葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

改めて、効率よく体重を使うための新アイテム。

2024-11-10 11:23:54 | 仕事

 按摩やマッサージで圧を加える時は、体重を巧く利用すること。
 力任せでは圧の方向がブレやすいし、すぐに疲れてしまう。
 …と、いうのは学生の頃からの注意事項だ。

 だが、患者のリラックスを損なわないように体重をかけるのは意外と難しい。
 ベッドの仕様や患者と自分の体格差によっては、踏み台を使用したりしなかったりするのだが、これが結構面倒だし。
 それでも仕事に慣れてくると、踏み台を使わない対応が可能になってくる。
 すると踏み台のセッティングや乗り降りが無駄な動きに思えてしまう。
 なのでもう何年も、踏み台無しで施術をしていたのだ。

 ところがどうも「踏み台無しでの対応」は、「徐々に体に負担を蓄積させるのではないか」「それが背中や腰の痛みの原因のひとつではないか」という疑念がわいてきた。

 で、先月末に半ば直観的に購入して、現在職場で使用しているのが
 
 ↑この踏み台である。

 以前の踏み台は高さも面積もやや控えめだったので、その有効性を実感し辛かったのかもしれないという反省も踏まえて、今回は思い切って大きめの踏み台を選んだ。
 結果として、圧の安定性は向上し、体力の消耗は減少して、ちょっと初心にかえった気分である。
 背中や腰も楽になりつつあるし。
 幾つになってもこういうことはあるものだ。

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敏感か過敏か。

2023-11-19 13:28:31 | 仕事

 九月下旬か、十月に入った頃からか。
 例えばヨーグルトのパックの縁などに指の腹が少し強めに擦れると、「あれ、切れたか?」と感じることがちょくちょくあって、まあ実際には切れていないのだが、ボチボチ老眼も進んでいるので、老眼鏡をかけて傷の有無を確認するまではちょっとドキドキだったりする。
 本当に切り傷になっていたら、多少は仕事に影響するし。

 これはある意味、感覚がレベルアップしたのか?
 違うような気がする。
 触れたものが、危険かそうでないかを正確に判別し、怪我をしない程度の力で触れること。
 鋭い感覚とは、そういうものだと思う。

 ただこの「切れたような」感覚は、順調に?減りつつあるようだ。
 疲れていたとか、ちょっと動きが雑になっていたとか、そういうことなのだろうか。

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そもそも足りてない。

2023-10-15 15:33:20 | 仕事

 カミさんの知り合いが今年の四月から奈良市でクリニックを開業して、現在私はそこで施術をしている。
 もう開院してから半年ちょっとだが、色々と試行錯誤の毎日で、まあそれはずっと続くのだろう。

 で、時々院長から「何か足りないものは?」とか「必要なものは?」と訊かれるのだが、手技療法という特殊性に加え、私自身が有りものや間に合わせで仕事をするタイプなので、不足して困るようなモノは「ありません」と答えている。

 とはいえ、常に「足りないモノは無い」というのでは、問題意識が欠如しているような気もするので、何か「これがあった方が便利」と返答できないものかと考えたりもする。
 考えはするのだが、少なくとも「モノ」に関しては、やはり足りているようだ。

 ただ、モノ以外であれば話は別である。
 筋力、柔軟性、バランス感覚etcといった「フィジカル」が、私の理想に届いていないのだ。

 それは別に「若い頃はあったが減ってしまった」のではなく、「そもそも若い頃から足りてない」のである。
 按摩・マッサージ・指圧に於いては、メンタルやテクニックよりも、まずはフィジカルありきで、それは適切な運動と食事と睡眠で、かなりの高齢まで維持も向上もできる、というのが私の仮説だ。
 まあサンプルが私一人では、証明しようもないか。

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初見のステージはHPが消耗しやすい。

2023-05-28 10:18:25 | 仕事

 以前の記事で書いた通り、四月から午前中の職場が変わった。
 まあ業務内容はほぼ同じなのだが、前の職場では施術は予約制だったのが、新しい職場では患者さんが予約なしでいらっしゃるので、これが思った以上にリズムが作り辛いなと戸惑っているところである。

 患者さんが一度に固まっていらっしゃると、どうしても待っていただくことになるので、「申し訳ないなあ」と思ったり。
 だからなるべく手順よく進めていこうと、あれこれ段取りを考えたり。

 …といった思考が、施術中に頭の中の大半を占めてしまうことがそこそこあるのは、良い事ではない。
 施術中は、あくまでも目の前の患者さんに集中するべきなのである。

 とはいえ、流石に約二か月も経つと慣れてくる。
 施術に焦点を合わせ、余計な体力の消耗を減らせるようにもなってきた。

 いや、二か月もかかるのは、寧ろ遅いのか?
 さてこんな時、若者なら「経験不足」だし、年寄りなら「新しい変化についていけない」となるのだろうが、私はどっちなのだろうか。

