭は、「腕利きの船乗りであると同時に、非道この上ない悪人で、大胆さにおいても彼の右に出るものはいなかった。彼は想像を絶するような残忍な悪事をためらいもなく行う男であった。海賊一味の親玉になるべくしてなった男と言っていいだろう」 と称されている。
エピソードのひとつに、自室で操舵手ら3人と酒を飲んでいる時に、テーブルの下でこっそり小銃を引き抜き、ロウソクの火を吹き消して仲間に向けて発砲し1人に重傷を負わせたことがある。その時に「時には手下の1人も殺さなければ、お前たちは俺様が誰か忘れてしまうだろうからな」と言い放ったとのことで、自分のイメージを高めることを計算的に行っていたことがうかがい知れる。

以下の肖像はティーチの死後の1736年の「海賊史」にて描かれたものだが、「激しく凶暴な目つきであった」などの特徴を捉えているものであり、またその後の長きにわたって"黒髭"、そして"海賊"に対する多くの人の印象に結びついている。

1718年の黒髭の死は海賊の歴史の転換点になったと言われる。ヨーロッパ諸国は海軍の兵力を強化し圧力をかけ、海賊たちは安全な拠点を失った。その後生き残った海賊はカリブ海から逃げ出し、その多くは西アフリカを目指して守りの手薄な奴隷商人を襲ったという。
17~18世紀にかけての歴史学上で「海賊の黄金時代」と呼ばれる世界において、海賊共和国と黒髭は極めて象徴的な存在だったと言えるだろう。



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このブログではハット・リバー公国ニューアトランティスなど何度かミクロネーションを取り上げている。基本的にミクロネーションは創設者 (国王) の趣味やこだわりで成り立っていると思う。
しかし極めて政治的な要素を持ち、他国 (周辺国) から攻撃を受けて滅びたミクロネーションが存在する。伝説のミュージシャンであるフェラ・クティ (Fela Kuti) が建国したカラクタ共和国 (Kalakuta Republic) である。

 

カラクタ共和国 
https://en.wikipedia.org/wiki/Kalakuta_Republic

(英語版和訳)
カラクタ共和国、ミュージシャンであり政治活動家でもあったフェラ・クティが、家族、バンドメンバー、レコーディングスタジオのある共同住宅に付けた名前である。ナイジェリアのラゴス州に位置し、無料の診療所とレコーディング施設を備えていた。
フェラは1970年にアメリカからナイジェリアに帰国後、軍事政権が支配する国家からの独立を宣言した。1977年2月18日、千人の武装兵士による襲撃の後、敷地は全焼した。
「カラクタ」とは、フェラが住んでいた「カルカッタ」という名の監獄をもじったものである。この名前はもともと、インドの悪名高いカルカッタのブラックホールという地下牢に由来する。

フェラ・クティ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3

フェラ・クティ (Fela Kuti、1938年10月15日 - 1997年8月2日) は、ナイジェリア出身のミュージシャン、黒人解放運動家。
1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に入学し、単身留学する。在学中にトランペットを習得する。この時期に黒人差別を体感したことが、彼に生涯にわたる深い影響を及ぼすことになる。
1969年、アメリカにツアーに旅立つ。しかし同国においてフェラのようなアフリカ音楽は、聴衆の関心を集めるものではなかった。マネジメントにも恵まれず、さらに彼らは労働許可証を保持していなかったためアメリカ移民局に睨まれ、メンバーの一部が離脱するなど辛酸を舐めることになる。さらにここでも黒人差別に直面し、マルコムXやブラックパンサー党などについて学び始める。これにより彼の音楽性は輸入音楽の物真似からアフリカ土着音楽への転換すると同時に、政治的メッセージの重視へと変貌を遂げる。
1970年、ナイジェリアへ帰国。この頃に音楽性は確立される。政治的メッセージはより強化され、黒人の解放に加えて「キリスト教、イスラム教の破棄」、パン・アフリカニズムの実現をも訴えるようになる。またそれによる富裕層による圧迫も、時とともに激しさを増すようになる。
1974年、ついに公権力からの弾圧が強行され、フェラは警察の自作自演による大麻所持容疑と未成年者誘拐で逮捕され、カラクタ監房に2週間拘置される。しかし大麻所持は証明されず、さらにフェラの許にいた未成年とされた女性は自身の意思による家出であることが明かされ、彼は釈放される。 帰宅したフェラは自宅の周囲を高さ4mの有刺鉄線で囲み、そこを「カラクタ共和国」と命名した。彼はその場所で志を同じくして集まった仲間たちと共同生活を営み、国家との対立を一層深めるようになる。一方でカメルーン・ツアーを成功させるなど、商業的には絶大な成功を収めるようになる。
1975年、再び逮捕された経験を元にアルバム『エクスペンスィヴ・シット』を、警察にカラクタ共和国を攻撃された際に負傷した経験を元にアルバム『カラクタ・ショー』を発表しヒットする。彼は都合12回逮捕されるが、そのつど証拠不十分によって釈放されている。
1976年、軍隊をゾンビに喩えたフェラの代表作『ゾンビ』を発表する。
1977年、対立はついに頂点に達し1,000人の軍隊により共和国は襲撃を受ける。建造物は放火によって消失、77歳になっていたフェラの母フンミラヨはこのとき受けた傷が元で翌年他界する。フェラは拘留され裁判が開かれるが、この公判は警察によって、「ニューヨーク・タイムズ」などの外国報道機関が追放された閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受ける。

 

ナイジェリアは1960年に独立したが、内政は混迷しており、クーデターが頻繁に起きて軍政と共和政が交互に移行する歴史が続いている。
1967年から1970年にかけてビアフラ戦争と呼ばれる内戦が起き、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言した東部州はが包囲され、食料・物資の供給が遮断されたため飢餓が国際的な問題となった。
1975年に軍の民政移行派によるクーデターが成功し、ムルタラ・ムハンマド将軍が大統領に就任したが、1976年に暗殺されてしまいオルシェグン・オバサンジョ (Olusegun Obasanjo) が第5代大統領となった。

