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フェントンと薩摩バンドによる「君が代」
文化・芸術
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2021年04月30日
クラシック音楽の古典派音楽やロマン派音楽は、いずれも日本の江戸時代のものである。当時の日本の音楽は鎖国政策のもとで箏と三味線を中心とした「邦楽」が進化し、浄瑠璃、地歌、長唄、筝曲などが発展した。このような中で初めて耳にした西洋音楽は大きな驚きであっただろう。
その初めての機会は1853年にペリーが浦賀に来訪時であり、この来訪には大規模な軍楽隊が同行していた。
明治時代におけるアメリカ音楽の受容 - 立命館大学
http://www.ritsumei.ac.jp › lcs › kiyou › pdf_26-1
ペリーの最初の日本訪問中、何度か西洋音楽が演奏される機会があった。7月10日の日曜日、サスケハナ号では安息日の礼拝が執り行われ、聖書の朗読と祈祷がささげられた。またフルバンドの伴奏で300名の水夫がアイザック・ワッツの "Old Hundreds" を合唱した。7月14日木曜日、楽団が "Hail Columbia!" を演奏する中、ペリー提督は日本に上陸した。
ということで、日本人が最初に耳にした西洋音楽は、初代アメリカ国家の "Hail Columbia!" と思われる。( "Old Hundreds" は船上での演奏)
その後幕末から明治にかけて、まず日本が取り入れた西洋音楽は軍楽であった。当時の日本は新式軍隊の整備を急いでいたが、西洋の兵器の訓練とあわせて西洋軍楽が導入され、オランダ式の鼓笛隊が編成された。
その後日本で初めての吹奏楽隊として結成されたのが薩摩藩士による「薩摩バンド」である。
薩摩バンド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89
薩摩藩と吹奏楽の遭遇は、1863年の薩英戦争とされる。イギリス軍は戦死者13名を錦江湾で水葬する際に葬送曲を演奏した。
1866年、薩摩藩はパークス駐日英国公使夫妻と英国陸海軍300人を招聘して磯海岸で相互の軍事訓練を披露。英国陸軍の演奏した軍楽を聴いた薩摩の人々は感心したという。また、英国艦に招待された島津久光・忠義親子の前で、英国の「国王の楽」(国歌)が演奏された。
1869年に大山巌が上京した際に、イギリス領事館を吹奏楽の指導を依頼した。薩摩藩は30人余りの藩士の若者(鼓笛隊出身者が中心であった)を「軍楽伝習生」として横浜に派遣。本牧山妙香寺(横浜市中区)で、イギリス陸軍第十連隊第一隊長のジョン・ウィリアム・フェントンの指導を受けた。
当初、楽器は竹や鋳物で間に合わせる状況で、楽譜も読めず惨憺たる有様であったという。島津忠義が資金を出して、ロンドンのベッソン楽器店に新品の楽器を注文した (1組1500ドルであったという)。新しい楽器が届くと、演奏の腕もみるみる上達したという。
主に公務で外国との式典の開会や閉会の際に音楽を奏でたと言われている。
この薩摩バンドを指導し、日本で最初に西洋音楽を指導したのが、ジョン・ウィリアム・フェントン (John William Fenton、1831~1890) である。
ジョン・ウィリアム・フェントン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3
フェントンは13歳で、少年鼓手兵としてイギリス陸軍に入った。日本を訪れる前にインドに13年、ジブラルタルおよびマルタに5年弱、ケープ植民地に3年4か月いた。1864年8月に第10連隊第1大隊軍楽隊長に就任し、その後同大隊は横浜のイギリス大使館護衛部隊となり、フェントンは妻と娘とともに1868年4月に横浜に到着した。
1869年10月頃から日本で初めての吹奏楽の練習として、横浜の本牧山妙香寺で薩摩藩の青年約30人を指導した。イギリスから楽器が届くまでは、調練、信号ラッパ、譜面読み、鼓隊の練習を行ない、1870年7月31日にベッソン社製の楽器が届いた。フェントンが使った教科書には楽譜の書き方から作曲法までがカバーされており、日本で初めて西洋音楽の理論を体系的に教えたとされる。
そしてフェントンと薩摩バンドによる最大のヒット曲(?)は「君が代」だろう。
君が代 礼式曲「君が代」の成立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3#%E7%A4%BC%E5%BC%8F%E6%9B%B2%E3%80%8C%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B
1869年4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。
当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山巌は、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞に選びフェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。
同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンドを設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。翌1870年8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏された。同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。
しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。
讃美歌的なメロディーでこれはこれで美しいのだが、確かに歌詞とは合っていないの残念である。結果的に1876年にフェントンの君が代は廃止されてしまった。
一方で交儀礼上欠かせないものとして国歌の必要性は認識され、1880年に雅楽演奏者の林廣守が作曲した (実際には廣守の長男の林広季と、宮内省式部職雅樂課の伶人である奥好義がつけた旋律をもとに林廣守が曲を起こしたもの) 現行の「君が代」が採用された。
さて、フェントンは1877年に任期を終えて帰国しているので、その後の現行の君が代については知らないと考えられていた。しかしフェントンが改訂に携わっていた可能性を示す資料が発見された。
日本経済新聞 2017年12月4日 元祖「君が代」作曲者に光 今村朗
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO24143730R01C17A2BC8000/
宮内庁の公文書館で史料を調べるなかで、改訂にフェントンが主体的に関わった可能性があることが分かった。1877年にフェントンの依頼で雅楽の演奏会が行われたことを示す史料が見つかったのだ。
同年、薩摩出身の海軍軍楽長、中村祐庸は「君が代」を雅楽風に改訂すべしという建議書を書いた。フェントンが雅楽を採譜して改訂するという一見奇妙な案だ。だが、フェントンが翌年離日し改訂には全く関わっていないというのが通説だ。
新史料の発見でフェントンが建議に従い、雅楽を学ぼうとした可能性が浮上した。なぜこのような改訂プロセスが構想されたのか。フェントンは1870年に薩摩藩から「君が代」を短期間で作曲するよう頼まれた際、本来なら日本古来の音調を学んでから作曲すべきだと述べたという。建議書はその意をくんだもので実際の作業にも着手していたというのが私の見方だ。
史料には雅楽の演奏家として現行の「君が代」の作曲者、奥好義の名前もあった。彼はフェントンに洋楽を学んでおり、師が依頼した演奏会の目的も知っていたはずだ。後年、奥は師に遠慮してか別バージョンを試作しただけだと述懐したが、師が成し遂げられなかった改訂を教え子が完成させたといえる。
尚、薩摩バンドが吹奏楽、そして初代君が代の練習を積んだ横浜の本牧山妙香寺は「日本吹奏楽発祥の地」「国家君が代発祥の地」となっている。
このように見ていくと、音楽も鎖国状態にあった日本がペリーの来航とともに西洋音楽に触れ、外国人の指導のもとで吹奏楽を習得し、並行して国歌が制定されたという流れがよくわかる。さらに単純に西洋音楽を取り入れるのではなく、日本の音楽の良さも再認識している。
現代の日本の音楽の礎はこの時代に横浜の寺で築かれたものと言えるだろう。
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