 いやいや。
 不慣れなことに対応するのは、誰であっても難しいのだ。
 ただ自分が「若い」とか「年だから」と、理由をつければ納得しやすい、ような「気がする」だけなのではなかろうか。

 新しい環境に戸惑うのは、若さよりも、衰えよりも、ただ単に自分の凡庸さが、その理由の大半なのだと思う。

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深爪と芋の泥。

2022-10-30 09:20:18 | 仕事

 マッサージの仕事で、凝り固まった部位に強い圧を加え続けることで、拇指を痛めてしまう人は多いようだ。

 私は幸運なことに?その手のトラブルは殆ど無い。
 ただ、冬場に拇指の先端の皮膚が角質化してガサガサのバキバキになったことはよくある。
 空気が乾燥したら、まあ仕方がないのかなと思っていたのだが、近年は冬場でも指先の皮膚はそれほど固まらなくなった。

 指先が角質化したのは、乾燥もあるが、どうやら爪の切り過ぎがその要因らしい。
 私は元々深爪気味だったのだが、マッサージの仕事をするようになってからはその傾向が強まって、それが皮膚に過剰な負担をかけていたようだ。

 だが業務上の工夫を色々としている内に、爪は所謂「普通の長さ」にした方が、圧も感覚も、皮膚のコンディションも安定するのだと気が付いた。
 なので50歳を過ぎてからは、「ああ、そういえば以前は寒くなると指先が割れていたなあ」などとシミジミしたりしている。

 で、今年もそろそろ冷えてきたのだが、実は今、指先は少しガサガサである。
 もうちょっとこまめにワセリンなどを塗らないとなあ、とも思うが、これもまた原因は乾燥というよりは、芋の泥である。

 毎年、カミさんの実家からドンと送られてくる薩摩芋が、今年もやってきた。
 流通に乗るようなものではないので、形はそれなりに歪だし、泥もかなりついている。
 その泥を落とすのに、水洗いしをながら拇指の先端でゴシゴシ擦っていたら、皮膚がガサガサしてきたのだ。
 これはマズイなあと思い、アルミ箔をクシャクシャにしたものを使ったりしてみたのだが、どうも具合がよろしくない。
 やはり拇指で強擦っぽくした方が、気持ちよく泥が剥がれるのである。

 まあ仕事に差し障る程ではないし、風物詩みたいなものだと思っておこう。

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信心より、期待感より、平常心。

2021-06-20 09:24:00 | 仕事

 16日にオンエアされた「ガッテン!」を観た。
 この回のテーマは「おまじない」だったので、多分プラセボ関連だろうなと予測していたらビンゴであった。

 プラセボは、基本的には「偽薬を本物だと信じて服用することで得られる効果」である。
 だが、今回は「本物だと信じる」だけでなく、「偽物だと知りつつ期待する」ことでも効果が得られるというエピソードがあった。
 例えばパッケージから薬を取り出して飲む、といった一連の行為に意味があるようだが、こうなるとプラセボというよりも、ルーティーンといった方が近いのではなかろうか。

 というか、それこそ「おまじない」の本質はプラセボよりもルーティーンではないかと思う。
 懐かしの?五郎丸さんの印のような。
 で、今までにも似たような記事を書いているが、鍼灸やマッサージの本質は、プラセボを最大限に引き出すルーティーンではないか、というのが私の仮説である。

 それにしても、鍼灸やマッサージの研究機関では、まだまだ「この経穴を刺激したら、この効果」的な実験が中心なのだろうか。
 もっとプラセボやルーティーンという方向性の実験を、率先してデザインして欲しいと思う。

 ただ、自分で「鍼灸の本質は、プラセボを最大限に引き出すルーティーン」と書いておいて申し訳ないのだが、「プラセボ」「最大限」ということに囚われると、多分上手くいかないだろうな、とも思う。

 このやり方なら「上がる」けどこれは「下がる」というのは、ちょっと違うのだ。
 そういえば鍼灸の補瀉の概念。
 足りなければ補い、余計なものは瀉する、というのも、実は一種の方便ではなかろうか。
 補も瀉も、施術した結果としてそういう現象が起こるけれども、施術自体の目的ではないような気がするのだ。

 何というか、「出っ張りは引っ込めて、窪みは埋める」という感覚は、病気や怪我に対して具体的に行動する、という意味の情報として共有しやすいから、便利だし普及もしやすいのは分かる。
 でもそれよりも、「歪な球体を、ただ転がして滑らかな球体に近づけていく」感覚の方が、鍼灸やマッサージの本質に近いような気がするのだ。

