改元は本当に便利な機会のような気がしてきた。というわけで?昨日の予告どおりに改題します。
新題は「葉織る。」
まあ大体、題の下の概要の通りなのだが、改題の告知記事だし、もうちょっと細かく書いてみよう。
このブログは、元々私の仕事の広報活動の一環として始めたものだが、どうも始めからその役割を果たしていなかったようだ。
仕事の広報というなら、「こんな病気や怪我に対して、こんなに効く治療ができます」とか、実際に治った患者さんの言葉とか、そういう記事を中心にするのが手っ取り早いのだろう。
だが、一度そういう路線に乗ってしまうと、いずれは嘘を散りばめたブログになってしまう。
テレビの健康バラエティがいい見本である。
大勢の優秀なスタッフ(いや、皮肉ではなく)が知恵を絞ったテレビ番組でさえ、そういう危険と隣り合わせなのだ。
だから私は、自身が日常で感じたことを中心に書き、その言葉を通じて私という人物を理解してもらい、ひいては按摩や鍼灸に興味を持ってもらおう、これなら嘘をつくリスクを最小限にできる、と考えたのだ。
だがこの手法は、やはり?著しく訴求力に欠けていたらしい。だから広報ブログとしては失敗だったと思う。
だが、このブログもそれなりに役には立っている。
日常の出来事を通して感じたことを、「公開することが前提の文章」にするには、自分自身が何を考え、どんな自分になりたいかを明確にする必要がある。それはあくまでも、「公にできる範囲内の自分」なわけだが、社会生活を無難に送ろうと思ったら、そういう技術は高いにこしたことはない。
このブログは、そのための訓練として格好の場だ。
ただ、公開して「人に見られること」から、だんだん「人気を得ること」に比重が傾いてくると、そのための嘘が増えてしまう。
私はそれが嫌なのだ。
もっとも、全く嘘をつかないというのも不可能だと思っている。
言葉はどこまでいっても道具だ。それも、人によって使い方が千差万別な道具だ。
だからどんなに工夫しても、言葉はそれを発した者の意図した通りには伝わらず、そこに嘘が生じてしまう。
いや、嘘というより、そもそも言葉で表現したものは虚像に過ぎないのではないか。
とはいえ、これは決してネガティブなハナシではない。
言葉の中に埋もれているのは、他人だけではない。自分自身もまた、自分を表現するために言葉を多用するが、その言葉に潜む自分も、やはり高い確率で虚像である。
それをハッキリと自覚した時、所謂「本当の自分探し」という詮無い呪縛(そもそも「本当の自分」なんて言い回しが既にズレている)から解放されるのだ。
それでも言葉を重ねて何かを伝えたいと思うのは、人の性なのだろう。
という具合に、これからも日常で感じたことを書いていこうと思う。
新題は「葉織る。」
まあ大体、題の下の概要の通りなのだが、改題の告知記事だし、もうちょっと細かく書いてみよう。
このブログは、元々私の仕事の広報活動の一環として始めたものだが、どうも始めからその役割を果たしていなかったようだ。
仕事の広報というなら、「こんな病気や怪我に対して、こんなに効く治療ができます」とか、実際に治った患者さんの言葉とか、そういう記事を中心にするのが手っ取り早いのだろう。
だが、一度そういう路線に乗ってしまうと、いずれは嘘を散りばめたブログになってしまう。
テレビの健康バラエティがいい見本である。
大勢の優秀なスタッフ(いや、皮肉ではなく)が知恵を絞ったテレビ番組でさえ、そういう危険と隣り合わせなのだ。
だから私は、自身が日常で感じたことを中心に書き、その言葉を通じて私という人物を理解してもらい、ひいては按摩や鍼灸に興味を持ってもらおう、これなら嘘をつくリスクを最小限にできる、と考えたのだ。
だがこの手法は、やはり?著しく訴求力に欠けていたらしい。だから広報ブログとしては失敗だったと思う。
だが、このブログもそれなりに役には立っている。
日常の出来事を通して感じたことを、「公開することが前提の文章」にするには、自分自身が何を考え、どんな自分になりたいかを明確にする必要がある。それはあくまでも、「公にできる範囲内の自分」なわけだが、社会生活を無難に送ろうと思ったら、そういう技術は高いにこしたことはない。
このブログは、そのための訓練として格好の場だ。
ただ、公開して「人に見られること」から、だんだん「人気を得ること」に比重が傾いてくると、そのための嘘が増えてしまう。
私はそれが嫌なのだ。
もっとも、全く嘘をつかないというのも不可能だと思っている。
言葉はどこまでいっても道具だ。それも、人によって使い方が千差万別な道具だ。
だからどんなに工夫しても、言葉はそれを発した者の意図した通りには伝わらず、そこに嘘が生じてしまう。
いや、嘘というより、そもそも言葉で表現したものは虚像に過ぎないのではないか。
とはいえ、これは決してネガティブなハナシではない。
言葉の中に埋もれているのは、他人だけではない。自分自身もまた、自分を表現するために言葉を多用するが、その言葉に潜む自分も、やはり高い確率で虚像である。
それをハッキリと自覚した時、所謂「本当の自分探し」という詮無い呪縛(そもそも「本当の自分」なんて言い回しが既にズレている)から解放されるのだ。
それでも言葉を重ねて何かを伝えたいと思うのは、人の性なのだろう。
という具合に、これからも日常で感じたことを書いていこうと思う。