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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

サッカーJリーグが1993年に開始 (発足は1992年) された当時のチームは、いつしか「オリジナル10」と呼ばれるようになった。
私が大ファンだった横浜フリューゲルスは消滅 (統合) してしまい、現存するのは9チームである。2024年シーズンでは鹿島アントラーズ、浦和レッドダイヤモンズ、東京ヴェルディ (当時は川崎)、横浜Fマリノス (当時はマリノス)、名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島がJ1、ジェフユナイテッド市原・千葉 (当時は市原)、清水エスパルスがJ2で戦っている。
30年の歴史の中でリーグの勢力図は常に変化しているが、やはりオリジナル10の存在感は強い。

それでは世界最古のリーグであるイングランドのイングリッシュ・フットボールリーグの「オリジナル」は、その後どのような道を歩んでいったかを見ていこう。

English Football League / History
https://en.wikipedia.org/wiki/English_Football_League#History

(翻訳・編集) 1880年代初頭は、多くのクラブがチームの競争力を高めるためにプロ選手への対価を支払うことが行われており、アマチュアサッカー協会の規約の法律を守っているクラブはそれを軽蔑していた。
長い議論を経てイギリスのサッカー協会は1885年7月20日にプロ化を許可した。そして、多くのクラブがプロになるにつれて、安定した収入を確保する方法が検討されるようになった。
1888年3月22日、バーミンガムを本拠地とするアストン・ヴィラのスコットランド人ディレクター、ウィリアム・マグレガー (William McGregor)は、いくつかのクラブ宛てに手紙を書き、リーグ戦の創設を提案した。このアイデアは、1887年にイギリスのメディアで発表された。

このリーグは単に「Football League」と称された。参加チームは以下の12チームであり、これらが「オリジナル12」となる。

ランカシャー地方チーム
 アクリントン (Accrington FC) ランカシャー州 アクリントン 1876年創設
 ブラックバーン・ローヴァーズ (Blackburn Rovers FC) ランカシャー州 ブラックバーン 1875年創設
 バーンリー (Burnley FC) ランカシャー州 バーンリー 1882年創設
 ボルトン・ワンダラーズ (Bolton Wanderers FC) グレーター・マンチェスター州 ボルトン 1874年創設
 エヴァートン (Everton FC) リヴァプール 1878年創設
 プレストン・ノースエンド (Preston North End FC)ランカシャー州 プレストン 1880年創設
ミッドランド地方チーム
 アストン・ヴィラ (Aston Villa FC) ウェスト・ミッドランズ州 バーミンガム 1874年創設
 ダービー・カウンティ (Derby County FC) ダービー 1884年創設
 ノッツ・カウンティ (Notts County FC) ノッティンガム 1862年創設
 ストーク (Stoke FC) ストーク=オン=トレント 1863年創設
 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン (West Bromwich Albion FC) ウェスト・ミッドランズ州 ウェスト・ブロムウィッチ 1878年創設
 ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ (Wolverhampton Wanderers FC) ウェスト・ミッドランズ州 ウルヴァーハンプトン 1877年創設

「オリジナル12」にロンドンのチームはない。ランカシャー地方やミッドランド地方のチームが多いのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命において、同地方が重要な地域であったことを表している。

そして最初の1888-89シーズンのリーグ戦が1888年9月8日から翌春にかけて行われた。各クラブはホームとアウェーで22試合を戦い、勝利で勝ち点2、引き分けで勝ち点1が与えられた。(但し当初は勝ち数で競うことが想定され、勝ち点制度はシーズンが開始されてから採用された)
そして最初のシーズンの結果は以下のとおりであった。

https://www.worldfootball.net/schedule/eng-premier-league-1888-1889-spieltag/22/

プレストン・ノースエンドが18勝4分と圧倒的な強さを誇り、初代のリーグチャンピオンとなった。同チームはその年のFAカップ (1871年に創設された最古のカップ戦) でも初優勝を果たし、二冠に輝いている。
得点王はプレストン・ノースエンドのジョン・グッドール (John Goodall) で21試合に出場して21点をあげている。

得点ランキング2位もプレストン・ノースエンドのジェームス・ロス (James D. Ross) であり、いかに得点力の秀でたチームだったかがわかる。

その年は降格はなく、翌1889-90シーズンも同じ12チームで行われた。

https://www.worldfootball.net/schedule/eng-premier-league-1889-1890-spieltag/22/

プレストン・ノースエンドが15勝4分3敗で2シーズン連続での優勝を果たした。2位エヴァートンとの勝ち点差は2と混戦のシーズンだった。

最初の2年で3つの国内タイトルを手にしたプレストン・ノースエンドだが、その後1937-38シーズンでFAカップを獲得したものの長く低迷し、現在はEFLチャンピオンシップ (最上位であるプレミアリーグの一つ下のディビジョンで実質2部) に所属している。

さて、イングランドサッカーのリーグ構成は「サッカーのピラミッド」と称され、トップレベルから下位レベルまで相互連携での再編がされる。当時は自動降格ではなく、Re-electionとして審議や投票がされる形だった。
そして2年連続最下位となったストークは下位のFootball Allianceへ降格となった。
そのストーク (現在はストーク・シティ) も現在EFLチャンピオンシップに所属している。1971-72年のリーグカップで国内タイトルを手にしており、直近では2017~18シーズンまでプレミアリーグに所属していた。

「オリジナル12」の他のチームのその後を見ていこう。

2023-24シーズンでは、4チームが最上位のプレミアリーグに所属している。(ちなみにプラミアリーグの創設は1992-93シーズンで、それまではイングリッシュ・フットボールリーグのディビジョン1が最高位)
その中で最も実績があるのはエヴァートンで、一時低迷し1950年に2部に降格するも、1953年に1部に復帰しその後最上位リーグに所属し続けている。フットボールリーグで9回優勝しているが、プレミアリーグとなってからは優勝がない。2022-23シーズンは17位だった。
アストン・ヴィラは、国際タイトルのUEFAチャンピオンズカップ (現UEFAチャンピオンズリーグ) を1981-82シーズンに獲得している。国内では2016-17から2018-19シーズンは降格したが、現在はプレミアリーグに復帰している。フットボールリーグで7回優勝しているが、プレミアリーグとなってからは優勝がない。2022-23シーズンは7位だった。
ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズは、1950年代にフットボールリーグで3回優勝したが、その後は長らく2部リーグが主戦場で、2013年には3部リーグに降格した。2017年に中国企業に買収されて以降は成績が好転してプレミアリーグに定着している。2022-23シーズンは13位だった。
バーンリーは、フットボールリーグで2回優勝したが、その後長く低迷した。2009-10シーズンで34年ぶりに最上位リーグ復帰し、その後降格と昇格を繰り返している。2022-23シーズンにEFLチャンピオンシップで優勝しプレミアリーグ復帰を決めた。

EFLチャンピオンシップ (実質2部) には2チームが所属している。
ブラックバーン・ローヴァーズは、プレミアリーグに初年度から所属して1994-95シーズンに優勝し、現時点で「オリジナル12」で唯一のプレミアリーグ優勝チームだが、2011-12を最後になかなか復帰できていない。
ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンは、近年はプレミアリーグとチャンピオンシップを行き来するエレベーターチームとなっており、直近では2020-21シーズンをプレミアリーグで戦ったが単年で降格してしまった。

EFLリーグ1 (実質3部) とEFLリーグ2 (実質4部) には3チームが所属している。
ダービー・カウンティは、かつてはプレミアリーグに所属し、2007-08シーズンにプレミアリーグに復帰したが、その後はチャンピオンシップでの戦いが続き、2021-22シーズンで23位でEFLリーグ1への降格となった。
ボルトン・ワンダラーズは、長く低迷の後に2001-02シーズンから2011-12シーズンまでプレミアリーグに所属したが、その後チャンピオンシップ・リーグ1・リーグ2での昇降が続いている。
ノッツ・カウンティは、最後に最高位リーグに所属していたのは1991-92シーズンで、2018-19シーズンはリーグ2で23位となりクラブ史上初めてナショナルリーグ (実質5部) に降格した。2023-24シーズンでリーグ2に復帰している。

そして、アクリントンは早々に解散してしまった。

Accrington F.C.
https://en.wikipedia.org/wiki/Accrington_F.C.

