春愁のグレープフルーツジュースかな ブーゲン
温泉に行ったら、
グレープフルーツジュースがほろ苦くておいしかった、と言う意味。
俳句も、従来の季語では通用せず、
新しい素材では、なお通用しなくなった今日この頃。
春愁の気分を出したかったのですが、おいしかった!では意味不明。
でも、他のジュースでは、春のほろ苦さは出せない、とおもいますた〜
カテゴリは「こころの相談室」
写真は使い回しの桜の花びらです。
今年は桜の写真を撮る気が、いまいちしません。天の邪鬼です・・・
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追記 4月3日
グレープフルーツジュースの季語は、夏でした。
従って、春と夏の季語が重なっています。失敗でした。
そこで、検索してみました。
グレープフルーツジュースで検索すると、
『グレープフルーツ・ジュース』、オノ・ヨーコ、南風椎訳、講談社文庫、
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/05/blog-post_80.html
南風椎さんという人は、
ブログをやっていた人で、このブログのブックマークに載せていましたが、
鎌倉で、ガンでなくなりましたね。延命治療は受けなかったと思います。
そのブログは、遺言どおり亡くなると同時に消えてしまいました。
偶然にも、あのセンスのいいブログや写真を思い出しました。
こういう事は、俳句にはできないけれど、エッセイならほどよくまとめるのでしょうか。
春愁の中なる思ひ出し笑ひ 能村登四郎
http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19970321,19990224,20030223,20040322,20050319,20060327,20070317,20070912,20080322,20101124,20110419,20120407,20140306,20140423&tit=%8Ft%8FD&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%8Ft%8FD%82%CC
春愁とは風流味もある季語だが、なかなかに厄介な感覚にも通じている。その厄介さかげんを詩的に一言で表せば、こういうことになるのだろうか。手元の角川版歳時記によれば、春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。国語辞典でも同じような定義づけがなされているけれど、いったい「春愁」の正体は何なのだろうか。精神病理学(は知らねども)か何かの学問のジャンルでは、きちんと説明がついているのだろうか。とにかく、ふっと「そこはかとない哀愁」にとらわれるのだから、始末が悪い。そういう状態に陥ったとき、最近はトシのコウで(笑)多少は自分の精神状態に客観的になれるので、自己診断を試みるが、結局はわからない。作者のように「ものうさ」のなかで思い出し笑いをするなどは、もとより曰く不可解なのであり、それをそのまま句にしてしまったところに、逆説的にではなく、むしろ作者のすこやかな精神性を感じ取っておくべきなのだろう。少なくとも「春愁」に甘えていない句であるから……。『有為の山』所収。(清水哲男)
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以上転載
俳句も、東京中心の季節感なのか、
沖縄では「春愁」そのものがないような気がしますが、どうなのでしょうか。
うりずん、という季節は、ヤンバルのもっとも輝かしい命の季節だと思います。