葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

リハビリを提供「される」側も、その姿勢を問われる。

2019-05-26 11:05:07 | 仕事
 5月23日にオンエアされた「ためしてガッテン」を、リアルタイムで飛び飛びに見た。
 特に、ラストの方で紹介されていた「最新のリハビリ」には、少々複雑な印象を受けた。

 その最新のリハビリというのを少々乱暴にまとめてみる。
 「脳血管疾患で片麻痺が起こった場合、麻痺側だけでなく、健側も訓練することで、脳の機能が低下した部分により効率的な刺激を与え、回復を促す」といったところか。

 そうだろうな、と思う。
 「へえ」というより「ふうん」という感じだ。
 いや、このことを証明するために、脳の画像をチェックし、医師から理学療法士までチーム全体で情報を共有しようという姿勢は素晴らしいと思う。
 ちょくちょく書いていることだが、この辺はさすが西洋医学である。

 だが、マッサージにせよ鍼灸にせよ、患部だけでなく、色々な方向から刺激を加える方が効果が高いというのはデフォルトである。
 ただそれは「経験的」にであって、客観的に証明されたものではないから、「健側に施術したって意味がないだろう」と多数派から言われたら、返す言葉が無かったのである。
 だから例えば、マッサージで医療保険を使おうと思ったら、麻痺などがある部位の施術しか認めてもらえないのだ。

 …まあそれは、自分達の仕事に何が出来て何が出来ないのかを真摯に考えてこなかったこちら側にも責任がある。

 これからもテクノロジーの進歩にしたがい、精確で緻密な情報を手軽に安価に大勢で共有できる環境が整うほど、より効率的な手法が確立されていくのだろう。

 ならばリハビリを提供する側もされる側も、患者(お客様?)が満足するからとか、「運動した気がするから」「とりあえず気持ちが良いから」とか、そういう理由で旧態依然としたやり方を漫然と続けてはいられなくなる。

 患者がどういう状態にあって、どうなりたいのか。
 リハビリを提供する側だけでなく、される側も、それをしっかり考えなければならないだろう。

 鍼灸やマッサージの手法も、「これは使える」「これは無意味だ」と、エビデンスで振り分けられていくだろうが、少なくとも「患部だけでなく、健側も含めて多方面から刺激を加える方が、より回復が促される」という方向性は簡単にはブレない筈だ。
 この調子なら、あと10年もすれば、より健全で本質的なリハビリがおこなわれるようになって、マッサージ師も今よりはまともな仕事ができるようになるんじゃないかという気がする。
 10年ぐらいなら、私もまだ60代だし、いける。
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だから、按摩・マッサージは効くのです。

2019-04-30 09:10:36 | 仕事
 そもそもこのブログは、私の仕事の広報活動の一環として始めたものだ。
 だから長らくこの記事を、トップページに固定していたのだが、正直いってこのブログは広報の役割を果たしてはいないし、それもどうやら最初からそうだったように思える。

 と、いうことはかなり前から本音では分かっていて、さすがにその状況にも飽きてきた。
 そこで、平成の終わりに託けて、ブログをガラッと模様替えしようと思う。
 とりあえずこの記事には、今日からブログの看板ではなく、普通にひとつの記事になってもらおう。

 さて。

 健康に関する情報や理論は、日々更新されています。
 それらは合理的な疾病予防や健康管理に、とても役立ちます。
 しかしその反面、理論とは一種の「物語」であって、現実そのものではありません。

 ところが、人間の進化した脳は、時としてその「物語」に過剰にのめり込んで不安を増幅し、自分の体をありのままに感じられなくなります。
 そこから派生する、いわゆる原因不明の凝りや痛み、シビレや冷え、憂鬱などの不定愁訴は、ある意味では高度な文明の副産物なのです。
 しかし、そういった不定愁訴を理論的に解決しようとすると、往々にして「別の理論」や「新事実」に翻弄されて、堂々巡りに陥ります。