(翻訳・編集) 1888年4月17日にフットボールリーグを結成した当初の12チームの1つだった。アクリントンのベストシーズンは1889-90年の6位だった。しかし、1892-93シーズンは15位 (16チーム中) に終わり、トレントブリッジでの シェフィールド・ユナイテッドとの テストマッチに1-0で敗れ降格した。その後、アクリントンは2部リーグでプレーすることなくリーグを脱退し、フットボールリーグ創設クラブの中でリーグを永久に去る最初のクラブとなった。
ランカシャーリーグでの最初のシーズン終了後、アクリントンはフットボールリーグへの再選を申請したが落選した。クラブは1896年までリーグ外での活動を続けたが、1月14日に行われたランカシャー・シニア・カップのダーウェン戦で12対0の大敗を喫しついに解散した。

日本よりも100年以上長い歴史の中で、各チームがそれぞれに長い歴史を積み重ねてきたことがわかる。
イギリス、そしてヨーロッパにおいてクラブ間の競争はより厳しいものとなっているが、オリジナル12の現存11チームにはいつまでも歴史と伝統を積み重ねてほしい。



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このブログではインディアン・プレミアリーグ (IPL) を中心にクリケットを何度か取り上げている。IPLは2022年からラクナウ・スーパージャイアンツとグジャラート・タイタンズが新たに加盟し、10チーム体制となった。
2023年から5年間の放映権料は1試合当たり約11億4000万ルピー (約20億円) であり、世界のプロスポーツリーグでNFLに次ぐ2位となったそうだ。世界中のトッププレーヤーが短期間に集まるので注目度が高く、またインドの人口の多さ、国土の広大さ、経済発展により今後もリーグの発展が期待される。

クリケットの試合 (国際試合) の形式は大きく3つある。「Test Match」「One Day International (ODI)」「Twenty20 (T20)」で以下の動画の説明がわかりやすい。

 

クリケット=試合が何日にも渡る、というイメージは 「テスト」 を指しているものだ。これは国際クリケット評議会に認定を受けた12のナショナルチーム (オーストラリア、イングランド、南アフリカ、インドなど) しか行うことができない格式高い試合形式で、1877年からの伝統がある。
T20は2000年代に導入された新しい形式で、試合時間が3時間ほどなので、観客動員数向上につながりまたテレビ中継しやすいというメリットがある。IPLはT20で行われている。

さて、IPLのロイヤル・チャレンジャーズ・バンガロールに所属し、インド代表の主将も務めたヴィラット・コーリ (Virat Kohli、1988年11月5日~) は史上最高のバッツマン (攻撃手) の一人と言われる。2011年にクリケット・ワールドカップ優勝し、2020年には国際クリケット評議会より直近10年間における世界最優秀選手賞を受賞した。
私生活では2017年に人気女優のアヌシュカ・シャルマと結婚し、インドを代表するセレブ同士のビッグカップルというこで大きな関心を集めた。インドではスポーツ界を越えたスーパースターであり、インド映画のトップスターなどを引き離して最もブランド価値の高い著名人に選出されている。

 

そのヴィラット・コーリの2023年9月時点の通算成績は以下のようになっている。「テスト」「ODI」「T20I (国際試合)」「IPL」と分かれて示されている。

 

ここでは打率に注目する。打率は得点したランの総数を、出場した回数で割ったもので、プレーヤーが得点するランの数と出場する頻度は自身の能力の尺度であり、打率はプレーヤーのスキルを見る指標と言える。
平均的なバッツマンの打率は20~40であり、ボウラー (投手) も秀でたオールラウンダー選手の打率は20~30、ボウラーメインのプレーヤー打率は15程度と言われる。

以下は2019年9月時点の 「テスト」 「ODI」 「T20I」 の打率の分布を示したものであり、ヴィラット・コーリは現役選手なので最新の数字ではないが、ODIとT20Iの打率は歴代でも上位にランクされることがわかる。

 

この中で特記すべきは、テストにおけるドナルド・ブラッドマンの99.94 (1928~1948年) だ。正規分布を無視して、あまりにも突出していることがわかる。 (ドナルド・ブラッドマンの時代にはODIとT20はなかった)

 

ドナルド・ブラッドマン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3

サー・ドナルド・ジョージ・ブラッドマン (Sir Donald George Bradman、1908年8月27日 – 2001年2月25日) は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州出身のクリケット選手。「クリケット史上最高の選手」と評され、ペレやモハメド・アリ等と共に20世紀を代表するスポーツ選手の一人である。
最も偉大なバッツマンの一人であり、特にテスト・クリケットでの通算打率99.94は歴代選手の中でも抜きんでており、最高のバッツマンの座を確固たるものにしている。
22歳の誕生日を前に多くの高得点の記録を残し (現在も一部の記録は破られていない)、当時大恐慌に襲われていたオーストラリアにおいてスポーツ界のヒーローとなった。約20年間の選手生活において、常に安定して高得点を残した。

1987年にはオーストラリア国内で初めて存命中の人物を記念する博物館としてニューサウスウェールズ州のボーラルにブラッドマン博物館が設立された。2008年8月27日には彼の生誕百周年を記念して、王立オーストラリア造幣局が彼の肖像の5ドル記念金貨を発行した。 また2009年に国際クリケット評議会名誉殿堂が設立されると、その初期メンバーに列せられた。
2000年に100人の専門家による委員会によって、「20世紀最高のクリケット選手」に最多得票数で選出された。

 

同じ時代に活躍したハーバート・サトクリフ (Herbert Sutcliffe、イングランド) の通算打率が60.73 (1924~1935年)、後の代のケン・バリントン (Ken Barrington、イングランド) の通算打率が58.67 (1955~1968年) であることを考えるといかに突出したものかがわかる。
ドナルド・ブラッドマンのプレーやエピソードがわかる動画があるので見てみよう。

 

ドナルド・ブラッドマンが現在プレーしていたら、ワールドカップやIPLで大きな脚光を浴びていたか、或いはT20で戸惑っていたかはもちろんわからない。ただし傑出したプレーヤーが歴史をつくって現在につながっていることは確かだろう。
プレーヤー成績を見ながらクリケットを観戦するとより楽しめそうだ。

 



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FIFAワールドカップをはじめ、サッカーの代表チームの動向はどの国でも注目が高い。では日本サッカーにとって最初の代表チームはどのようなチームでどのような成績を収めたのだろうか。

日本代表にとって最初の国際試合は、1917年5月9日の対中華民国代表戦である。これは第3回極東選手権という大会におけるサッカーの試合であった。まず「極東選手権」について展開したい。

