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歴史上でこれまでさまざまな国家が成立し、その多くは既に消滅している。
その中で名前だけ聞くと映画や漫画かと思えてしまうような「海賊共和国」(1706~1718年) という国家が、現在のバハマの首都ナッソーで存在した。

「海賊共和国」を語る前に、当時の「海賊」について理解する必要がある。
海賊は、海上を航行する船舶を襲撃して暴行や略奪など航海の安全を脅かす行為をする者のことだ。一方で15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代を経て航路が世界規模になり、国家がカバーしなければならない海域が広大となり、海軍の能力が及ばなくなった。そこで諸国が海軍力を補うために民間船に私掠勅許状を与え、敵国の艦船を拿捕することを許して海賊行為を奨励した。
この私掠勅許状を得た個人の船は「私掠船」(しりゃくせん)と呼ばれる。厳密には私掠船は海賊ではないが、国家公認の海賊と捉えることもできる。
政府としては私掠勅許状を発行するだけなので大きな負担はないが、一方で統制がきかずに、同盟国や母国籍の船まで襲う者や、本物の海賊に転身する者も現れた。

そして「海賊共和国」は「私掠船」の乗組員が設立した国家である。

海賊共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた「スペイン継承戦争」において、1703年と1706年にフランスとスペインの連合艦隊によってイギリス領バハマのナッソーが攻撃され、島は多くの入植者たちによって事実上放棄され、イギリスの統治機構も撤退した。そして、ナッソーは私掠船の乗組員らに引き継がれることとなった。海賊らはフランスとスペインの船舶を襲撃したが、両国の艦隊もまたさらに数回に渡ってナッソーを攻撃した。海賊たちは、ナッソーに自治権を確立し、事実上の自分たちの共和国を設立した。
1713年までにスペイン継承戦争は終わったが、多くのイギリス所属の私掠船の乗員らは、それを知るのが遅かったり、無視して、そのまま海賊行為を続けた。失業した多くの私掠船の乗組員らはナッソーにやってきて共和国に加わり、海賊たちの数が膨大に増えることに繋がった。
1718年に海賊退治の使命を受けたウッズ・ロジャーズが総督としてナッソーに着任してイギリスの支配を回復するまで、西インド諸島における海賊活動の拠点として、貿易と海運に大きな混乱をもたらした。

海賊共和国は当初イギリスの私掠船乗組員だったベンジャミン・ホーニゴールド (Benjamin Hornigold) と、カリブ海で活動していたトマス・バロウ (Thomas Barrow) が自治を行った。その後にジャマイカ総督からの正式な私掠免許を持つヘンリー・ジェニングス (Henry Jennings) が指導者的な役割を担った。
海賊共和国が「共和国」として維持されていたのは、海賊たちが「海賊の掟」と呼ぶ規則によって活動していたことがひとつの要因である。この掟に基づいて、海賊たちは自分たちの船を民主的に動かし、略奪を平等に分け合い、公平な投票によって自分たちの船長を選んでいた。海賊の多くは私掠船の廃業者や反乱を起こした元船員たちであったが、出身や国籍を問わずに平等なメンバーになることができた。

そして既述のとおり1718年にウッズ・ロジャーズが着任したが、その際にロジャーズは海賊を辞めるならば恩赦を与えると彼らに布告した。この申し出を受けたものの中に当初の海賊共和国の指導者だったホーニゴールドがおり、地理を熟知するホーニゴールドは「海賊狩り」としてかつての仲間たちを追跡した。そして10人の海賊が彼に拘束され、そのうち9人が処刑された。これによってイギリスは支配権を再確立し、バハマでの海賊共和国を終わらせた。

さて、海賊共和国が輩出した最高の海賊はエドワード・ティーチ (Edward TeachまたはEdward Thatch)、いわゆる「黒髭」だろう。

黒髭
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%AB%AD

エドワード・ティーチは1716年頃にベンジャミン・ホーニゴールドの手下となって彼の拠点であるナッソーに移住した。ホーニゴールド配下の時代では、後に拿捕したスループ船の船長に任命されて海賊船団の一角を構成するなど、共に多数の略奪行為を重ねる。その後ティーチは海賊団の実権を握り、残った船団を統率するようになる。
1717年11月、ティーチはフランスの商船ラ・コンコルド号を拿捕し、これを「アン女王の復讐号 (Queen Anne's Revenge) 」と名付けて40門の大砲を乗せ、海賊団の旗艦とした。ここからティーチは海賊としての知名度を上げ、その豊かな黒いアゴ髭と恐ろしい外見から「黒髭 (Blackbeard)」と渾名された。ティーチの海賊団はその後も勢力を拡大し、1718年5月にはカロライナ植民地のチャールズタウンの港を封鎖し、人質をとって町に要求を突きつけるなど悪名を轟かせた。しかし、翌6月にノースカロライナ州ボーフォート近くの砂州でアン女王の復讐号と他1隻が座礁・損傷し、放棄しており、海賊団からボネットが離脱するなど、海賊団は大幅に縮小した。
イギリスによる対海賊政策が強化される情勢の中で、ティーチはノースカロライナ植民地の総督チャールズ・イーデンの恩赦を受け、カロライナ植民地のバスの町に移住する。しかし、間もなくティーチはイーデンの黙認下で海賊活動を再開しした。この動きによって、隣地のバージニア植民地総督のアレクサンダー・スポッツウッドに目をつけられ、彼の執拗な捜査の結果、1718年11月22日の激しい戦闘によって黒髭は、何人かの手下たちと共に殺害された。
ティーチは、自分が望む反応を相手から引き出させるためにイメージ作りをするなど、ただ力に頼るだけではない計算高いリーダーだった。現代ではステレオタイプの専制的な海賊のイメージがあるが、実際には船員らの合意を得て命令を下し、また、捕虜を傷つけたり殺したというような記録はない。後世においては黒髭のキャラクターは、ジャンルを問わない多くの創作物において典型的な海賊像としてインスピレーションを与えた。

黒髭は、「腕利きの船乗りであると同時に、非道この上ない悪人で、大胆さにおいても彼の右に出るものはいなかった。彼は想像を絶するような残忍な悪事をためらいもなく行う男であった。海賊一味の親玉になるべくしてなった男と言っていいだろう」 と称されている。
エピソードのひとつに、自室で操舵手ら3人と酒を飲んでいる時に、テーブルの下でこっそり小銃を引き抜き、ロウソクの火を吹き消して仲間に向けて発砲し1人に重傷を負わせたことがある。その時に「時には手下の1人も殺さなければ、お前たちは俺様が誰か忘れてしまうだろうからな」と言い放ったとのことで、自分のイメージを高めることを計算的に行っていたことがうかがい知れる。

以下の肖像はティーチの死後の1736年の「海賊史」にて描かれたものだが、「激しく凶暴な目つきであった」などの特徴を捉えているものであり、またその後の長きにわたって"黒髭"、そして"海賊"に対する多くの人の印象に結びついている。

1718年の黒髭の死は海賊の歴史の転換点になったと言われる。ヨーロッパ諸国は海軍の兵力を強化し圧力をかけ、海賊たちは安全な拠点を失った。その後生き残った海賊はカリブ海から逃げ出し、その多くは西アフリカを目指して守りの手薄な奴隷商人を襲ったという。
17~18世紀にかけての歴史学上で「海賊の黄金時代」と呼ばれる世界において、海賊共和国と黒髭は極めて象徴的な存在だったと言えるだろう。



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