 だから、按摩やマッサージ(もしくは鍼灸)などの「手当て」なのです。

 人間は、言葉を使うようになるずっと前から、体調が悪ければ自然に「手当て」をしていたと思われます。
 例えば動物が傷口を舐めるように、丁寧に触れたり触れられたりする行為は、それで回復を促すという以前に、まずは体の状態を、ありのままに感じることが狙いだったのではないでしょうか。

 つまり、按摩やマッサージや鍼灸の本質とは、触覚をフルに活用し、言葉で紡がれた理論の世界から、心身を一時的に解放することで、現実のありのままを感じる力を呼び覚ますことなのです。

 それは、科学的な治療ということとは違うかもしれません。
 しかし、心身の「素の状態」を感じることができれば、心はずっと軽くなるし、体調は効率的に回復していきます。
 体はそういう風にできているからです。

 …とはいえ、言葉で構成されている以上、実はこの文章も「不完全な物語」なのです。
 按摩やマッサージや鍼灸の本質に「触れて」みたい方は、ぜひ!国家資格を持つ施術者(←ここ重要です)がいる治療院で、「手当て」を体験してみてください。

 以上、私が考える手技療法の構造についての考察でした。
 ↓他にも色々と掘り下げた記事がありますので、ご興味があればどうぞ。

 目指すは原点回帰。
 ファンタジーは好きです。でも。
 根本原因の究明もいいけれど。
 本当に痩せたい?そもそも太ってますか?
 不安も憂鬱も凝りのうち?
 按摩・マッサージの効能についての考察。

 というわけで、明日はブログの改題をする予定なり。
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伏臥位の施術とサポーター。

2019-04-21 09:43:43 | 仕事
 うつ伏せになった患者の背中や腰を上から按ずるのは、マッサージの施術でお馴染みの風景である。
 だがこの技法、本来は「最後のオマケ」といった意味合いが強いものだと、学生の頃に教わった。

 では主要な技法では患者の姿勢はどうなるのかというと、側臥位、つまり横向きになるのである。
 これが患者にとっても施術者にとっても、無理のない姿勢ということだ。

 うつ伏せだと、患者は胸当てなり顔の部分が開いたベッドがなければリラックスできないし、上下から挟まれる形になるので刺激過剰になりやすいし、施術者も腰に負担がかかりやすい(患者を跨ぐ格好で施術できれば別だが)。

 しかし実際には、患者をうつ伏せにして施術するスタイルが現在の主流といっていいだろう。
 私の職場でもそうだし、それにいちいち異を唱えて異端視されても面倒なので、まあいいかと従っている。

 ところで。
 私は腰用のサポーターとかベルトの類を、「腰痛予防」のために使うことには疑問を持っている。

 ああいったものは、実際に骨折などの怪我をしている者が、やむを得ず可動域を制限するため(これはもうコルセットやギブスというべきか)に使うものだろう。
 そうでない者が使って、わざわざ可動域を小さくしたり、筋力の低下を招いたりするのはどうも納得がいかない。

 まずは腰を痛めないような合理的な動きを追求すること。
 その結果として柔軟性や筋力を維持することが、腰痛を防ぐ王道だと思う。
 私自身はそれでコンディションを維持しているし、今までに二度ぐらいか?歩くだけで脂汗が出るような腰痛を経験したが、サポーターをつけようとは思わなかったし、注意して動いているうちに治ったものだ。

 …が。
 つい先日、100円ショップで腰用のサポーターを見て、うっかり購買意欲をそそられてしまった。
 先述のとおり、うつ伏せの患者に施術するというのは、あまり合理的な動きではない。
 一応、普段からストレッチなどでケアをして腰痛は防いでいるが、実際にサポーターをしたらどんな感じなのだろうかと想像すると、試さずにはいられなくなってしまったのだ。