極東選手権競技大会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A4%A7%E4%BC%9A

極東選手権競技大会とは、1913年、マニラのカーニバルをきっかけに、フィリピン、中華民国、日本を主な参加国(この3ヶ国のほか第10回のみジャワ≪オランダ領東インド≫が参加)として、1934年まで10回開催された競技大会である。
第1回は東洋オリンピックという名称であったが、第2回以降「極東選手権大会」に改称された。主催者は極東体育協会で、アメリカYMCAからフィリピンに派遣されていたエルウッド・ブラウン (バスケットボール指導者) の提唱で1910年に設立された。
1917年に開催された第3回大会は日本にとって初の国際的スポーツ競技大会の開催とされる。会場は東京市芝区芝浦の埋め立て地 (現・東京都港区海岸2丁目の日の出桟橋付近) であった。1923年大阪での第6回では、ラグビーが公開競技ながら日本で初めて国際試合として実施された。それを観戦した秩父宮雍仁親王は、その後日本ラグビーとの関わりを強め、花園ラグビー場建設のきっかけになったほか後年には秩父宮ラグビー場の名前の由来ともなる。
1934年マニラ大会中に満州国参加に伴う憲章改正問題で日華が対立し、中華民国側の委員が総退場し、極東体育協会および選手権大会は消滅した。
なお現在のアジア競技大会は、本大会と1934年に1回だけ行われた西アジア競技大会を基として復興されたものであるとされている。

このように3ヵ国(または4ヵ国)のみの参加とはいえ、大正~昭和初期にかけて日本のスポーツ・各競技に大きな影響を与えた大会であったといえるだろう。

そしてサッカーは第1回・第2回とも行われたが日本は不参加 (したがってフィリピン対中華民国戦のみ) だったので、1917年の第3回が日本代表にとっての初めての国際試合となった。

KEGEN PRESS 日本サッカー幕開けの歴史とJFA創立100周年
https://kegenpress.com/jfoot-history2/

当時、日本には国内サッカーを統括する組織がなかった。日本代表選手を選抜するという発想もなく、出場チームを決める予選大会が開催されることになった。しかし、関西代表の御影師範が当日に不参加となるなど予選大会は行われず、最終的に東京高等師範が第3回極東選手権大会に日本を代表して出場することになった。
第3回大会は1917年5月に東京・芝浦の埋立地に設けられた仮設グラウンドで行われた。これが日本サッカー史上初の国際試合である。
日本代表は中華民国戦で0-5と完敗。続くフィリピン戦は2-15の大敗を喫した。ちなみにこの1試合での15失点は、現在もA代表の最多失点記録になっている。
日本は惨敗したが、初の国際大会への出場は大きな反響を呼んだ。国内でのサッカーへの関心と「熱」は高まり、全国各地でサッカー大会が盛んに行われるようになった。翌1918年には、東京で関東蹴球大会、名古屋で東海蹴球大会が開催された。また大阪の豊中では大阪毎日新聞社が主催した「日本フートボール大会」が開かれた。

この写真が大会のメンバーになるが、さすがに誰が誰がかはわからない。

経緯はともかく、栄えある初代のサッカー日本代表となったのは東京高等師範のチームで、現在の筑波大学蹴球部である。

筑波大学蹴球部
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%B9%B4%E7%90%83%E9%83%A8

体操伝習所における教材としてサッカーが取り入れられた1878年が現在の筑波大学とサッカーとの始まりとなる。1886年に高等師範学校に体操伝習所が統合されて、高等師範学校の「体操専修科」となった。
1896年3月、高等師範学校の「フートボール部」として創設され、同校教授の坪井玄道が部長に就任した。なお、当時はラグビーと未分化であったと伝えられている。1902年に高等師範学校から「東京高等師範学校」(東京高師)に改名した。
1917年5月、東京高師が日本代表チームとして第3回極東選手権競技大会に出場。5月9日に初めての日本代表としての国際試合で中華民国代表と対戦した(0-5で敗北)。また、5月10日には元FCバルセロナのパウリノ・アルカンタラを擁するフィリピン代表と対戦し、2-15で敗れたが、この試合で東京高師在学中だった藤井春吉が日本代表初得点を記録した。なお、この試合は現在でも日本代表の最大差敗戦試合となっている。

http://samuraiblue.jp/timeline/19170509/
http://samuraiblue.jp/timeline/19170510/

この試合と大会の結果は以下のサイトに情報がある。中華民国代表戦ではFung Kin Waiに3得点、フィリピン代表戦ではパウリノ・アルカンタラに6得点 (但しフィリプン代表の最後の10得点は正確な記録なし) を許してしまったようだ。
尚、事実上の決勝戦となった中華民国代表対フィリピン代表の試合は、55分に中華民国代表の3点目をTong Fuk Cheongが決めた後、フィリピンのGKがTong Fuk Cheongの顔を殴って乱闘が始まり、試合関係者と警察によって仲裁され、試合はそのまま中止となった。。 従って2勝0敗の中華民国代表の優勝となった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Football_at_the_1917_Far_Eastern_Championship_Games
https://www.rsssf.org/tablesf/fareastgames17.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Paulino_Alc%C3%A1ntara#International

そして、日本代表で初ゴールを決めた藤井春吉 (のちに養子入りして北村春吉) は以下のような人物だ。

北村春吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E6%98%A5%E5%90%89

1897年、滋賀県野洲郡野洲町に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。
1920年3月、東京高等師範学校卒業。1923年3月、京都帝国大学理学部を卒業後は数学者としての道を歩み、大学教授を歴任。また、1938年6月より新田純興や山田午郎らと共に大日本蹴球協會 (現:日本サッカー協会) の評議員に選出された。
1947年、大阪市立女子専門学校の初代校長に就任した。定年退官後は、予備校講師として長く教鞭を執った。
1996年12月19日、大阪府藤井寺市で肺炎により99歳で死去した。2013年現在、消息が判明している日本代表に選出された選手の中では最長寿記録である。

このように日本代表初ゴールと最長寿という二つの記録の保持者だ。さらに、数学者や教育者として長い経歴を持ち、『受験資料代数の鍵幾何の鍵:附・模擬試験問題』(大阪高等予備校出版部、1926年)、『代数幾何の鍵: 受験資料附・学習用問題集模擬試験問題集』(大阪高等予備校出版部、1927年)などの著作がある。

同じく第3回極東選手権のサッカー日本代表チームメイトの佐々木等 (マラソンにも出場) は、次の第4回極東選手権では選手兼任監督として出場し、その後多くの大学の教授を歴任した。
また武井群嗣は、京都帝国大学を卒業して内務省に入省し、その後さまざまな任務を歴任し、山形県知事も務めた。
これは東京高等師範が設立当初から「教育の総本山」と称され、長らく近代日本の中等教育界に大きな影響力を与え続けたこと、また日本の学生スポーツの先駆け的な存在であったことを示している。まさに文武両道だ。

今では考えられない選考経緯ではあったが、今や強豪となったサッカー日本代表の原点として相応しいチームだったと思う。

 



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英国競馬のクラシック競走で最古のレースはセントレジャーステークスであり、1776年9月24日に第1回が行われた (但し当初は"A Sweepstake of 25 Guineas" (25ギニー賞金レース) と呼ばれた)。第二次世界大戦による中止もあったが、2022年には第246回が施行されている。
一方で、現存する最古のレースであるドンカスターカップ (当初はドンカスターゴールドカップと呼ばれた) は、さらに10年遡った1766年から開催されている。ちょうどイギリスでは産業革命が始まった頃で、日本は江戸時代で10代将軍家治の時代である。

Doncaster Cup
https://en.wikipedia.org/wiki/Doncaster_Cup#History

The event was established in 1766, and it was originally called the Doncaster Gold Cup. It pre-dates Doncaster's St. Leger Stakes by ten years, and is the venue's oldest surviving race. It was initially held at Cantley Common, and moved to its present location in 1776.
During the early part of its history the race was contested over 4 miles. It was shortened to 2 miles and 5 furlongs in 1825, and reduced to 2 miles and 2 furlongs in 1891. It was cut by another furlong in 1908, and restored to its previous length in 1927.
The present system of race grading was introduced in 1971, and for a period the Doncaster Cup was classed at Group 3 level. It was promoted to Group 2 in 2003.