 いや、これも「凸凹を平らにならす」ということに囚われると本質からずれていきそうだ。
 大事なのは形よりも、動きだからだ。
 …などといったことを下手に追求すると観念的になり過ぎるし、考えなさ過ぎると形骸化してしまう。
 その辺のバランスを保つためにも、まずは「ただ、凝りをほぐす」という原点を心がけて施術したい。

 目指すは「信心よりも、期待感よりも、平常心」である。

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安心の甘い誘惑。

2021-05-16 09:50:30 | 仕事

 5月12日にEテレの「きょうの健康」でオンエアされていた鍼灸の特集を録画して翌日に観た。
 で、鍼灸の効果を客観的に証明することは難しいな、と再認識させられた。

 いや、その証明をするために研究者が苦心されているのは分かる。
 だが色々な実験をしても、それが「この効果は鍼灸でなければ出せない」という結果に結びつくのかどうか。

 例えば「鍼灸とカウンセリングを比較」するよりも、「会話しながら施術した場合」と「会話せずに施術した場合」を比較する方が、より鍼灸の効果を明確にできるのではなかろうか。
 まあ実践的には「治療効果を上げるために丁寧な説明やリラックスのための会話をするのは当然であり、それはもはや施術の一部だ」と考える人もおられるだろうが、私はそれはひょっとしたら言葉の力を過大評価しているのではないかと思っている。

 「何だかよく分からないが、とにかく親切に施術してくれたから安心」できて、それで体調が回復するなら、それはとりあえず良い事ではあるけれど、それなりに危うさを含んでもいる。

 ちなみに、COVIDー19に関して「(お上からの)安心できる言葉が欲しい」というフレーズをよく耳にするのだが、この「安心」もやはり「危うい」と思う。
 「鰯の頭も信心から」ではないが、「安心」に根拠は必要ないからだ。

 「いや求めているのは、ちゃんと根拠のある安全を前提とした安心だ」といわれるかもしれないが、中々どうして人の心は弱いもので、「安心」という言葉を選択すること自体が、「とにかく縋りつけるものが欲しい」という本音の象徴だったいする。
 そういう状態だと「心地よい言葉」には引っ掛かりやすいし、「厳しい現実」は受け入れ難い。
 だから「安心」はそれなりに危ういと思うのだ。

 となると、心への治療は「安心を与える」よりも、「平常心取り戻して」もらうことの方が「安全」かと。

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助言が失敗体験に繋がらないようにしたい。

2020-10-25 11:38:24 | 仕事

 例えば、膝痛で困っている患者に対して。
 マッサージやストレッチで緊張を緩和すれば、一時的に楽にはなるが、これが根本的な解決になることは少ない。
 膝痛の原因は、加齢もだが、体重の増加と運動不足が大きいので、これらを改善する必要があるのだ。

 だが、減量のための食事や運動についての助言は、正直言って難しい。
 その一番の原因は、節度ある食事や適度な運動の必要性を、患者自身が「分かった」つもりになっていることだと思う。

 加えて、この情報化社会である。
 痩せるための食事や運動の情報なんて、幾らでも手に入るのだ。
 そういう情報を仕入れることに熱心な人は、幾つもの方法や、その問題点(例えば糖質制限ならエネルギー不足、筋トレなら過負荷による障害など)まで知ってはいるが、一番効率のいい方法に固執するあまり、何も始められずにいる。
 逆に情報を仕入れることに疎い人は、やはり何から始めればいいのか分からずにいる。

 さあ、そういった「始められない」落とし穴にハマった人に、あれこれ助言をしたとしても、まあ大抵は実行しないし、そもそも覚えないものだ。
 いや、やらないのも覚えないのも、助言の内容が悪いからかもしれないし、それで興味を持てなければやる気も起きないだろう。
 それでも「やらない」だけなら、それは只の「ゼロ」である。
 だがそれが、助言を受けたのに「出来なかった」という失敗体験になったら、これはマイナスである。
 それは細やかなマイナスだが、積もれば確実に患者を健康的な習慣から遠ざけてしまう。

 そういうリスクを避けるために、とにかく第一の原因を加齢として、「仕方ない」「ある程度の痛みは受け入れて」「現状維持で付き合っていく」という方向性の言葉を並べるのも一手段ではある。
 実際、これがどうやら「諦め」よりも「安心」に繋がるケースは少なくないようだし。

 しかし私はどうも「仕方ないから受け入れる」パターンは苦手で、そういう言葉がスラスラと出てこないのだ。
 だからいっそ、余計な助言はせずに、マッサージに専念することの方が多い。
 いや、それは言葉を使用していないだけで、触覚によるノンバーバルコミュニケーションで、心身との向き合い方を助言しているのである。

 いやいや、助言というよりは、交渉とかお願いとかお祈りとか、雑多な意味を持つともいえるし、言葉に出来るような意味は無いともいえる。
 本質的にマッサージとはそういうものだ。