 もっともこれは、100円ショップの商品(普通なら腰用のサポーターは5000円ぐらいか)だから、というのが大きい。
 我ながら小市民である。

 で、4月15日に実際にサポーターをつけて仕事をしてみた感想は「なるほど」であった。
 可動域が制限されて、筋肉や腹圧が補助されて、腰が何割か楽になるのを実感できる。
 だが同時に、窮屈でもあり、暑苦しくもあるという、まことに想定内の使い心地だった。

 いや、5000円のサポーターであれば、もっとしっかり固定できて、そのうえで動きにも融通がきき、通気性もいいのかもしれない。
 だがその効果は、あくまでも100円ショップのサポーターと同じ範疇にあるということは想像がつく。
 そう感じたことで、私はすっかり満足してしまった。

 というわけで現在、そのサポーターは軽く水洗いをした後で、自宅待機の状態となっている。
 ひょっとしたらカミさんか、チーコさんが使うかもしれない。
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平行棒の次を想像してみる。

2019-04-07 20:18:10 | 仕事
 お年寄りにとって、転倒は恐いものだ。
 だから転ばないように筋力トレーニングをするというのは理にかなっているし、一般に認知されてきたと思う。

 だが転ばないためには筋力だけでなく、バランス感覚も必要だ。
 バランス感覚が良いというのは、単にふらつかない・よろめかないのではなく、たとえ少々ふらつき・よろめいたとしても素早く修整できる能力も含めて考えるべきものだろう。

 そういう意味では、平行棒での歩行訓練というのは、本当に最初の手掛かりでしかないのかもしれない。

 私が仕事をしている某デイサービスでも、機能訓練の一環として平行棒を使っているが、両手でバーを掴んでいると、案外スイスイと「歩けてしまう」のに、平行棒から離れた途端に、自力で立ち上がるのもおぼつかない人が相当数いらっしゃる。
 平行棒で歩けることと、平行棒無しで歩けることの間には、かなりの隔たりがあるのだろう。

 平行棒で歩けるようになったら、次には転倒しても平気な環境もしくは道具で歩行訓練ができたらいいと思うのだが、それは一体どんな環境・道具なのだろうか。

 単純に、床が柔らかい素材で出来ていたらどうか?
 いや、骨が脆くなっている人なら、少々床が柔らかくても骨折するかもしれない。
 骨折の心配が全く無いほど柔らかい床だと、そもそも安定して立てないだろう。

 水中ウォーキングなら?
 いや、歩行というのは重力がかかった状態で行うからこそ意味があるのであって、水中なら素直に泳いだ方が合理的(某ランニング本で水中ウォーキングを否定しているのを読んだことがあるが、私もそう思う)だろう。
 それに、平行棒の次の段階を必要とするお年寄りは、既にかなりの数にのぼっていて、しかもそれほど設備に恵まれてはいない、プールなど望むべくもない施設にも大勢いるのだ。

 歩行訓練というキーワードで画像や動画を検索すると、やはり平行棒はよく出てくる。
 が、その中にチラチラと「免荷装置」「歩行用リスト」「移動式吊り下げ装置」なんてのがあって、動きをアシストするロボットと組み合わせるものまである。
 いくら効果が高くても、あまり値段が高くては普及は難しいだろうが、発想としてはこういう「ぶら下がる」形は平行棒の次の段階の有力候補だと思う。

 例えば、バンザイしてやっと手が届くぐらいの高さにバーをセッティングして、それに命綱を繋いだカラビナを引っ掛ける。
 勿論その命綱は、歩行訓練をするお年寄りにハーネスなどでしっかりと固定するのだ。
 これならふらついても転倒はしないし、平行棒を使っている施設なら設置できるし、価格もかなり抑えられるのではなかろうか。
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ツボがあるとかないとか。

2019-02-24 11:42:07 | 仕事
 2月20日にオンエアされていた「ガッテン」を部分的に観た。
 後からホームページを確認したので、番組の全体像も概ね分かった。