一方でフェラは1976年にナイジェリアの軍事政権を題材にした 『ゾンビ』 というレコードを作り、この曲では、命令に盲従する兵士たちがゾンビと呼んだ。この曲のセリフのひとつに、「ゾンビは、あなたが歩けと言わない限り歩かない」 というものがあり、フェラは腐敗した金持ちの上層部による汚職と地域社会への脅迫を許しながら、ナイジェリア人を脅迫する命令には盲目的に従うナイジェリア陸軍の隊員たちに不満を抱いていた。
この曲がナイジェリア国内で人気となっために、オルシェグン・オバサンジョと軍部がフェラの絶え間ない批判に不満を抱いたことが、襲撃の原因となった。

「共和国の中に共和国が存在するのは見苦しい」という主張もあったようだが、さすがに個人を相手に1,000人の軍隊での襲撃はやり過ぎである。武力行使が公然と行われていた不安定な政情であったことがわかる。

フェラはカラクタ共和国の襲撃後に拘留されて裁判が開かれるが、この公判は警察によって外国報道機関が追放された閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受けた。
その後1980年代には音楽に体調不良やモチベーションの低下もあり活動は停滞し、リリースが減少していった。そして1997年8月2日にエイズによる合併症で死去した。

一方で、オルセグン・オバサンジョは1979年に大統領を退き、その後政界も引退して農民となった。
その後1999年の大統領選挙において勝利し、第12代大統領となった。そして軍隊を非政治化し、広範な民族的、宗教的、分離主義者の暴力と戦うために警察を拡大した。また膨れ上がる国の債務を制限するために、さまざまな公共企業を民営化した。2007年まで大統領を務め、植民地後のアフリカにおける政治的指導者の偉大な人物の1人という評価もある。

尚、2012年にラゴス州の知事がカラクタ共和国の敷地を再建して博物館に変える取り組みを行い、フェラの誕生日である2012年10月15日にカラクタ博物館がオープンした。 ここにはフェラの衣服、楽器、芸術作品が展示されているほか、レストランやホテルもある。

The Kalakuta Museum
https://felakuti.com/us/legacy/kalakuta-museum

歴史上の事件はその時点で起こったことなので、その時点での当事者の判断に対して後世の人間が批評するのは好ましくないだろう。
しかしナイジェリアの混乱期において、個人が国家を建設して国家権力に対抗して鎮圧されたという歴史があったことは覚えておくこととしよう。



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以前このブログでイタリアの国民投票について取り上げ、イタリアではしばしば国民投票が行われることについて展開した。

さて、イタリアの政治に関して他にも特徴的なこととして、変わった政党名が多いことが挙げられる。
現在の主要政党は下院の議席数順に「同盟」「五つ星運動」「民主党」「フォルツァ・イタリア(頑張れイタリア)」「未来に向けて共に」「イタリアの同胞」であり、他の国々と趣が異なる。

JICA ODAジャーナリストのつぶやき - 国民には政党名の真意を読む能力も必要  フリージャーナリスト 杉下恒夫氏 (2012/7/19)
https://www.jica.go.jp/aboutoda/odajournalist/2012/286.html

注) 本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
1993年「イタリアのメディア王」と呼ばれる実業家だったベルルスコーニ氏(前首相)が結党した新党の名は「フォルツァ・イタリア」。主要政党は自由党、保守党、民主党といった古典的な名前を付けるのが常識だった時代に、サッカーの応援などに使われてきた「頑張れ、イタリア」という意味の「フォルツァ・イタリア」を政党名にするイタリア人に、驚くよりも正直、呆れたという記憶がある。
その後も、2000年に「マルゲリータ(ヒナ菊)・民主主義とは自由」という変わった名称の総選挙対応の統一会派が結成されている。この統一会派も泡沫政党の寄合ではなく、96年から2年間、政権を担った「オリーブの木」の一部と、「オリーブの木連合」に参加していた「民主主義者とイタリア再生」など4党が集まった会派だった。
最近は「イタリアのための未来と自由」などという名の政党もある。19世紀初頭、イタリアを統一した英雄、ガリバルディの軍隊は「赤シャツ隊」と呼ばれていたから、イタリアにはユニークな名前を付ける伝統があるらしい。

かつて存在した政党の中に、他にも変わった名前の政党があるのでいくつか紹介してみたい。(イタリア語の翻訳はDeepLによる)

カテゴリー:イタリアの過去の政党
https://it.wikipedia.org/wiki/Categoria:Partiti_politici_italiani_del_passato

「バラを握り締めて (または 拳の中のバラ)」 (Rosa nel Pugno "RnP") は2005年に結党された。この「拳とバラ」の紋章は社会主義インターナショナルや世界中の多くの社会主義・社会民主主義政党のものだそうだ。
同党は2006年の代議院(下院・衆議院に相当)選挙で2.6%の得票率で18議席を獲得したが、2007年に解散しその他の流派との再編がされた。

「衰退を止めるためにすべきこと」 (Fare per Fermare il Declino "FFD") は、2012年7月に、7人の経済学者のグループがイタリアの主要新聞に掲載された公開書簡で始めた文化運動 「Fermare il Declino」 のスピンオフとして立ち上げた政党で、中心的な目標は、5年間で国家債務をGDPの20%削減すること、5年間で公共支出をGDPの少なくとも6%削減すること、5年間で国民の税負担を少なくとも5%削減すること、などであった。
しかし2013年に行われた選挙の得票率は1.2%で議席獲得とならなかった。2014年の欧州選挙でも僅か0.7%の得票率であった。その後、同党はほとんど活動を停止し、メディアの注目度を失った。

「愛の党」 (Partito dell'Amore "PdA") は、1987年に代議院議員に当選したポルノ女優イロナ・スタラー (通称チッチョリーナ) と、同じくポルノ女優のモアナ・ポッツィが参加して1991年に結成された政党である。
以下は1992年のモアナの選挙インタビューで、この中でモアナは議員の半減、政党への公的融資の廃止などの優先事項ん取り組むことを表明しているそうだ。

同党は1992年の総選挙では22,401票(0.06%)を獲得したが議席獲得とはならず、またモアナは1993年にローマ市長に立候補したが落選している。その後モアナは1994年9月に急逝してしまい、党も事実上解散した。(ただし現在もWeb上で情報発信がされている)
 
そして名前はともかく変わった政党だったのが、1951年に出版社のコラード・テデスキが設立した 「イタリアネティスト党」 (Partito Nettista Italiano) である。ネティストはコラードが出版する人気週刊パズル雑誌 「Nuova Enigmistica Tascabile (NET)」から取ったものだ。