ドンカスターカップ (当初は"ドンカスターゴールドカップ") は近隣にあったCantley Commonのコースで開催されたが、1776年に現在のコース (Town Moor) に移っている。
同様にセントレジャーステークス (当初は"25ギニー賞金レース") も最初はCantley Commonのコースで開催されたが、1778年にセントレジャーステークスと名前が変わり、開催地もTown Moorに移っている。
従ってドンカスター競馬場を代表する2レースはともに現在のドンカスター競馬場で始まったものではない。

2つのレースは距離に特徴がある。
セントレジャーステークスは当初は2マイル (約3,219m) で行われ、1813年にレース距離が1マイル6ハロン193ヤードに短縮され、その後若干の変更はあったもののほぼ同じ長さを維持し、現在は1マイル6ハロン115ヤード (2,921m) で行われている。
一方でドンカスターカップは当初4マイル (約6.437m) 以上という現在の平地競走では考えられない距離で行われていた。その後徐々に短縮され現在は2マイル1ハロン197ヤード (3,600m) である。
いずれも日本では数少なくなった3,000m級の長距離レースだが、1周が約3,200mと広大なので、日本の長距離レースのように周回はしない。



ドンカスターカップの初代優勝馬はシャーロット (Charlotte) という栗毛の牝馬である。

Charlotte(シャーロット)の競走成績と血統表
http://racedb.com/p/058196.html



サラブレッド3大始祖のゴドルフィンアラビアン (Godolphin Arabian) から僅かに3代目というのがすごい。1756年生まれなので10歳時という高齢での勝利となるが、さすがにどのようなレースだったかわからないので何とも言えない。
父のブランク (Blank) は1勝したのみだが、種牡馬として成功し1762年、1764年、1770年にリーディングサイヤーになっている。18世紀にこのような記録がされているというのは凄い。

一方で、セントレジャーステークスは当初より3歳馬のレースであるが、初代の優勝馬は無名の鹿毛の牝馬だった。これは当時 (3歳馬は1913年、2歳馬は1946年まで) は競走馬に正式な名前をつける義務がなかったためで、当時の記録には 「br. b. f. by Sampson」 などの略称で示された。
そして後世になってこの馬はアラバキュリア (Allabaculia) と名付けられた。

Allabaculia
https://en.wikipedia.org/wiki/Allabaculia

The filly that would be named Allabaculia was foaled in 1773 at the estate of the Marquess of Rockingham. She was sired by Sampson.

1776: three-year-old season
In her first start, Rockingham's brown-bay filly was third in a 25-guinea subscription race at Nottingham. The St. Leger Stakes was not formally run under that name until 1778. At the time of the race's founding on Tuesday, 24 September 1776, it was a small subscription race run over two miles at Doncaster for 25 guineas per subscription. None of the six contenders were formally named and consisted of Lord Rockingham's "br. b. f. by Sampson", Colonel St. Leger's bay filly by Surly, Mr. Wentworth's bay colt by Doge, Lord Scarborough's chestnut colt by Remus, Mr. Foljambe's bay filly by a Son of Blank and Mr. Farrer's grey colt by Bay-Malton. The Rockingham filly won, followed by the Surly filly and the Doge colt.

1777: four-year-old season
On 17 March, the "brown-bay filly by Sampson" was fourth in the Craven Stakes held at the Newmarket meeting. The filly contended with 29 horses, losing to Maiden, Plunder and an unnamed colt by Gimcrack. She was fifth in a subscription race a few days later. This was the last start of her career. A mare named Allabaculia does not appear in the General Stud Book compiled by the Weatherby family in the early 1800s.


この記録によれば、3歳時は2戦1勝、4歳時は2戦0勝となりセントレジャーステークス (当時は"25ギニー賞金レース") が唯一の勝利だったこととなる。そのレースは6頭立てだったが、どの出走馬にも名前がない。。



アラバキュリアの父はサンプソン (Sampson) で競走馬としても種牡馬としても成功した。
アラバキュリアはサラブレッド3大始祖のダーレーアラビアン (Darley Arabian) から4代目になるが、母が不明で母系の血統が全てunknownになってしまうのは残念だ。

さて、先日9月8日に亡くなったエリザベス女王は馬と競馬をとても愛された。
馬主としてクラシックを5勝されているが、ダービーだけは勝てなかったことはよく知られている。

1977年のセントレジャーステークスを勝利したのはダンファームリン (Dunfermline) で、オークスも勝った牝馬だ。



さらに、エリザベス女王はドンカスターカップを、1956年 Atlas、1958年 Agreement、1959年 Agreement、1970年 Magna Carta、2014年 Estimateで5勝もされている。これはドンカスターカップの歴史の中でも最多(タイ)のようだ。





改めてエリザベス女王の競馬への愛情と、英国競馬の歴史を認識した。
馬主・エリザベス女王の功績を未来に伝えるとともに、英国競馬の歴史をさらに重ねていってほしい。



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子供の頃は近所の空き地や道路でよく野球をしたものだが、スポーツや娯楽の多様化、少子化などの社会の変化により、その光景をほとんど見ることがなくなった。
国内の野球競技人口は年々減っており、全日本軟式野球連盟によると1982年度には推定32万人だった競技人口が2020年度に約18万7000人となっているそうだ。MLBやプロ野球のレベルは高く盛り上がっているが、それを支えるプレー人口が増えないと先行きが見通せない。
また野球やソフトボールが世界的に普及していないことは既知の事実であり、世界野球ソフトボール連盟 (World Baseball Softball Confederation, WBSC) は危機感を抱いている。

そのWBSCが手軽にプレーできる野球型のスポーツとして2018年に新たに考案したスポーツが「ベースボール5」である。キューバの街中での「クアトロエスキーナ (cuatro esquinas)」というストリート野球を進化させたものだ。



まずはルールを理解しよう。



(1) バットやグローブを必要とせずにボール1つでプレーできること、(2) フィールドはおよそ20m四方とコンパクトでスペースを必要としないこと、(3) 1チームが5~8人 (試合は5人で行われる) という点が手軽なプレーを可能にしている、またピッチング、ホームラン、ファールを排除し、守備や走塁を中心としてスピード感にあふれている。
加えて男女混合でプレーすることが想定されている点がジェンダーイクオリティの時代にも合っている。

スポーツのスタートはストリートや公園での遊びであり、それをきっかけにそのスポーツをプレーしレベルを高めていくことが健全な姿と考える。従って多くの子供たちが放課後にベースボール5で遊ぶようになれば、今後の普及につながるのではないろうか。



以下に実際の公式試合 (2020年のEuropean Baseball5 Championship) のフルの動画があるが、1試合30分ほどでありその点でも気軽にプレーしやすい。



この試合はリトアニアがロシアに勝利したのだが、この大会でリトアニアとフランスはBaseball5 World Cupのヨーロッパ代表に決定した。そのBaseball5 World Cupは今年2022年にメキシコで開催される。

Baseball5 World Cup
https://en.wikipedia.org/wiki/Baseball5_World_Cup

The Baseball5 World Cup is a mixed-gender Baseball5 (B5) world championship that is to be held every two years, with the first edition to be held in 2022 and contested by 12 countries.  The 12 countries participating in each World Cup are geographically broken down as follows:
 The host nation automatically qualifies.
 3 countries from the Americas
 2 from Europe
 2 from Africa
 3 from Asia
 1 from Oceania
There are 12 countries that play a total of 50 games over 7 days. Each tournament will be played in three venues, with the 12 teams separated into two groups each playing a single round-robin, followed by a "super round" and then the finals.
Each team has five active players and eight players total on the roster, with the mixed-gender nature of the tournament requiring teams to have half of their roster to be of each gender, and at least two active players per gender in the game.