 まあ、ほぼ「テレビ的でステレオタイプな鍼灸のイメージ」で構成されていたが、気になる点が三つほどあった。

 一つは、「鍼灸院の数はコンビニより多い」ということ。
 これは厳密には「鍼灸整骨院」が多い(整骨院は柔道整復師が経営するもので、柔道整復師の資格は鍼灸師とは別)のだと思う。
 そして鍼灸整骨院は、大抵整骨院の方に重心が寄っているものだ。

 整骨院は年々保険の請求が厳しくなる一方だから、その多くは実費での仕事を増やしたいと考えており、その筆頭として鍼灸にスポットが当てられている、という側面が強い。
 これが本当に「鍼灸が効くから」利用されているのならまだ救いがあるが、単に「東洋の神秘っぽくてキャッチーな売れ筋メニュー」として扱われているとしたら悲しい話だ。

 二つ目は、中国の偉い先生(カミさん曰く、この先生は鍼を打つ技術は巧いそうだ)の「体調が悪くなると、その症状(証というべきかもしれない)に対応するツボが現れる」という発言だ。
 いや、多分この先生には悪気の欠片も無いのだと思う。
 が、ツボがあるとかないとかという話は、「氣」があるかないかという話と同じぐらい慎重にしなければならないテーマだ。
 私自身は体調がどうだろうとツボは「使える」と思っている(そうでなければ予防医学として役に立たない)し、そう考えている鍼灸関係者は少なくないはずだ。
 でも、番組を見て「ああ、そうなんだ」と思った人が、改めてツボのあるなしについては雑多な解釈があると知ったら、良くて混乱、悪ければ不信感を抱くだろう。

 三つ目は、番組の締めに「治療を受けているという安心感だけでも意味がある」といった意見が出たことだ。
 いや、それは確かに現実的な意見だと思う。
 でも、「安心感」というのはつまり「プラセボ」なのだ。
 そんなダブルブラインドに耐えられない効果では、少なくとも保険診療の対象にはなれないと思う。

 断っておくが、私は鍼灸は立派な医療だと思っている。
 だが、現時点で通常医療という「ルール」に準じているとはとても思えない。

 鍼灸が本当に医療として市民権を得るのは、まだまだ時期尚早だろう。
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初・ストレスチェック。

2018-10-21 13:23:11 | 仕事
 私が二年ほど前から、午後に施術をしているデイサービスの法人から、ストレスチェックを受けるようにとの通達があった。
 労働環境の改善や整備のために、職員一人一人のデータが欲しいということか。

 記憶にある限りでは、こういったテストを受けたことはない。
 だが大きい組織だと、今ではWEB環境が整っているということもあって、かなり普通に行われているのだろうか。

 チェックを受ける受けないは一応自由なのだが、パソコンで手軽にできるので、折角だから受けることにした。
 結果はまあ、大したストレスは無いそうである。
 が、職場に大きなストレスになり得る因子があるにはあるので注意するように、ということだった。
 まあ如何にも凡人というか小市民的な結果だが、これが集計されて、健全な職場の形成の一助となるのだろうか。

 それにしても、ストレスチェックのサイトへのログインとか、メールアドレスの登録とか、そういう手続きが久し振りだったので思った以上に手間取り、こちらの方が余程ストレスになったような気がする。
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伝統ではない。

2018-05-06 09:39:36 | 仕事
 鍼灸や按摩(マッサージもか)といった東洋の医術は、「伝統医学」として分類されることが多い。
 そういう「伝統」というラベルがプラセボを底上げすることもあるだろう。