Partito Nettista Italiano  (翻訳・抜粋)
https://it.wikipedia.org/wiki/Partito_Nettista_Italiano

この政党は雌牛をシンボルとし (牛の鳴き声からなる国歌もあった)、すぐに「ステーキ党」と呼ばれるようになった。これは、政治計画の中にすべての市民に毎日450グラムのステーキを提供することが含まれていたためである。
この党には明らかにあざとい、ゴリ押し的、超現実主義的な意図があり、同様に明らかに選挙キャンペーンで「すべての皿に鶏肉を乗せる」と約束したポピュリストの常民戦線運動のパロディであった。
こうした意図に基づいていたにもかかわらず、同党は実際に1953年のイタリア総選挙に参加し候補者を擁立した。

選挙における同党の宣言は以下のようなものだ。
(1) すべての人に、余暇、少しの仕事、多くの利益を。仕事の苦しみは、機械が人間に取って代わらなければならない。 (2) 医療を無料で提供する。 (3) すべての国民に3ヶ月の休暇を保証する。 (4) 国民に毎日一人当たり450グラムのステーキ、果物、デザート、コーヒーを保証する。 (5) 芸術、文学、音楽、ダンスなど、すべての遊びの最大限の増加。 (6) 継続的なくじ引きや宝くじにより市民を元気づける。 (7) バラエティー一座と国家道化師は最高の栄誉と報酬を受ける。 (8) すべての税金を廃止する。 (9) 国民投票の拡大。時代遅れの旧態依然とした議会の代わりに、市民が最も重要な問題を決定する。 (10) 学校の授業時間を年間30時間に短縮し、NETパズル、ラジオ、テレビ、映画、各種ショーが国民を教育する。 (11) 既存の宗教は最高の栄誉を受け、新しい教会は芸術的かつ神秘的な意図で建てられる。 (12) 刑務所の廃止。誰もが450gの安心できる肉を持てば、盗みや殺しは必要なくなる。

同党は4.305票の有効票を集め、0.02%に相当した。

さすがに無茶苦茶であるが、もし議席を獲得していたらその後どうなったかを想像することは楽しい。

一般的に変わった政党(名)が多いのは政治が不安定であることの現れであり、何かと特徴の多いイタリアの政治だが、2020年9月の国民投票で議員数の大幅な削減という大きな変革案が可決された。

朝日新聞デジタル イタリア国会、議員数を3割超削減 国民投票で賛成多数 (2020/9/20)
https://www.asahi.com/articles/ASN9Q72SPN9QUHBI003.html

イタリアで国会議員の定数削減の是非を問う国民投票が20~21日に行われ、開票の結果、賛成票が約7割となった。上下院あわせて945議席が、600議席に削減される。
イタリア内務省によると賛成は70.0%、反対が30.0%。投票率は51.1%だった。今後、下院は630議席から400議席に、上院は315議席から200議席に削減される。
議員定数の削減は、2018年の総選挙で既得権益の打破を訴えて躍進し、同年に発足したコンテ政権で連立与党の一角となった市民政党「五つ星運動」が求めていた。今回の定数削減で、上下院合わせて年間約8200万ユーロ (約101億円) の経費削減になるという。一方、議員1人あたりの有権者数が増え、「地方の声が届きにくくなる」といった反対意見があり、少数政党も「議会の多様性が失われる」と反対していた。

重要な内容にしては投票率が低いが、イタリアの国民投票は数多く行われるうちに20%台に低下したりしていたので、本件は比較的関心が投票だったようだ。

このような議会で自分たちでは決めにくい内容を国民投票に諮るというのは正しい在り方ではないだろうか。どこの国でも国民の声が届く政治でなければならないと思う。

 



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以前このブログの「紀元前の人口ランキング」で、世界最古の都市はパレスチナ東部のイェリコ (Jericho) (とシリア北部のムレイベット (Mureybet)) と言われており、イェリコの人口はBC8000年頃に700人、BC7000年頃に2000人であったことを紹介した。
「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスに人々が住み着いたことが起源であり、イェリコの名は聖書にも多く登場する。

イェリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~旧約聖書時代のテル・エッ・スルタン (Tell es-Sultan)、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク (Tulul Abu el-'Alayiq)、現在の町があるテル・ハリ(er-Riha)と推移しており、現在は約2万人の方々が暮らしている。また海抜がマイナス258mで、世界で最も標高の低い町としても有名だ。

現在のイェリコは以下のような町だ。




古代のイェリコには広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁である「イェリコの壁 (Walls of Jericho)」で囲まれた集落が形成された。
聖書には、「モーセの後継者ヨシュアがイェリコの街を占領しようとしたが、イェリコの人々は城門を堅く閉ざし、誰も出入りすることができなかった。しかし、主の言葉に従い、イスラエルの民が契約の箱を担いで7日間城壁の周りを廻り、角笛を吹くと、その巨大なイェリコの城壁が崩れた」 と記されている。



そして壁とともに「イェリコの塔」が建てられた。これは世界最古の建築物である。参考までに、最古のピラミッドと言われる「ジェセル王のピラミッド」の建設はBC2667~2648年と推定されており、それよりも5000年以上古いものだ。

Tower of Jericho
https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_Jericho

The Tower of Jericho is an 8.5-metre-tall (28 ft) stone structure, built in the Pre-Pottery Neolithic A period around 8000 BCE. It is considered the world’s first stone building, and possibly the world's first work of monumental architecture.

The tower was constructed using undressed stones, with an internal staircase of twenty-two steps. Conical in shape, the tower is almost 9 metres (30 ft) in diameter at the base, decreasing to 7 metres (23 ft) at the top with walls approximately 1.5 metres (4.9 ft) thick. The construction of the tower is estimated to have taken 11,000 working days.