例えばアフリカでは以下のように、ケニア、ウガンダ、ザンビア、エジプト、ガーナ、チュニジア、タンザニア、ブルキナファソによる予選が行われている。
https://twitter.com/TanzaniaBaseba1/status/1505568719895941123?s=20&t=au0iQGWCRIapikVpLiu4jg

野球やソフトボールと比較して既に世界的な拡がりをみせているし、新しいスポーツなのでどこが強いのか全く見当がつかない点が面白い。
もともとの2020年12月開催から遅れ、現時点でも日程がTBDのままで大会の詳細が発表されていないことが気がかりではあるが、記念すべき第1回ワールドカップの動向に注目していこう。



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アマチュアゴルファーにとってホールインワンは憧れでもあり目標でもあるだろう。ホールインワンの確率は一般的には5000~15000回程度に1回と言われており、1ラウンドにパー3が4ホールとすると1250~3750ラウンドであり、年30ラウンドするプレーやが約40年に1回あるかもしれないという数字で、まさに生涯の大事だ。
一方でパーより3打少ないアルバトロスの確率は100万~200万回程度に1回と言われている。アメリカのツアーでも年に2~3回といったところだ。

さて、アルバトロスはパー5のロングホールで2打目がカップインするパターンが一般的だが、パー4のミドルホールで1打目がカップインするケースも該当する。これはアルバトロスとホールインワンの同時達成だ。
当然ながらこの実際例は極めて少ないが、それでも北米のプロツアーであるPGAとLPGAではこれまでに1回ずつ記録されている。

PGAではアンドリュー・マギー (Andrew Magee、アメリカ、1962年フランス生まれ) が、2001年のフェニックスオープン (アリゾナ州にあるTPCスコッツデール) の17番ホール (332ヤード) で達成した。
まだ前の組がグリーンに残っていた時に、届かないと考えたマギーがドライバーでティーショットしたもので、そのままボールはピンの方向へ向かい、グリーン上のプレーヤーたちに見守られる中でボールがカップへ吸い込まれていったものだ。残念ながらカップインの瞬間は映っていない。



但しアンドリュー・マギーは決して好調だったわけではなく、このフェニックスオープンは44位タイで終えている。

LPGAではジャン・ハナ (Jang Ha Na、韓国、1992年生まれ) が2016年のピュアシルク・バハマLPGAクラシックの第3ラウンド8番ホールで達成している。
海岸沿いホールで、見事なホールインワンでのアルバトロスだ。



以下のR3のホール8の 1 が誇らしい。但しジャン・ハナもこのオープンでは11位タイに終わっている。快記録と4日間トータルの成績は直接は関係しないようだ。



PGA・LPGAに限定しないと他にもいくつか例がある。いずれも豪快なティーショットで放たれたボールが導かれるようにカップインしておりとても爽快だ。



さらに、プロトーナメントではないが、パー5でのホールインワン (=コンドル) がこれまでに5回記録されているという。

Holes-in-one on par 5 (or higher) holes
https://en.wikipedia.org/wiki/Hole_in_one#Holes-in-one_on_par_5_(or_higher)_holes

As of January 2021, a condor (four under par) hole-in-one on a par-5 hole had been recorded on five occasions. A horseshoe-shaped par 5 hole once enabled a condor hole-in-one to be achieved with a 3-iron club. Another may have been achieved at the former Piedmont Crescent Golf Course in 1973 after bouncing multiple times on a very firm fairway due to unseasonably dry weather. The longest recorded straight drive hole-in-one is believed to be 517 yards or 473 metres, on the par-5 No. 9 hole at Green Valley Ranch Golf Club in Denver in 2002, aided by the thin air due to the high altitude. None of the five par-5 holes-in-one were achieved during a professional tournament.

Golf Digest Did you know: There have been five holes-in-one on par 5s (yes, par 5s!)
https://www.golfdigest.com/story/did-you-know-there-have-been-five-holes-in-one-on-par-5s-yes-par-5s

One of them was assisted by the altitude in Denver, as Mike Crean, a 4-handicapper, ripped a driver on the 517-yard ninth hole at Green Valley Ranch G.C. and found his ball in the hole when he reached the green. His feat came on July 4, 2002. Talk about fireworks!



馬蹄形のホールのショートカットだったり、1973年の記録は定かでなかったりするようだが、2002年にマイク・クリーン (Mike Crean) がデンバーのGreen Valley Ranch Golf Clubで記録した517ヤードのホールでのホールインワン (コンドル) は、高地のデンバーであるにせよすごい記録だ。変更されていなければ以下のようなロングホールだ。ワンオンを狙おうという発想がすごい。



世界中でゴルフのトーナメントが開催される中で、いつの日かコンドルの映像を観ることができるかもしれない。


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エンゼルスの大谷翔平選手はMLBでも投手・野手両方で卓越した成績を収めているが、アメリカでは複数のプロスポーツで活躍する選手がいる。アメリカの4大プロスポーツであるMLB (野球)、NFL (アメフト)、NBA (バスケ)、NHL (アイスホッケー) のうち複数でプレーした選手たちを見てみよう。(NFL & NHL、NBA & NHLは確認できなかった)

一番多いのはMLB & NFLで69名いる。

Baseball Almanac / MLB & NFL Players
https://www.baseball-almanac.com/legendary/baseball_and_football_players.shtml

ジョージ・ハラス (George Halas) は1919年にニューヨーク・ヤンキースで12試合に出場したが怪我で引退し、翌1920年にフットボールチーム「ディケイター・ステイリーズ」を創設し、選手兼ヘッドコーチ兼オーナーとなった。同年NFLの前身であるAPFAが発足されて参加した。1921年に地元シカゴに移転し、APFA優勝を果たし、1922年「ベアーズ」に改称した。 選手としては1928年に引退したが、ヘッドコーチとしては1967年まで退任と復帰を繰り返しながら、選手兼任時代を含め6回のNFL優勝に導いている (当時はまだスーパーボウルは行われていなかった)。背番号7はシカゴ・ベアーズの永久欠番で、ユニフォームの袖にはイニシャルである「GSH」があしらわれている。



ボー・ジャクソン (Boe Jackson) はオーバーン大学時代には野球で打率.400以上、陸上の100メートル競走で10秒13を記録し、大学アメリカンフットボールで最高の栄誉であるハイズマン賞を受賞した。1986年にNFLドラフトでタンパベイ・バッカニアーズから指名されたがMLBドラフトでもカンザスシティ・ロイヤルズから指名を受け、ロイヤルズに入団した。翌1987年のNFLドラフトで今度はロサンゼルス・レイダースから指名を受けて契約した。両方のプロスポーツ界で一躍人気者になり、MLBオールスターゲームとプロボウルの両方に出場した唯一の選手である。



ディオン・サンダース (Deion Sanders) はフロリダ州立大学時代に全米最優秀ディフェンダーのジム・ソープ賞を受賞し、野球でも俊足の外野手として活躍した。1988年にMLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから指名を受けて入団し、翌1989年にNFLドラフトでアトランタ・ファルコンズから指名を受けて入団した。同年9月に同じ週にMLBで本塁打を放ち、NFLではタッチダウンを決めるという離れ業を達成している。
その後アトランタ・ブレーブスで1992年にワールドシリーズ、NFLでも1994年にサンフランシスコ・フォーティナイナーズ、1995年にダラス・カウボーイズでそれぞれスーパーボウルに出場するなど、ワールドシリーズとスーパーボウルの両方に出場した唯一の選手である。



MLB & NBAは12名いる。

Baseball Almanac / Baseball (MLB) and Basketball (NBA) Players
https://www.baseball-almanac.com/legendary/baseball_and_basketball_players.shtml