 だが私は、自分の仕事を伝統、というか伝統芸能、というか骨董品扱いされるのには少々抵抗がある。
 私にとっては鍼灸もマッサージも、現役の技術だからだ。

 というか、そもそも私は「伝統」というものが苦手な方だ。
 「伝統が好きか、嫌いか?」という二択を迫られたら、ちょっと考えて「嫌いだ」と答えるだろう。

 伝統の本質は好きだ。
 そこには世の中がどう変わろうと、変わらない価値があるからだ。
 ただその価値は、一種のインフラに近く、水や空気みたいなものだから、娯楽性には乏しい。

 また伝統は、伝統としての形を成すために、あまりにも多くの無意味な(場合によっては有害ですらあるような)作法や習慣を必要とする。

 細々と、限られた人数で、本質を大事にしていくために伝統を守るのならいい。
 だが「世に広めるため」と称し、利益を求め、組織の拡大を図ったなら、もうその時点で「伝統の本質」よりも「組織の維持」が優先されてしまう。
 利潤の追求と伝統の本質は、根本的に相容れない。
 利潤を上げるためには、時代に合わせて変化していく必要があるが、伝統の本質はホイホイ変化するようなものではないからだ。

 それを曲げて時代に迎合したり娯楽性を高めたりすれば、無意味な作法や習慣ばかりが肥大し、伝統の本質が歪んでしまう。
 それでもなお、それを伝統だと言い張るなら、差し引きで害の方が大きいだろう。
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消えた勉強会。

2018-02-26 20:32:36 | 仕事
 今日は勤め先の某クリニックで、昼休みに製薬会社主催の勉強会がある予定だった。

 勉強会というのはつまり、製薬会社の営業さんがスライドで資料を展開しつつ、「この薬はこういう点が優れています」という説明をして、その間にクリニック側のスタッフは営業さんが用意したお弁当を食べるという、まあほぼ接待だ。

 私は午前中はクリニックで、午後はデイサービスで仕事をしているので、この手の催しには参加しづらいのだが、月曜日はデイサービスの仕事が無いので、お弁当を…もとい、勉強をするつもり、だった。

 だが午前の診療が終わり、後片付けが済んでも、製薬会社の営業さんがいらっしゃらない。
 そこでクリニックから問い合わせると、何と、勉強会の日取りは2月26日の月曜ではなく、3月26日の月曜だというのだ。

 いや、2月が28日しか無いゆえの行き違いだ。
 製薬会社の営業さんとクリニックのどちらに勘違いがあったのかは、私には知る由も無い。
 だが、恐らく件の営業さんは上司からそれなりの叱責を受けるだろうことを想像して気の毒な気分になりつつ、同時にこの情報化社会でこんなシンプルなミスが起こることに、不思議だがホッとするような気分でもあった。
 クリニックの面々も、「こんなことは初めて」だと言っていた。

 で、この日は勉強会は無しということになり、では帰ろうかと思っていたら、「みんなでお昼を食べに行くけど、一緒に行きますか?」というお誘いをもらった。
 当然?クリニックの経費でということだし、それではご一緒させていただきましょうと返事をした。

 他のスタッフが雑用を片付けること暫し。
 戸締りをしてクリニックを出たら、何と製薬会社の営業さん(女性)がやってきた。
 「手違いがありまして申し訳ありませんでした」という謝罪のために飛んできたようだ。
 いやもうこの対応力もそうだが、このお姉様、製薬会社の営業となると、健康的なイメージのためにスタイルの維持も仕事のうちなのだろうかと思うほどプロポーションの均整がとれている。
 そんなお姉様が股関節を90度屈曲させて院長にお詫びしている場面は、何だかテレビドラマのようだ。
 それこそ少し前のどこぞの缶コーヒーのCMではないが、「俺には営業なんて無理無理」という気持ちになってしまった。

 まあ院長もどちらかというと好々爺なので、特に殺伐とした雰囲気にはならなかった。
 もう空腹なのでグズグズいうより食事に行きたかったというのもあるだろう。
 早々に「また後日連絡を」とか何とか言って切り上げ、クリニックの近くのエスニック料理店に入った。