円筒形で壁が分厚い塔は、内部に塗壁の急階段がある。 8.5~9mの塔は当時としては巨大で、その後も同規模の建物はなかなか現れなかった。


イェリコの塔は洪水に対する防御や儀式にも使用されたと考えられているが、以下のような推測もある。

ナショナル ジオグラフィック日本版サイト / 最古の高層建築、恐怖心から建造か?
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/3930/

最新の研究成果は、夏至との関係性を示唆している。暗闇から市民を守る象徴的な存在だった可能性があるという。
当時のイェリコ市民は遊牧生活から農耕社会へ移行を始めたばかりで、生活基盤がまだ確立されていなかった。どのようにして世界初の公共巨大建築物を建造したのだろうか。

最新のコンピューター・シミュレーションによると、夏至の夕刻には近くのカランタル山の影がまずイェリコの塔にかかり、そのまま都市全体を飲み込むように拡大していくという。夏至は1年で最も昼が長く、これから夜が長くなる前触れの日でもある。「暗闇への恐怖が心底にある。身を守るには大きなモニュメントが必要だと説得され、市民は重労働に参加したのだろう」。ただし、イェリコの塔が暗闇からどうやって市民を守っていたのか、正確な方法はいまのところ不明だ。

発見当初は、敵の襲来や洪水を監視する見張り塔と考えられていた。しかし当時、イェリコ周辺には強大な敵対勢力も危険な河川も存在しなかったと判明した。テルアビブ大学の考古学者のラン・バルカイ氏は「天文現象との関係に加え、コミュニティの強さと結束を象徴する意味合いもあった」と主張する。ちょうど人類が定住生活に適応しようと苦労していた時期だ。さらに同氏は「権力者により人心操作が行われた世界初の明確な証拠」とも見ている。「為政者は日没や暗闇への恐怖心を巧みに利用し、市民を重労働にかりだしたのではないか。事実なら、人心操作は太古の昔からの常套手段らしい。感情の問題だから、考古学的には確認できないが」。
農耕社会へと移行する途中で、狩猟採集民族に見られる合議制から、定住社会の統治に適した独裁制へ移行していた可能性が高い。

このようにイェリコでは今から10000年前に、壁に囲まれた都市で集団的な生活が営まれ、また統治されていたようだ。人類の社会性発祥の地と言えるかもしれない。
テル・エッ・スルタンの古代イェリコ遺跡はぜひ訪問してみたい。


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以前このブログで四国国境を取り上げ、歴史上存在した中立モレネの四国国境を紹介した。この中で「国境線が十字にクロスすれば四国国境ができそうなものだが、現実はそんなに単純なものではない」と記した。
しかし実際は、国境線が十字にクロスしている地点が存在する。但しそれは「四国国境」ではなく「四重国境」である。

その四重国境は、オランダ・北ブラバント州とベルギー・アントウェルペン州が混在する「バールレ村」にある。
以下のように全体ではオランダの域内に位置するが、ベルギー領の「バールレ=ヘルトフ (Baarle-Hertog)」 とオランダ領の「バールレ=ナッサウ (Baarle-Nassau)」 がパッチワークのように入り組んでいる。



バールレ村 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AC_(%E6%9D%91)#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

低湿地だったこの地域は、12世紀末にブラバント公アンリ1世の領地であった。1198年に公爵は賃貸料を稼げる土地は手元に残し、残りの領地をブレダ (オランダ) のスコーテン家のゴッドフリートに譲渡した。現在、一方でその地域はベルギー領、他方、当時のゴットフリートが得た地域はオランダ領である。
バールレ=ヘルトフとバールレ=ナッサウにはそれぞれの選挙で決まる首長と町議会があり、警察署も教区教会も個別に置く。また両町議会が合同評議会を設けてインフラとして電気、上水道、ガスの供給を行い、高速道路の補修やごみ収集などを管理する。
双方の評議会は互いに出資して共同文化センターを建設し、共同図書館を利用できるようにした。観光局もあり、オランダとベルギーの両方の観光局が職員を置く。
商取引の法規は、オランダ領はオランダ法、ベルギー領はベルギー法のもとにある。法律の違いから長年にわたり密輸が横行したものの、1993年のヨーロッパ統合以降、「密かに持ち込んで高値で売る」ことそのものにあまり意味がなくなった。かつて第二次世界大戦後、ベルギーで品薄だったバターをオランダで買い付け、こっそりとベルギーに持ち込んで売る人は少なくなかった。現代でも形を変えた密輸は存在し、オランダでは売っていない花火をベルギーに出かけて買い、国境を越えて持ち込む人は多い。


この写真のように、オランダとベルギーの国境が町中に示されている。



現地の情報は以下の訪問記が詳しい。

旅倶楽部「こま通信」日記 バールレ・ヘルトフ~オランダの中のベルギー飛び地
https://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/e7a1c3df6a41a458725cc0d3bf1e798f

具体的には、以下のようにバールレ=ヘルトフ (H) とバールレ=ナッサウ (N) が混在する。まわりは全てオランダで、その中にベルギー飛び地が16箇所あり、さらにN1からN7までの7ヵ所は包領地である。



この地図の線はいずれも国境線になるが、この中で注目したいのは右下のH1とH2の接する地点で、国境線が見事に十字にクロスしている。

The Baarle Enclaves
http://www.grenspalen.nl/archief/baarle-nassau-in-english.html

In Baarle there's a special point, a so-called quadripoint. The Belgian enclaves H1 and H2 in Baarle meet each other at 1 point.
In February 2003 we visited this spot and it was well recognizable in the landscape. De Belgian fields had another type of crops. On the apparent quadripoint-spot there was a metal pipe stuck in the ground which we assumed to be a kind of bordermarker. There were no others in the vicinity and it was definitely no drainage pipe or like. If this is the REAL quadripoint, only a land-surveyor can tell.