ジーン・コンリー (Gene Conley) は1950年8月11日にMLBのボストン・ブレーブスと契約し、その後MLBでは投手として91勝を挙げ、1957年にはワールドシリーズ制覇を果たし、オールスターゲームにも3度選出された。1952年にボストン・セルティックスから指名を受け、経済上の理由から11月から3月にかけての野球シーズンのオフの時期はセルティックスでプレーすることを決め、1963年まではMLBとNBAでプレーした。1959~1961年までNBAファイナルを3連覇するなど輝かしい成績を残した。
同じ年に一都市で2つのプロスポーツを兼ねた最初の選手であり、また北米4大プロスポーツリーグのうち2つでチャンピオンリングを獲得した唯一の選手である。



尚、バスケットボールの神様と呼ばれたマイケル・ジョーダン (Michael Jordan) はNBA引退後に「子供の頃からの夢。父の願いでもあった」としてMLBへの挑戦し、1994年にマイナーリーグのAA級でプレーしたが、127試合 打率.202 3本塁打 30盗塁という成績でMLBでのプレーは叶わなかった。従ってこの記事の対象ではないが、せっかくなので写真を載せておく。



NFL & NBAとなるとかなり限定的になり2名のみだ。

オットー・グレアム (Otto Graham) は、バスケットボールの奨学生としてノースウェスタン大学に進学したが主にフットボールをプレーした。第二次世界大戦の終盤に短期間従軍した後、All-America Football Conference (AAFC、NFLの前身) が直ちに再開されなかったため。National Basketball League (NBL、NBAの前身) のロチェスター・ロイヤルズ (現在のサクラメント・キングス) でプレーし、リーグチャンピオンに輝いた。 その後1946年から1955年までAAFC・NFL のクリーブランド・ブラウンズにクォーターバックとして活躍し、現役生活の10年間で7回のリーグ優勝に輝いた。その間のチーム成績は57勝13敗1分、NFLプレーオフで9勝3敗という圧倒的なものだった。



バド・グラント (Bud Grant) は、ミネソタ大学でフットボール、バスケットボール、野球の3つをプレーした。グラントはNFLドラフトとNBAドラフトの両方で指名されNBAのミネアポリス・レイカーズ (現在のロサンゼルス・レイカーズ) に入団し、1949~50年と50〜51年の2シーズンでプレー、1950年は優勝を果たした。
その後バスケをやめて、1951~1952年にNFLのフィラデルフィア・イーグルスでプレー、その後はカナダのウィニペグ・ブルーボマーズでプレーした。引退後はブルーボマーズとミネソタ・バイキングスで長くヘッドコーチを勤め、NFLとCanadian Football League双方で殿堂入りしている。



そしてMLB & NHLはジム・ライリー (Jim Riley) しか確認できなかった。

Jim Riley (ice hockey)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jim_Riley_(ice_hockey)

James Norman Riley (May 25, 1895 – May 25, 1969) was a Canadian professional ice hockey and baseball player. The only person to play in both the National Hockey League (NHL) and Major League Baseball (MLB), Riley played 9 games in the NHL in 1926–27 and 6 games in MLB between 1921 and 1923. In hockey he also played eight seasons in the Pacific Coast Hockey Association, a rival major league of the NHL, in a career that lased from 1915 to 1929.

Riley played professional baseball for 12 seasons, from 1921 to 1932, mostly in the minor leagues. He started his career as a second baseman, and played in four games at that position for the 1921 St. Louis Browns of the American League, thus becoming the only athlete in sports history to play both Major League Baseball and in the National Hockey League. After that season, he switched permanently to first base, and returned to the major leagues with the 1923 Washington Senators, playing two games with them.




そして3つ以上のプロスポーツでプレーした選手として、4大プロスポーツ確立前なので正式ではないがジム・ソープ (Jacobus Franciscus "Jim" Thorpe) がいる。

ジム・ソープ 野球、アメリカンフットボール、バスケットボール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%97#%E9%87%8E%E7%90%83%E3%80%81%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%81%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

1913年にニューヨーク・ジャイアンツ (現サンフランシスコ・ジャイアンツ) と契約し、外野手としてプレーした。MLBでは1919年までに通算289試合に出場し、698打数176安打、7本塁打、82打点、29盗塁、打率.252。
一方ソープは好きなアメリカンフットボールでもプレー、1913年にインディアナ州パインビレッジのチームでプレーした。1915年にはカントン・ブルドッグスが一試合250ドル(現在の貨幣価値で約5400ドル)という当時としては破格の待遇で契約を結んだ。1920年カントン・ブルドッグスはアメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション (APFA) を形成する14チームの1つとなった。APFAは2年後ナショナル・フットボール・リーグ (NFL) となる。
1928年41歳で引退するまで計6チームで52試合に出場した。

2005年までジム・ソープがバスケットボールをプレーしたかどうかについては全く知られていなかった。しかしこの年古書で発見されたチケットは、バスケットボールのソープのキャリアを明らかにした。
ソープは1926年まで野球・アメリカンフットボール・バスケットボールの巡業チーム「World Famous Indians」は少なくとも2年間 (1927-28年) ペンシルベニア州ニューヨーク、およびオハイオ州マリオンの地域で地方巡業を行った。バスケットボールのユニフォームを着たソープの写真が絵葉書として発売されたり新聞に掲載されたりしたが、ソープのこの時期の記録が残っていない。


さらに、Wikipedia英語版では「brief time in 1913, he was considering going into professional hockey for the Tecumseh Hockey Club (Toronto Tecumsehs).」という記事があり、NHLの前身のひとつであるNational Hockey Association (NHA) でアイスホッケーでもプロになった可能性もあった。
ジム・ソープは1912年のストックホルム五輪の金メダリスト (五種競技、十種競技) でもあり、まさに万能アスリートと言えるだろう。



このように見ていくと、世の中には本当に何でもできてしまう身体能力に優れたアスリートがいることを改めて認識する。本当に凄いと思う。


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夏季オリンピックにおいて第1回(1896年)のアテネから途切れることなく実施されているのは、陸上、競泳、体操、フェンシング、自転車である。
自転車はこのブログで取り上げたとおり、当初の自転車は前輪が大きい不安定な乗り物であり、現在の自転車の「ローバー安全型自転車 (Rover Safety Bicycle)」が発売されたのは1885年のことだ。その後わずか10年ほどでオリンピックの競技になったことになる。

実際は安全型自転車が登場する前の1868年5月31日にパリ郊外のサンクルーで行われた1200mのレースが最初の自転車競技とされている。記録は定かでないが優勝者はイギリス人のジェームス・ムーア (James Moore) で以下のような木製のフレームに鉄製のタイヤの自転車であった。 



さらに1869年11月7日にはパリ〜ルーアン間でロードレースが行われ、これもJames Mooreが優勝した。距離は123km、タイムは10時間45分であったので、平均時速11.4km/hとなる。ママチャリで街中を走るぐらいのスピードだが、自転車の性能を考えるとかなり早いし、乗り心地は最悪だったと思う。

前述の安全型自転車が1885年、空気入り自転車用タイヤが1888年に登場すると、その後も続々と開発が進み現在の自転車の原型がほぼ完成し、自転車の利用者、そして自転車競技の人口が劇的に増えた。1892年には現在も行われているベルギーの「リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ」が開始されている。この流れでオリンピックにも採用されたようだ。

では初期のオリンピックの自転車競技の成績をもとに、自転車の性能の推移を考察してみたい。しかし陸上や水泳と違ってオリンピックの自転車競技は大会ごとに種目が頻繁に変更され同一種目での比較ができない。そこでオリンピックの歴代記録をもとに時速を求めてみよう。

Olympic Cycling Track - Sprint individual men
https://www.olympic.org/cycling-track/sprint-indivual-men