 今回の勉強会がいつに延期されるかは分からない。
 月曜日でなければ参加できないわけだが、看護師さん曰く「まあ、また糖尿病の薬の話だし」だそうだ。

 「また」というのも何だが、確かに糖尿病と高血圧の薬がテーマになることは多い(というか殆どか)。
 せいぜい私も肥満にならないように気を付けようと、ランチのナンのおかわりを齧りながらしみじみと思った。
 いや、こんな機会でもなければ千円近いランチなんて食べないから、ここぞとばかりにナンのおかわりをしたが、普段は糖質を摂り過ぎないように注意している。
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爪の存在感。

2018-01-29 12:20:32 | 仕事
 去年の暮れぐらいからだと思うのだが、ここしばらく、爪を切っていない。
 ちょっと身体操作の要領を変えたら、指にかかる圧が桁違いに大きくなって、爪が伸びなくなってしまったのだ。

 …というのは半分冗談だ。
 勿論冗談は爪が伸びなくなった、の方だ。

 実は、100円ショップでちょっといい感じの爪用のヤスリを見つけて、以降、爪の処理はヤスリだけにしている。

 今までにも何度か似たような試みをしたことはあった。
 爪切りだと、どうも切り過ぎる傾向があるからだ。
 ただし、この「切り過ぎる」というのは、思うような形に整えられないという意味だ。

 私は子供の頃から深爪にする方で、今の仕事に関わるようになってからはその傾向は更に強固になった。
 だが、ヤスリで爪を削ると、形は整えやすいのだが、指の頭が邪魔であまり短くは出来ない。
 それがどうもしっくりこなくて、結局は爪切りに戻るというパターンだった。

 だが、本当は深爪は良くないことは知っているので、定期的に「爪の長さを見直そう」という気分になる。
 そこへ今回見つけたヤスリが、中々使い心地も爽快なので、この際爪の長さもヤスリで無理なく削れる程度にしておこう、と考えた。
 まあカミさんの感覚だと、まだまだ短めかもしれないが。

 で、それ以降、爪が施術の邪魔になるかというと、そうでもない。
 むしろ良くなったぐらいだ。
 今までは圧を骨だけで支えていたのが、爪のフォローがあるだけでグッと安定性が増すし、徹りも良い。

 また特に冬場は空気が乾燥するので、指先が角質化してガザガサになりがちだったのだが、この冬は爪で保護されているのでかなり滑らかだ。
 その分感度も損なわれずに済む。

 やはり人間の体のパーツは、ひとつひとつが何か意味があって存在しているのだなと再認識した次第だ。

 あ、でも足の爪は爪切りで切ってた。
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仲間なのか。

2017-12-04 12:36:43 | 仕事
 先日、帰宅電車の乗り換えのタイミングが合わず、15分程時間が空いたので、途中下車して近所の書店に立ち寄った。
 月に一度あるか無いかの話だが、たまにこういう形でこの書店に寄ると、ある雑誌を3〜5分位パラパラとめくってから、駆け足で駅へ戻って電車に乗る。

 で、その雑誌とは「マッスル&フィットネス」という、アメリカのフィットネス(というか、ほぼボディービル)誌だ。

 私は自分が動くぶんには断然有酸素運動派だ。 普段のトレーニングで筋トレ的な動きの占める割合は、せいぜい一割位だろうか。
 だが職業柄、効率よく筋肉を増やす方法にはそれなりに興味がある。

 で、そのための知識を得るのなら、なんといってもベースボールマガジン社の「トレーニングマガジン」辺りが便利なのだが、これは日本の雑誌なので、掲載されている筋肉マン達は基本的に日本人だ。

 そこへいくとマッスル&フィットネスは海外誌なので、白人や黒人のボコボコと巨大な筋肉が満載の誌面は良い気分転換になる。
 だが我が家の近くには、この雑誌を置いている書店が無い。
 かといって定期購読するほどでもないので、この日のようにタイミングが合った時にサッと眺めている。