測量に基づく正確なポイントかどうかはともかくとして、まさにここが 「四重国境」で、ベルギーとオランダの国境がクロスする地点である。特別に何かがあるわけではなく、単なる畑であるところが現実的だ。
もともと開墾された土地を残し (後のベルギー領)、未開の地を譲渡する (後のオランダ領) という区分けだったが、800年後さらにその先までその区分けが複雑な国境として残るとは、ブラバント公アンリ1世は考えもしなかったろう。このような歴史の痕跡はとても興味深い。


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「そんな重要な問題は国民投票で決めるべきだ」といった声を耳にしたり、会話をすることがあるだろう。

「国民投票」は狭義には選挙以外で国民が決定を行うレファレンダム (英語: referendum) のみを指す。これを通常は国政の場合は "国民投票"、地方自治の場合は "住民投票" と訳し分けている。
そして、日本国憲法 (96条) では憲法改正の際の国民投票のみが規定されている。
また地方自治制度では、自治体の住民を対象として一定の住民投票の制度が設けられている。2015年と2020年の大阪市特別区設置住民投票で「大阪都構想」がともに僅差で否決されたのは記憶に新しい。



さて、以下の文献をもとに海外の国民投票制度について見てみよう。(従って実施例は2009年時点での情報となる)

調査と情報 No. 650 諸外国の国民投票法制及び実施例 国立国会図書館 2009.10.13.
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi1l7roq9HyAhUPZt4KHRFjDlQQFnoECAIQAQ&url=http%3A%2F%2Fwww.ndl.go.jp%2Fjp%2Fdiet%2Fpublication%2Fissue%2F0650.pdf&usg=AOvVaw289-IMCTeKt_lKxkpOa1gW

アメリカやドイツは全国的な国民投票の制度を設けていない。一方でフランス、スイス、オーストラリア、ロシア、韓国は義務的な国民投票制度と任意的な国民投票制度を併せ持ち、義務的な国民投票制度は拘束力を持つ。但し、ロシアと韓国では国民投票が実施されたことはない。
任意的な国民投票制度を持つ国には、イギリスやカナダのように諮問的な制度を有する国と、イタリアやスウェーデンのように拘束力な制度を有する国がある。
従ってイギリスで行われた国民投票、例えば2014年6月のスコットランドの独立を問う国民投票 (否決) と、2016年6の欧州連合の残留or離脱 (ブレグジット) について国民投票 (離脱) は「国民の見解を求めた」というものである。
またフランスでは国民投票が頻繁に行われており、1945年以降で180回 407件 (2009年時点) の実施例がある。憲法改正に関する内容が多いが「家族手当の全国的均一化」(2006年、可決) といったものもある。

特徴的なのはイタリアで、憲法だけでなく法律の廃止に関する国民投票が行われる。これは既に制定された法律の全部または一部の廃止について問うものである。そのため一般的には議会で決めれば充分と思われるような内容が多く含まれる。例を挙げると、
 離婚法の廃止 (1974年、否決)
 中絶法の廃止 (1981年、否決)
 マフィアメンバーの身柄保護 (1995年、可決 なぜ?)
 テレビ番組の広告による中断の禁止 (1995年、否決)
 組合費の天引き制度の廃止 (1995年、可決)
 ジャーナリスト同業組合廃止 (1997年、否決)

投票率はかつては80%超を記録していたが、徐々に下がって20%台まで下がってきている。さすがに食傷気味のようだ。
そして、中には極めて僅差だった投票もある。1995年6月11日に行われた国民投票の一つ目の投票である。

Referendum abrogativi in Italia del 1995  (Google翻訳を参照)
https://it.wikipedia.org/wiki/Referendum_abrogativi_in_Italia_del_1995

1994年の政治選挙を考慮して、シルヴィオ・ベルルスコーニ (首相) によって作成された新しい政治組織であるForza Italiaは、過激な戦いの主要な対話者になりました。国民投票キャンペーンで彼の党をコミットします。



商業施設の営業時間、ライからの宣伝、単一財務省、源泉徴収義務者、国民保健サービス、特別冗長基金、商工会議所および上院の選挙法を廃止しなければならなかった質問は、容認できないと宣言されました。憲法裁判所によって。
イタリア人は1995年6月11日に国民投票に呼ばれました。

Quesito: "Volete voi l'abrogazione della legge 20 maggio 1970, n. 300 'Norme sulla tutela della libertà e dignità dei lavoratori, della libertà sindacale e della attività sindacale nei luoghi di lavoro e norme sul collocamento', limitatamente alla parte contenuta nell'articolo 19, comma 1, e precisamente le parole: 'nell'ambito: a) delle associazioni aderenti alle confederazioni maggiormente rappresentative sul piano nazionale; b) delle associazioni sindacali, non affiliate alle predette confederazioni, che siano firmatarie di contratti collettivi nazionali o provinciali di lavoro applicati nell'unità produttiva'?"



「職場の労働者代表の3大労組による独占の廃止」を問うもので、賛成が12,291,330票 (49.97%)、反対が12,305,693票 (50.03%) で、差は僅か14,363票であった。
しかし不可解なのは、同じ国民投票の次の質問が「職場の労働者代表の3大労組による独占の縮小」を問うものであり、こちらは賛成が62.1%、反対が37.9%で可決された。
果たして、2つの質問がともに可決だった場合は、廃止されたのか縮小されたのかは謎である。
この日の国民投票は既述の「マフィアメンバーの身柄保護」「テレビ番組の広告による中断の禁止」「組合費の天引き制度の廃止」なども含まれ、全体で12の質問がされた。まさに国家的な大イベントだったと思う。
そこまで必要なのかという点はともかく、身近な問題についても国民に信を問うのは民主主義のあるべき姿ではあるだろう。

果たして日本で憲法で定められた唯一の国民投票の機会は訪れるのだろうか。


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米ソの東西冷戦構造が終結して30年ほどになる。第二次世界大戦後の東西陣営による戦いは、イデオロギーの対立に加えて「相互確証破壊」と「交渉の不可能性」という特徴を持ち、睨みあいながらも直接手は出せず、また両首脳の会談もできなかった。朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争が各地で起き、また1962年のキューバ危機で核戦争寸前まで緊張したが、米ソ首脳の自制により回避された。

冷戦の副産物というわけではないが、東西両陣営が相手を意識して科学技術の発展を競った結果、様々な成果が表れた。特に宇宙開発の分野では、1957年10月にソ連がスプートニク1号を打ち上げ、世界で初めて人工衛星を地球周回軌道に送り込むことに成功した。スプートニクの成功はソ連において自国の科学力や技術力を国民に示す重要な機会となり国威が発揚され。、一方でアメリカではパニックとなり政治論争にもつながった。その後月面着陸を両陣営が競い、ソ連の無人探査機がアメリカの宇宙船よりも先に月軌道に達し着陸もしたが、人の月面着陸ではアメリカが一番乗りとなり、1969年7月にアポロ11号が月面に着陸した。

この「宇宙開発戦争」が最も華やかな科学技術の成果と言えるが、全く逆方向にベクトルを定めた「地底開発戦争」も米ソ間で進行していた。
アメリカの「モホール計画」とソ連の「コラ半島超深度掘削坑」である。