1896年のアテネオリンピックには5ヵ国から19選手が集まった。この中でポール・マッソン (Paul Masson) が4種目、レオン・フラマン (Léon Flameng) が1種目で金メダルを獲得した。2人の写真は以下のとおり (左がLéon、右がPaul) だが、2人の自転車を見ると確かに現在の自転車の原型といえるだろう。



この頃に風をどう読むかや位置取りをめぐる駆引きがどの程度あったかはわからず、速度からだけでは判断できないが、長距離系で30km/h以上のスピードを出せたようだ。
この大会では「12時間レース」があり、7選手が参加したが完走できたのは2選手のみだった。金メダルのアドルフ・シュマール (Felix Adolf Schmal) と銀メダルのフレドリック・キーピング (Frederick Keeping) はトラックを約900周して1周差で勝敗がついたようだ。これはあまりにも過酷すぎる。当然のように「12時間レース」は廃止となった。



1900年のパリオリンピックには7ヵ国から72選手が集まり、スプリントと25kmとポイントレースが行われた。この25kmのタイムと速度は当時としては早すぎるのはないかと思われる。レースの写真は以下のとおりだ。





1900年のセントルイスオリンピックにはアメリカの18選手だけが参加した。そのためか速度的にそれほど特筆すべきものはない。1/4マイル、1/3マイル、1/2マイル、1マイルというように短距離の種目が細かく分かれたが、全てマーカス・ハーリー (Marcus Latimer Hurley) が優勝し、メダリストの顔ぶれも同じとなった。



少し後のものになるが、1912年ストックホルムオリンピックのロードレースの映像があった。初期の自転車レースのイメージがわかるだろう。



その後は競技が不成立となったりトラックレースが行われなかったりしたが、1920年以降は男子個人スプリントが種目として継続しており、推移がわかる。タイムはラスト200mのもので、優勝タイム(決勝戦タイム)なので、当然だがレースの駆け引きもありその大会のベストタイムとは限らない。



このようにかつては50km/h台だったものが、21世紀になって70km/h台へと進化している。現在スプリントの世界記録は79.1km/hで、近い将来80km/hを超えるだろう。
一方で安全型自転車と空気入り自転車用タイヤが開発されてわずか10年程度の1896年のアテネオリンピックの時点で、既に充分な性能を持った自転車でレースが行われていたことが確認できた。人間のパワーとスピードの向上、自転車の技術の革新は流れの中で起きており、まだまだ進化が続くだろう。



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サッカーでもラグビーでもアメフトでも、「フットボール」は年々技術や戦術が磨かれていて芸術の域に達している。またビジネスとしてもエンターテインメントとしても高いレベルにあり、世界各地で多くの観客を動員して熱戦が繰り広げられ、世界中に向けて放映されている。
しかし当然だがこのような高度なフットボールが短期間で生まれたわけではない。フットボールの起源から歴史をハイレベルに示すと以下のとおりとなる。

フットボール 起源 スポーツへの進化、そして分化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB#%E8%B5%B7%E6%BA%90

今日「フットボール」として総称されるこれら一連の競技の歴史は定かではないが、これに近い競技がローマ帝国の時代に既に行われていたと言われている。また、サッカーに見られる様な「ボールを蹴って運ぶ」という要素は、古代中国の蹴鞠(日本の蹴鞠も)に由来するとも言われており、こうした競技が主にイングランドで発展、分化し、その一つとして、中世の「懺悔火曜日のフットボール」のような荒唐無稽な「祭り」としてのフットボールになった。一方、イタリアでは「カルチョ」として発展した。これもまた『蹴る』と名付けられていながら、実態は手によるボールの奪い合いだった。
これらに対し、時の権力は度々「フットボール禁止令」を敷いたが、大衆のフットボールへの情熱は消える事を知らなかった。そして、近代イングランドでは、良家の子弟のための全寮制学校、パブリックスクールを中心に、フットボールをスポーツとしてルール化する動きが現れ、これが後のサッカーとしてのフットボールのルール作成、そしてそこからのラグビーの分岐につながった。さらに、このサッカーとラグビーは、当時世界中に存在したイギリスの植民地にも伝わり、アイルランドの旧来のフットボールに影響を与え、またアメリカ、オーストラリアで独自のフットボールが派生して行った。


イングランドの各地でで行われたのは「民俗フットボール」と呼ばれる競技で、告解火曜日を中心にイングランドの農民、徒弟、職人らによって行われた。告解火曜日とは2月から3月にかけての移動祝祭日であり、キリスト教徒はこの日に懺悔をすることが求められ、また翌日 (灰の水曜日) から始まる断食期間を前にしたお祭りの要素の強い日だ。その中で民族フットボールは催しとして行われた。
このいくつかは現在も行われている。例えばイングランドでは以下のようなものがある。
 Scoring the Hales (Alnwick, Northumberland)
 Royal Shrovetide Football (Ashbourne, Derbyshire)
 The Shrovetide Ball Game (Atherstone, Warwickshire)
 The Shrove Tuesday Football Ceremony of the Purbeck Marblers (Corfe Castle, Dorset)
 Hurling the Silver Ball (St Columb Major in Cornwall)
 The Ball Game (Sedgefield, County Durham)

日本福祉大学の吉田文久教授による以下の論文によると、イングランドでは17箇所で民族フットボールが残存しており、以下のような特徴があるそうだ。

英国イングランドに残存する民俗フットボールについて 吉田文久
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&ved=2ahUKEwj2x-rV1L7oAhXXFogKHZU6BeMQFjAFegQIAhAB&url=https%3A%2F%2Fnfu.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D2798%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2JnD8Thct5Ypr1r6I_7qNW

開始日 告解火曜日に集中(それ以降復活祭期間まで)
 使用されるボール: 通常のサッカーボール、ひと回り小さなラグビーボール、円筒型の筒、ビア樽 など
 プレイ空間: 町全体、空き地の一区画、2つの町
 ゴール: 特定の固定されたゴール、片方のゴールのみ、ゴールなし など
 ゴールまでの距離: 200ヤード、500~600ヤード、1.5~2.5km
 プレーヤーの人数: 100~150人規模が多く50 名、300 人規模も


上記だけだとフットボールの要領としては意味不明なので、実際の映像としてイングランド中部のアッシュボーン (Ashbourne) で行われているRoyal Shrovetide Footballの様子を見てみよう。



このように、祭事としての要素が強く、勝敗どころか試合の展開もよくわからないが、ルールの説明も見てみよう。

シュローヴタイド・フットボール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB

街を東から西に流れるヘンモア川を境にして北側の地域の出身者のチーム「Up'Ards アッパーズ」と川の南側出身者のチーム「Down'Ards ダウナーズ」に分かれて、それぞれのゴールを目指してボールを運ぶ大会。アッパーズが目指すゴールは川上側にあり、街の東寄りの場所にあり、ダウナーズが目指すゴールは川下側、街の西寄りの場所にある。ゴールは川の中にある碑(石碑)で、碑の真ん中の丸い色の変わった部分にボールを3回タッチさせればゴールと認められる。ボールを移動させることに関するルールはほとんど無く、ほとんど何をしても良く、ボールは手に持って走っても、投げても、足で蹴ってもいい。ボールを服の中や袋に隠して運んでもよい。アッシュボーンの街全体をフィールドにして行い、入っていけない場所はせいぜい教会堂と墓地くらいのもので、あとはどこに入っても良く、たとえば個人の住宅の敷地内や商店やスーパーの中に入っても良い。
どちらのチームもゴールを決められずに夜10時を迎えた場合は試合終了となり、引き分けとなる。
ゴールを決めた人には、様々な意味を込めた図柄と当人の名前を記したボールが授与される。この大会でゴールを決めることは街の男にとって特に大きな誇りとなる。数百年も前の記念ボールも記念館に保管されていて、その名は街で語り継がれている。
男たちはそれぞれ毎年同じ服を着て参加するのが慣例となっている。服の色や図柄によって離れていても互いに誰か一目で判るからである。中には30年も同じ服で参加しているのでそれが穴だらけでボロボロになってしまっている人もいる。