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それは五感なのか。

2020-05-17 15:40:54 | 仕事

 Eテレで5月13日にオンエアされていた、「又吉直樹のヘウレーカ!」を録画して視た。
 この回のテーマは「皮膚はすべて知っている?」で、皮膚には想像以上の「五感」が備わっているらしいということを、色々な実験を踏まえて紹介していた。

 鍼灸師やマッサージ師なら何となく「あ~、そうかもなあ」と、腑に落ちるような話である。

 そういえば本などを読む時に、文字を指でなぞるようにすると読みやすいと感じるのは、視線が安定するとか集中しやすいとかそういうことだと思っていたが、ひょっとしたら指先の皮膚も目と一緒に「見て」いるのかと想像すると中々ファンタジーである。

 ただ職業柄、掌で人を「診て」いる立場からすると、番組でやっていた「色を識別する」とか「耳には聞き取れない周波数の音を感じる」とか、「味覚や嗅覚も…」といった皮膚の能力を、五感という言葉で括るのはちょっと違うような気がする。

 例えば、視覚と聴覚は其々、光もしくは空気の波動を解析する能力であり、味覚と嗅覚は、対象の分子構造を分析する能力である。
 それらは極論するなら、どれも「形を識別する」能力であり、皮膚の持つ「触覚」とは、むしろそれらの能力の原点なのではなかろうか。

 つまり順序としては、まず「触覚」ありきで、そこから光や音や匂いや味などに特化した能力に枝分かれしていったということで、「皮膚に五感がある」というより、目・耳・鼻・舌には「触覚から派生・特化した感覚がある」という方がスッキリするのではなかろうか。

 まあ文明の発達した現代社会では、どうしても視聴覚偏重になるのだろうが、マッサージ師としてはついつい皮膚感覚を贔屓してしまう。
 例えるなら、「触る」というより「観る」という方が近いような感覚で仕事をするぐらいには贔屓しているのだ。

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正に張子の虎。

2019-11-17 09:45:09 | 仕事

 血液クレンジング療法が何だか色々言われている。
 似たような話はこれまでにもたくさんあったし、これからもあるだろう。

 それこそ鍼灸やマッサージに関わる者は常に自戒しなければならない。
 陰陽も五行も氣も、いわゆる疑似科学やニセ医療と常に隣り合わせだからだ。

 もっとも、そもそも陰陽や五行や氣の理論は、言葉通りに受け取ってはいけないものなのだ。

 ちょっと分野がずれるが、例えば気功や武術などの技法名には
 黒虎偸心(黒々とした虎が心臓を掴む)
 青龍擺尾(青い龍が尻尾を振り回す)
 燕子抄水(ツバメが水面スレスレに低空飛行をする)
 等々の、動物の動きを取り入れたものが多くある。
 これは、あくまでも「そういうイメージで動くと上手く動ける」という意味であって、本当に虎や龍や燕になれると思っているわけではない。

 こういうイメージの利用は、スポーツでもよくあるだろう。
 例えばキャッチボールをする時は、「相手のグローブを突き抜けるつもりで投げる」などだ。
 これは、そういうイメージで投げると制球が良くなるという意味であって、本当にグローブを突き抜けると思っているわけではない。

 つまり、陰陽や五行や氣(や経絡や経穴や…)で構成された理論とは、あくまでも「患者の自己治癒力を最大限に引き出すためのイメージの集大成」なのだ。
 「いや、それはちょっと違う」という方もいらっしゃるだろうが、この辺のことを言語化しようと思ったら、存外これが限界なのではなかろうか。

 で、こういうことを術者と患者が、お互いにしっかり理解した上で施術が行われてこそ、健全な鍼灸やマッサージなのだと思う。
 そしてそれは、単なるプラセボより高い効果が見込めるはすだ。
 何故って?
 プラセボとは、あくまでも薬や治療に「依存した心」の力だ。
 適切なイメージで弾みをつけた「自分を信じる心」の力が、「依存心」に劣るとは考えづらいではないか。

 ところが。
 世の中には「虎や龍や燕になんてなれない」と分かっていながら、患者には「なれますよ」という人が洋の東西を問わず存在する。

 そんな治療でも、それこそたまたまプラセボで効果があったように見えることもあるだろう。
 だがそれは多くの場合、患者の正常な判断力を損ない、正当な治療を受ける機会を失わせ、徒に症状を長引かせたり、医療費を増大させたり、労働力を減退させることに繋がる。

 こういったことを法的に規制するのは難しい。
 法治社会とは「法律に触れなければ何をやってもいい」ものだと解釈する人は多いし、言語化されたルールには大抵抜け穴があるからだ。

 だが、そんな大人げない仕事を続けていれば、いずれ李徴とは違うベクトルの虎になってしまいそうだ。

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