モホール計画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%A8%88%E7%94%BB

モホール計画 (Project Mohole) とは、地球の地殻を貫いてモホロビチッチ不連続面まで掘削を行おうという、アメリカ合衆国の大計画。
宇宙開発競争でソビエト連邦に取った遅れを地球科学でもって挽回しようという目的もあって計画された。アメリカ国立科学財団が資金援助をし、American Miscellaneous Societyが主導した。陸地ではなく海底が掘削された。理由は、陸より海底下のほうが地殻が薄く、掘るべき深さが小さくて済むからである。

1961年に実行された第一段階では、メキシコのグアダルーペ島沖に5つの穴が掘削された。そのうち最深のものは海面下3,500mの大陸棚を183mまで掘り下げられた。これは穴の深さという点ではなく、海の深さおよび、固定されていないプラットフォームから試錐がなされた点において前例のない成果であった。
モホール計画の第一段階は、地球のマントルまでボーリングを行なうことが科学的にも技術的にも可能であることを証明した。しかしながら、モホール計画の第二段階は運営の不手際と予算の超過のため1966年に頓挫した。


もう少し具体的には、本計画はNASメンバーおよび全米科学財団 (NSF) 地球科学パネルのメンバーであったウォルター・ムンク (Walter Munk) が提唱したもので、既存の科学的カテゴリーに当てはまらない研究提案を扱うためにAmerican Miscellaneous Societyが結成されて本計画を主導して第一段階を成功裡に進めたが、その後NSFに運用管理が移行され、一方で国立アカデミー委員会がコストの増加に反対したため、第二段階の実施前にプロジェクトが中止されたとのことだ。



ちなみにモホール計画は、学研まんが「できるできないのひみつ」(内山安二、1976年) の「地球の裏側まであなを掘って荷物を送れるか?」でも言及されている。このまんがのように簡単に掘れたら地球は穴だらけになってしまうが。。



地底開発のような国家プロジェクトは社会主義国の方が進めやすいようで、その後にソ連で進められた「コラ半島超深度掘削坑」の方が成果を上げた。

コラ半島超深度掘削坑
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A9%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E8%B6%85%E6%B7%B1%E5%BA%A6%E6%8E%98%E5%89%8A%E5%9D%91

コラ半島超深度掘削坑 (Кольская сверхглубокая скважина) は、コラ半島のペチェングスキー地区でソビエト連邦が行っていた地球の地殻深部を調べる科学プロジェクトである。掘削は1970年5月24日に始まり、ボーリング坑は中央の穴から分岐することによって掘削され、最も深いSG-3は1989年に12,262メートル(40,230フィート)に達し、今も地球上で最も深い人工地点である。
このプロジェクトでは掘削目標の深度は15,000mに設定され、坑の深さが12,262mに達した時に、1993年には15,000mに達すると予想された。ところが、100℃程度と予想していた地中の温度は180℃と予想を大きく上回っていた。これによりこれ以上深く掘削することは不可能であると判断され、1992年に掘削が中止された。深さが増すにつれ温度はさらに上昇すると予想され、15,000 mまで掘削すると300°Cの温度に達すると考えられたが、このような条件下では地中を掘り進めるドリルビットが機能しなくなることを意味した。
このプロジェクトは、ソ連の解体により1995年で終了した。プロジェクトを担った現地の施設は放棄されている。




当時の映像や現在の様子を収めたドキュメンタリーが公開されている。



現在ではカタールのAl Shaheen油田の坑井が2008年に深さ12,289 mとなり最深の記録を更新しているが、地表面からの深さではコラ半島超深度掘削坑の方が深い。
その「穴」は直径23センチメートルと小さなものだだが、果てしなく深いものだ。何かを落としたら絶対に取りに行けない。その掘削坑は現在では溶接されて閉じられている。



詳細は割愛するが、コラ半島超深度掘削坑は地質の深部構造、地殻の地震の不連続性と熱的な形態など、地球物理学の研究に大きな貢献をした。またモホール計画で培われた技術は、その後の深海掘削計画 (1968~1983年)、国際深海掘削計画 (1985~2002年) へと引き継がれ、地球物理学や海洋地質学など学術分野に大きな進歩をもたらした。
現在ではさらに発展して日米欧中の多国による統合国際深海掘削計画 (2003年~) へと発展している。

宇宙開発でも地底開発でも20世紀後半に人類にとって顕著な発展が遂げられたが、その背景に冷戦構造があったことは紛れもない史実である。


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このブログではタイムリーな話題を取り上げることはほとんどない。10年以上前の古い記事にも多くのアクセスをいただいているし、年月が経ってからこの記事にアクセスする方も多いだろう。しかし今回は今月の話題を取り上げる。
未来のこの記事の読者のためにブログを書いている「2020年8月」について触れておくと、世界は依然として新型コロナウイルス (Covid-19) の猛威の前に苦しんでいる。2020年1月に最初の死者が出てから、8月25日までに世界で死者83万人、感染者2450万人となっている。有効なワクチンはまだなく、開発されても行き渡るまでには時間がかかるだろう。本来は東京オリンピック・パラリンピックが今月行われていたはずだが、1年延期となった。それでも開催は難しいだろう。
経済面では4~6月のGDP成長率がアメリカ-32.9% 日本-27.8%など大きく落ち込み、2008年のリーマンショックを超えて、1929年の世界恐慌と比較されるレベルだ。コロナ禍が直接の原因ではないが、安倍首相が8月28日に辞任を表明した。次期首相がだ誰になるかはわからない。11月のアメリカ大統領選もどうなるかわからない。

未来の読者の方にとって上記の内容はどう映るだろうか。「そんなこともあったね」で軽く流せる未来になるか、「まだまだ序盤だね」とより深刻な未来になるか、全く先が読めない。

その新型コロナウィルスによる経済的影響は、国家の財政破綻が議論されてしまうようなレベルにある。しかし議論を超えて既に2020年8月に新型コロナウィルスによって滅亡してしまった国家がある。「ハット・リバー公国」である。