同様にイタリアでも中世のフットボールである「カルチョ・フィオレンティノ」が現在でも行われている。

カルチョ・フィオレンティノ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E

カルチョ・フィオレンティノ (Calcio storico fiorentino) は、16世紀のイタリアに起源を持つ初期フットボールの一種である。フィレンツェのサンタ・クローチェ広場がこのスポーツの揺り籠であり、「カルチョ」は後にイタリア語でサッカーを示す名称となった。
カルチョの公式ルールは1580年にジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵によって初めて発表された。ローマのハルパストゥムと同様に、カルチョは27名からなるチームによって足と手の両方を使ってプレーされた。ゴールは競技場の周辺の指定された場所にボールを投げ入れることによって得られた。競技場はゴールを構成する狭いスリットのある巨大な砂場である。主審が1人、線審が6人、フィールドマスターが1人いる。それぞれの試合は50分間行われ、最も多い点を得たチームが勝者となる。
元々、カルチョは裕福な貴族のものであり、公現祭と四旬節の間の毎晩行われた。
カルチョは200年あまりの間行われていなかったが、20世紀に入って1930年に復興された。今日では、サンタ・クローチェ広場で毎年6月第3週に3試合が行われている。4チームがまず最初の2試合でそれぞれ対戦し、勝者がフィレンツェの守護聖人である聖ジョヴァンニの日、6月24日に行われる決勝に進む。現代版ではヘッドバット、パンチ、肘撃、首締めといった戦術は許されているが、不意打ちや頭部への蹴りは禁止されている。

これも映像を見てみたい。



ボールと関係ないところで殴り合いとなっているのが恐ろしいが、多くの観衆も詰めかけており (2019年のチケットは29~80ユーロ)、フィールドが100m×50mというサイズであることもあり、試合の形になっている印象がある。ただし格闘技にしか見えないが。
優勝チームには以前は牛が与えられたが、現在はディナーのみで、プレーヤーは他に報酬を得ないとのことだ。しかし年に1回の祭事において、お祭り的な要素が強く名誉を競うものだ。



民族フットボールにしてもカルチョ・フィオレンティノにしても、本来の人間が持つ闘争心をボールを介して表現したものが「フットボール」なのであろう。禁止令がたびたび出されるような暴力的なものではあったが、それだけに人々を熱狂させてその地域に根付いたと思われる。この流れを汲む現代のフットボールに世界の人々が熱狂するのは当然である。


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スポーツ選手にとって記録の更新は大きな目標であり、さまざまな競技で新記録が生まれている。
日本の陸上競技では、今年6月にサニブラウン選手が100mで9.97秒を記録するなど進化が目覚ましい。その結果多くの日本記録は21世紀になってから更新されたものとなっている。
しかし、この中でひとつだけ1961年の記録が依然として日本記録として残っている。それは男子(室内) 4x800mリレーの川崎俊二氏、中尾勝美氏、川庄進氏、杉崎隆志氏 (リッカー) による 8:48.6 という記録だ。

日本陸上競技連盟公式サイト 日本記録
https://www.jaaf.or.jp/record/japan/?segment=3

リッカーはかつて存在したミシンメーカーで、スポーツ活動に力を入れており、陸上部は1964年東京オリンピックに10名の選手を送り出した名門だ。
この記録の年月日は「1961年3月19日」、競技会名は「NHK東京国際室内」、場所は「東京」とある。 これは1964年の東京オリンピックに向けた強化目的で行われた「日本室内陸上競技選手権大会」の一部である。

日本室内陸上競技選手権大会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%A4%E5%86%85%E9%99%B8%E4%B8%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E5%A4%A7%E4%BC%9A

東京オリンピックに向けた選手強化の一環として、公式にボード・トラックを使用した日本初の室内陸上競技大会である「第1回NHK室内国際大会」が1961年3月18日と19日に、その3日後の22日と23日に「第1回日本室内選手権」が東京都体育館で開催された。(それ以前には、1954年2月7日に岐阜市民センターにおいて国内最初の室内大会が行われた)
NHKが経費を負担し、全米体育協会の設計図をモデルに製作した1周133.33m(3周で400m、直走路60m)のボード・トラックを設置して行われたこの大会には、リビオ・ベルッティ、マレー・ハルバーグ、ドン・ブラッグなどのローマオリンピック金メダリストらを招待した。
1963年の第3回まで行われたが、強化関係者の激しい議論の末、第3回を最後に室内陸上競技は中止され、日本室内選手権も終了となった。中止の理由は、屋外と室内のスパイクの感触の違い、国内のトップ選手はこの時期本調子ではない、室内暖房が不十分、観客が少なくて盛り上がらない、であった。

すなわち、室内4×800mリレーの日本記録は、日本における本当に最初の公式レースで記録されたものということになる。しかも4×800mリレーは第1回~第3回の日本室内選手権でも行われていないので、1回限りの競技であったようだ。

ちなみにこの記事にある東京都体育館は、1956年に完成した初代の東京体育館のことで、1964年の東京オリンピックで体操や水球の会場となったが、1986年に一時閉鎖となり1990年に全面改装された。現在は2020年のオリンピックに向けて改修工事が行われている。



さて、この室内4×800mリレーの日本記録がなぜ破られないかというと、行われていないからである。世界室内陸上競技選手権大会の種目にもないし、日本室内陸上競技大阪大会 (大阪城ホール) でも行われていない。
しかし海外では小規模なな大会で行われることがあるようで、2018年2月にアメリカ・ボストンで行われたBoston University Last Chance Meetで、Hoka One One NJ*NY Track Clubの4名 (Joseph Mcasey、Kyle Merber、Chris Giesting、Jesse Garn) が7:11.30 の世界記録を樹立した。

LetsRun.com -Hoka NJ*NY TC Breaks 4x800 World Record
https://www.letsrun.com/news/2018/02/njny-tc-runs-711-30-break-4x800-world-record-josh-hoey-crushes-800-high-school-national-record-japanese-mile-record/

If you stuck around to watch the final race of the 2018 Boston University Last Chance Meet — and chances are, you did not, because the place was almost deserted — you were lucky enough to witness a very exciting men’s 4×800 relay in which three teams broke the existing world record.
In a tight race, it was Hoka One One NJ*NY Track Club that emerged victorious, clocking 7:11.30 to break the four-year-old record of 7:13.11, set across town at the Reggie Lewis Center. The record-setting team consisted of, in running order, Joe McAsey (1:49.03), Kyle Merber (1:47.11), Chris Giesting (1:47.43), and Jesse Garn (1:47.33). Atlanta Track Club (Brandon Hazouri, Patrick Peterson, Edward Kemboi, and Brandon Lasater) and District Track Club (Blair Henderson, Strymar Livingston, Edose Ibadin, and Matthew Centrowitz) finished second and third in the three-team race in 7:11.84 and 7:12.25, respectively.



HOKA NJNYTC 4x800m World Record 2018 from NJNYTC on Vimeo.


800mの全力疾走はタフだが、200mのショートトラックを4周することで駆け引きが生まれるし、リレーならではの順位の入れ替わりもある。瞬間で終わってしまう4x100mや4x200mとは異なる面白さがある。また室内陸上は風などのコンディションに左右されないし、選手と観客がとても近い。
東京体育館がリニューアルオープンとなった際に、室内トラックを設置して、この種目だけを 「室内4x800mリレー全国大会」 として開催してみてはいかがだろうか。高い確率で約60年ぶりに日本記録が更新されることだろう。



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