ゆっくり行こう

日々のこと徒然なるままに

父の最期

2023-09-17 07:30:00 | 日記
父の膵臓の腫瘍摘手術前日、

午前中私も同じ病院の産婦人科に

いました。

「心拍が確認できないね。」

「次の診察で心拍確認できなかった

ら流産になります」

その日夕方、父の兄弟2人、

母方の叔母、

兄の奥さんと兄嫁のお母さんが

集まっていた。

兄嫁は兄と夫婦仲も悪く 

来づらかったのでしょう、

母親を連れて来ていました。

兄嫁のお母さんに

「明日は◯子仕事で来られないから

◯ちゃん付き添いお願いね」

みんな擦り合いだ。

寄りにもよってその場所で父は

「妊娠したんだ」

公表してしまう。

ほぼ希望がない中公表されてしまい

なんとも言えない気持ちで

笑えなかった。


手術当日、

1日付き添わなければいけなかった。

複雑だったと言うか帰りたかった…

お腹の赤ちゃんが心配で

横になっていたかったのに

つわりは始まっていて

身体もしんどかった。

お腹の赤ちゃんだけ

考えていたいのに

父のいつ終わるかわからない

手術が終わるまで

居なくてはいけない。

辛かった。

翌週、流産確定となった。



退院の時、迎えに行けないと

震えながら初めて断った。

しばらく会うことは

ありませんでした。


少し経って妊娠が判明。

奇跡が起きたようにしか

思えませんでした。

息子はお腹でこのストレスの中

よく育ってくれたと思います。

元気に産まれてきてくれ

ただただ嬉しい想いでした。


お見舞いに来た父を見て

よくわからないけど涙が出た。

帝王切開でだったので

麻酔が切れ始め痛いと言ったら

「そんなの当たり前だ」

労いの1つもなく

自分が20万もお祝いを

包んだことを自慢気にしていた。

何を期待してたんだろう。


退院してすぐ動かなくては

いけなかった。

義母には3週間ほど

夕飯だけ作ってもらい

あとは夫婦で大変な時期を

乗り切った。


生後1ヶ月の頃、兄から電話があり

「父さんにお祝いもらったお礼

言ってないだろ?」

2回は言った。

まだ言われ足りないらしい。

20万出したことが誇らしすぎて

言われ足りないらしい。

兄にも訳が分からず嗜められ

喧嘩になった。

父に似た兄は私を全否定した。

その後、父とも電話し

「どれだけお礼を言えば

気が済むのよ!いい加減にしてよ」

大喧嘩になった。

もううんざりだ。

あまりに許せない屈辱に

口も身体もガタガタ震え

朝まで眠ることができなかった。

それまでにも勝手に兄が叔父に

携帯の番号を教えてしまい

面倒を見るよう説教されたり

ウンザリだった。

気持ちは決まっていた。


朝を迎えそのまま携帯ショップに

番号変更に向かった。

夫とだけの連絡用にして

幼稚園入園まで持ってないと

貫いた。


亡くなる1ヶ月前から自宅の電話が

よく鳴った。

父からで私はただただ怯えて震えて

過ごした。

それでももうだめだからと

兄から夫へ連絡がきて

家族で緩和ケアに会いに行った。

誰かわからないほど

痩せ細っていた。

事情を知っているのか

看護師さんがこっそり

覗いているのがわかった。

何回か誰も来ないであろう

時間に面会に行った。

最後の面会の時

なんとなく生きている

父に会うのは最期と感じた。

病室に20分ほど2人にしてもらい

過ごした時間はなんとも言えず

ただ息苦しかった。

読めないのに新聞、食べれないのに

食事が置いてあった。

兄の計らいだろう。

駐車場から最上階近くの病室の

明かりが見え

「バイバイ」

部屋に向かってそう言って

泣きながら家に帰った。

翌日夕飯の後片付けをしている頃、

父は亡くなりました。


葬儀は地獄の中にいるようでした。

「だからお前はだめなんだ」

「そうだ、お前はがんばってない」

そう言い続けた父はいなくなった。

深い心の傷と自己肯定感の低さ

だけが残りました。

やっと地に足をつけ 

歩けるようになる時が

来たのでした。

母の時には葬儀は入れきれない程

参列する方が来ていて

人柄が伺えたが

父の時はまばらだった。

徳を積む、積まない...

こういうことなんだろうなと

感じた時間。

だいぶん時間は過ぎたけど

言われた言葉は消えなくて

今も苦しめられています。

がんばってないからだと

無理をする自分がいます。

亡くなったのに

早くいなくなってと

何度も願う自分がいます。



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