オーストラリア最古のミクロ国家、コロナ禍で消滅
https://www.cnn.co.jp/world/35157991.html

オーストラリアで50年前に「建国」されたミクロ国家「ハット・リバー公国」が、新型コロナウイルスの影響で終焉を迎えた。
自称公国のハット・リバーは独自の旅券を発行し、オーストラリアに対して宣戦布告したこともある。近年では一風変わった観光地として主に知られていた。
だが、コロナ禍で観光収入が減るなど経済が影響を受けた上、納税額が膨らんだこともあり、オーストラリアへの屈服を表明せざるを得なくなった。

ハット・リバーがミクロ国家として誕生したのは1970年。「君主」の故レオナード・ケースリー氏はこの年、法律の抜け穴を利用したと主張して、西オーストラリア州の人里離れた地域に公国を設立した。75平方キロの農地に建国されたハット・リバーは、面積こそマカオの2倍以上だが、人口は30人にも満たない。
オーストラリアからは国家としての正式承認を受けていないものの、ハット・リバーは独立国として活動。政府は査証や運転免許証、旅券、通貨を発行し、国章や国旗を作成したほか、米国やフランスを含む10カ国の13ヵ所に海外拠点を構えていたとされる。

だが、そんな試みは終わりを迎えた。
レオナード公が昨年2月に死亡すると、後には米ドル換算で215万ドル(約2億2800万円)の未払い納税額が残った。息子で後継者のグラエム・ケースリー公は先週、土地を売って納税債務の支払いに充てる方針を明らかにした。
ケースリー氏はCNNの取材に、国を解体することになり打ちのめされていると吐露。「父親が50年かけて築いてきた国を廃止せざるを得なくなり、非常に悲しい」と語った。


「オーストラリアのハット・リバー公国」や「未払い納税額」など、国家に関する記事として意味不明だが、「ハット・リバー公国」は以前このブログでも取り上げたミクロネーションであり、実態はオーストラリア西部の農家かつ観光地である。



ハット・リバー公国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E5%85%AC%E5%9B%BD

ハット・リバー公国(Principality of Hutt River)は、レオナード・ジョージ・ケースリー(Leonard George Casley)が独立国と主張していた、オーストラリア大陸西部の広大な小麦畑を中心とした地域である。
1969年10月、西オーストラリア州政府が小麦の販売量割当を決定した際、ケースリーの農場に割り当てられた販売量が十分なものではなかったため、他の5つの農場と連携し政策に反対し、西オーストラリア州総督のダグラス・ケンドルーに法案撤回の請願書を提出した。しかし、請願書は無視され、さらに州政府が地方の農地を取り返す権利を認める法案の審議が進められたため、ケースリーは「経済・土地が奪われる危機に瀕した際には分離独立することが出来る」という国際法の規定に基づき独立の準備を進めた。
ケースリーは「販売量割当の修正または52万オーストラリア・ドルの補償金が支払われない場合、オーストラリアから独立する」と西オーストラリア州政府に最後通告するが、これに対する返答が得られなかったため、1970年4月21日に自身が所有する75平方キロメートルの土地を「ハット・リバー公国」としてオーストラリアからの独立を宣言した。ケースリーは「ハット・リバー公レオナード1世」を名乗るようになるが、独立宣言以降も「自身はエリザベス2世の忠実な臣下である」と発言している。

レオナードの独立宣言に対し、オーストラリア総督のポール・ハズラックは「西オーストラリア州憲法に関する問題には連邦政府は介入出来ない」と発言し、西オーストラリア州政府は連邦政府が介入しない限りハット・リバーへの対応を行わないと決定した。オーストラリア首相のウィリアム・マクマホンは「領土侵害」として訴追するとしたが、レオナードは「国際条約に基いた独立」と反論し、オーストラリアの方針を無視して小麦を売り続けた。

1976年、オーストラリア郵便局はハット・リバーの郵便物の処理を拒否すると通告した。さらに、オーストラリア国税庁がレオナードに対し納税を要求したことを受け、1977年12月2日にレオナードはオーストラリアへの宣戦を布告したが、数日後には停戦を宣言している。

2017年2月、レオナードは息子のグライム (Graeme Casley) へ譲位した。2019年2月、先代「ハット・リバー公」レオナードが死去した。

2020年8月3日、グライムは「公国」の解散を宣言した。新型コロナウイルスの影響で1月より「国境」を閉鎖せざるを得ず、観光収入が断たれたために、オーストラリア政府への租税の支払いの目処が立たなくなったためという。グライムは土地を売り払い、納税に充てるという.「ハット・リバー公国」が独立を宣言してから50年で、再びオーストラリアが実効支配を回復することになった。




以下の映像でだいぶイメージがつかめると思う。



パスポートチェックがあったり、ビザ (入園料) があったりと本当の入国手続きさながらである。他のミクロネーションにも共通するが、国王(?) たちは皆とても凝り性でやることが徹底している。そうでないと一国の主にはなれないのだろう。
国境が封鎖されて、ビザ代や土産物売上といった国家収益が失われてしまっては、国家の破綻もやむを得ないところか。譲位を含めて50年続いたのは充分に立派だと思う。
未来の歴史教科書には、2020年は新型コロナウィルス、そしてハット・リバー公国の終焉の年として記録されていることだろう。


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世界各地で依然として続く紛争は領土をめぐるものが多い。その際に単純に「当該国がその地域の主権を共同で持てばいいのではないか」という考えが生まれるだろうが、それはもちろん簡単なことではない。
2つまたはそれ以上の国家が同等の主権を行使することを「共同主権」と言うが、歴史上はけっこう事例がある。比較的新しいものとして1906年から1980年までイギリスとフランスによって共同で管理された「共同統治領ニューヘブリディーズ」(英語: New Hebrides Condominium フランス語: Condominium des Nouvelles-Hébrides) が挙げられる。この島は18世紀にイギリス人とフランス人の両方によって植民地化されたが、英仏共同統治とする形で設置されたものである。

共同統治領ニューヘブリディーズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E9%A0%98%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA

共同統治領である為、イギリス及びフランスのそれぞれから任命された担当者がいた。共同統治政府も両国政府からの出向者で構成されており、郵便サービス、公共ラジオ局、公共事業、インフラ、国勢調査などの権限はすべて両国が共に行使していた。
法制度としては英国法とフランス法の双方が適応され、裁判所もそれぞれ存在した。さらに先住民の法に関する裁判のための裁判所も設置されており、英仏合同裁判所も存在した。