 ちなみに私は、同世代の中国武術フリークなら、その多くが知っているであろう呉伯焔事件の影響で、ベースボールマガジン社のことはどうも色眼鏡で見てしまう。

 さて、この日手に取ったマッスル&フィットネスは、シメオン・パンダというボディービルダー(もしくはフィットネスモデル)の特集を組んでいた。
 数分眺めるだけだから、詳細な情報が得られるわけではない。
 せいぜい彼がイギリスの黒人であることや、SNSによって有名になったことなどで、ネットで検索し直せば、もっと多くの情報を得られるだろう。
 実際、帰宅してから彼のファーストネームが思い出せず、「ボディービルダー パンダ」で検索し、シメオンという名前を確認したぐらいだ。

 そこで私の目を引いたのは、シメオン・パンダ氏の言葉とされる、この一節だ。
 「私は、私のサイトを訪れる人達のことを、ファンだとは思ってない。同じ情熱を持つ仲間だと思っている」
 …だそうである。
 細かい言い回しには記憶違いがあるかもしれないが、まあ大体こういうニュアンスだったはずだ。

 この言葉をもって、シメオン氏の人となりを語るつもりはない。
 そもそも自己啓発的要素の強いこの商業誌で、氏の言葉が精確に記載されている保証もない。

 だがそれでもなお、この言葉は私の目を引いた。
 何故なら仲間という言葉を、「ファンではない」と、明確に定義するのがちょっと(意外なくらい)新鮮だったからだ。
 いやだって、「ファンも仲間の内」といえば良さそうなものだ。
 その方がファンの機嫌も取れる…もとい、喜んでいただける。

 実際のところ、ファンとファンに支持される者(お得意様と店もしくはその従業員という表現の方がしっくりと来るかもしれない)との間には、明確な上下関係(どちらが上でどちらが下かは流動的だが)がある。

 だがシメオン氏の言葉は、サイトを訪れる人達を「ファンではない」と明言することで、「お互いにフェアな関係にある」ことこそが仲間の条件だとしている。

 ちなみに私は「仲間」という言葉が苦手だ。
 漫画でいえばワンピースのような人間関係はちょっと重い。
 むしろ承久國俊のような「俺は仲間なんぞいらん」というスタンスに共感する。

 私は元々著しく協調性に欠けることもあってか、どうにも「仲間」という人間関係が、助け合いの振りをした馴れ合いに見えることが多いのだ。

 だが多くの人は友達なり仲間なりを求める。
 そして仲間と何かに熱中している人達は、確かに楽しそうだ。
 私自身、気の合うメンバーと作業をする高揚感に覚えが無くはない。
 ひょっとしたら人間には、何かを為し遂げることよりも、何かを仲間とやっているという過程の方が重要なのかとも思えてくる。

 シメオン氏の言葉は、「同じ情熱を持つ」ことで馴れ合いを回避しているようだが、こういう「本当の仲間は馴れ合わない」的な表現は、それほど目新しくはないか。

 ところで、日本の(いや、日本だけではないか?)治療家はどうだろう?

 大手でも個人でも、経営のために「ファンを増やそう」という姿勢で患者と向き合っていないか?
 そこに媚びは無いか?

 患者のためを思うなら、完治を最優先にするべきなのに、最初からリピーターを増やすつもりで、治すことは後回しにしていないか?

 そのために耳触りの良い嘘をついていないか?
 患者を憐れむあまり(それが本気にせよ芝居にせよ)、寄り添うと称して迷える子羊を導く教祖様になって(成りすまして)はいないか?

 いや、本当はどんな仕事でも、「お客様のために」という大義名分の下に、欲望を無制限に肥大させるような行為は慎むべきなのだろう。
 何事にも節度というものがある。

 まあ「シメオン氏ぐらい成功していれば、節度だって持てる」と、ついつい思ってしまうのが人間か。
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