合同裁判所を除いて、保健サービス、教育システム、通貨などがすべて2つ存在し、さらに、英国政府とフランス政府が別々に存在していたため、2つの移民政策、2つの裁判所、2つの会社法があった。島の住民はどの政府の下に行きたいかという選択肢が与えられ、例えば有罪判決を受けた場合、英国法とフランス法のどちらで有罪判決を受けるかを選択できたという。

バヌアツ 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8C%E3%82%A2%E3%83%84#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

1960年代、バヌアツの人々は自治と独立を要求し始めたが、英語系とフランス語系の島民が対立し、1974年にフランス語系のタンナ島でタンナ共和国として独立を宣言した(フランス軍による島の制圧で終わった)。1975年にはサント島を中心とした島々でナグリアメル連邦として分離独立の宣言も起きた。1980年に入るとバヌアツの独立を求める声が高まったが、タンナ島で再びタフェアン共和国として独立運動が起きた(これはイギリス軍の制圧で分離独立運動は終結した)。8月21日にはエスピリトゥ・サント島のフランス語系住民が独立に反対し分離運動が起き、ベマラナ共和国と名付け分離独立が起きた。
1980年7月30日にイギリス連邦加盟の共和国としてバヌアツが独立、フランスは政情不安を理由に最後まで独立に反対の立場であったが、これにより事実上、イギリス・フランスの共同統治下から独立し、大統領を元首とする「バヌアツ共和国」として出発した。




このように共同統治はなかなかうまくいかないことを歴史が証明している。

一方で共同主権は現在でも例がある。

共同主権 現在の共同主権地域
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%B8%BB%E6%A8%A9#%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9C%B0%E5%9F%9F

(1) ドイツ=ルクセンブルク共同主権領域 ルクセンブルクとドイツの国境をなすモーゼル川とその支流ザウアー川と更にその支流ウール川の左右両岸の間の水域を主な領域とする。また、川の中にある約15の中州が含まれる。
(2) フェザント島 ビダソア川の中州にある島。フランスと スペインの共同主権下にある。
(3) マスフット オマーンとアラブ首長国連邦の首長国であるアジュマーンの共同主権地域。
(4) フォンセカ湾の各国の領海に属さない水域 エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの共同管理。
(5) ボーデン湖の大部分 ドイツ、オーストリア、スイスの国境地域にあり、共同管理地域とされている。明確な国境線は引かれていない。
(6) かつてセッテ・ケーダス滝が存在したパラナ川からイグアス川河口までの水域 ブラジルとパラグアイの共同管理水域となっている。
(7) カスピ海の資源 イランが、ロシア・アゼルバイジャン・イラン・トルクメニスタン・カザフスタンによる共同管理化することを主張している。
(8) ブルチコ行政区 ボスニア・ヘルツェゴビナの構成共和国であるスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の共同管理地域。


この中で揉めそうなのは住民がいる地域で、上記の (3)マスフットと (8)ブルチコ行政区 が該当する。

ブルチコ行政区は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ北東部に位置する自治行政区だ。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」と「スルプスカ共和国」から構成されるが、ブルチコ行政区は2つの構成体の境界とされ、ブルチコ地区のうち、ブルチコ市街を含む48%がスルプスカ共和国、残りの52%がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属すると定められた。これは1992~1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後の和平合意であるデイトン合意に基づく仲裁の過程で決められたものだ。
かつてはクロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人が平和的に共存していたブルチコ地区は、現在でもなお分断状態が続いている。



もうひとつのマスフットは、アオマーンとアラブ首長国連邦の首長国であるアジュマーンの共同主権地域で、人口は約9000名だ。

世界飛び地領土研究会 中立地帯 アラブ首長国連邦とオマーンの中立地帯(マスフット、ハッタ、ディバ)
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/churitsu.html#08

現在は別々の国家になっているアラブ首長国連邦とオマーンだが、かつては大海洋帝国を築いたオマーンのスルタンの宗主下にあった。しかし19世紀にオマーン宮廷が弱体化すると、各地の部族が独立状態になって数多くの首長国が生まれ、19世紀後半に相次いでイギリスの保護領になった後も、戦国時代のような状態が続いて、首長国同士は勢力拡大を争っていた。このため各首長国やスルタン領の領地は流動的で、絶えず変動し続けていた。
イギリスはアラビア湾岸を他の列強に奪われたくなかったから保護領にしただけで、首長国同士の争いにも干渉せずに放置し続けていたが、戦後になって石油が発見されると、採掘権を確保するために各首長国やスルタン領の境界線を明確にすることが必要となった。そこで1950年代に各首長との部族や氏族のつながりや、交易関係をもとにして首長国の領域がはっきり決められ、その結果各首長国の領土は飛び地だらけの複雑なものになった。さらに重要な町ではそれぞれ別の首長やスルタンに忠誠を誓う複数の部族が混住していることもあって、どこの領地に帰属すべきか決めかねる場合もあった。こういう場所はとりあえず「中立地帯」ということにして境界線の画定は棚上げされた。もっとも住民たちは政府ではなくそれぞれの部族のリーダーに従って暮らしていたわけで、同じオアシスに住んでいても、A首長国とつながりの深いA部族の人はA国の住民、B首長国とつながりの深いB部族の人はB国の住民となっても、特に不都合はなかった。最終的な主権はどちらにしてもイギリスだった。
1970年代にマスカット・オマーンと呼ばれていたスルタン領はオマーン国として、トルーシャル・オマーンと呼ばれていた各首長国はアラブ首長国連邦としてそれぞれ別々に独立すると、境界線があいまいな中立地帯は住民管理の面でも石油利権の確定の面でも厄介な存在になった。そこで80年代後半から中立地帯の分割が行われ、1999年に最終的な境界線が画定した。
しかし1つの町やオアシスが国境線で分断されてしまうと住民にとっては不便極まりない。そこでこれらの旧中立地帯では、出入国管理の面ではUAEに属している。オマーン領も含めて地元では自由に行き来できる仕組み。ただしオマーン本土との間の通行では審査を受けなければならないことになっている。




この説明を読む限りでは、マスフットは住民が領土を争うという性質のものではないようだが、それでも様々な不便が生じているようだ。
国境なき世界を目指したい一方で、それはそれで様々な不都合を招いてしまう故、古今東西で領土をめぐる争いが繰り広げられているのは人類の必然なのかもしれない。


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