
「市民の意見30の会・東京」の井上澄夫さんから、このブログに本日、寄稿して頂きました。
降る雪をながめながら……
井上澄夫
久々の雪である。霏霏(ひひ)と降る雪をながめていると、雪国の友人たちの顔が
浮かび、厳粛な気分になってくる。しんみりしてくる。
ただ左半身不随の私にとって雪は困難をもたらす。40代末期にわずらった脳梗塞
の後遺症で左の手足がマヒしているから、降雪中はまだいくらか歩けるが、降った雪
が凍結していわゆるアイスバーンになると、もういけない。まったく歩けなくなる。
肢体不自由の障害者にとって無数の段差がある街は、危険に満ち満ちている。ガー
ドレールの内側の狭い歩道に自転車が乗り入れてくると、逃げ場がない。自転車から
いったん降りて自転車を押しながらすれちがうようにしてもらうなら、なんとか切り
抜けられるが、そのまま突っ込んでくることがある。先日の夜、無灯火で走ってきた
中学生くらいの男子と体が触れ、あやうく転ぶところだった。街にあれこれ障害があ
るのではなく、街そのものが障害なのだと思わざるをえない。
今でこそ、駅のエレベーターやエスカレーターなど、いくらかバリアフリーの工夫
がなされるようになってきたが、それも障害者団体の活動によるところが大きく、日
本の街はもともと高齢者や障害者がともに暮らすことへの配慮を欠いてきた。道路な
どインフラストラクチャーの整備に初めからバリアフリーが取り入れられていれば、
もっとましな社会になっていたと思うが、障害者が声をあげてから初めて少しはバリ
アフリー化が進むようになったのが現状だ。バリアフリー化について、行政は今もな
にか「よけいなこと」をせざるをえないと受け止めているように感じる。
だが病気知らずの健常者であっても、加齢による身体の衰えは避けられない。元気
な人でも風邪で熱が出れば、普段は走り上がる駅の階段を登ることさえしんどくな
る。それに病気や不慮の事故でいつ障害とつきあうようになるか、誰にもわからない
のだ。車椅子や乳母車用の駅のスロープを歩く人が少なくないのは、そうする方が体
が楽だからである。
ある熟年の知人が病気で急に肢体不自由の障害とつきあうようになって、電車で席
を譲られたときのうれしさを率直に語っていた。うんと若い世代に声をかけられ座席
に落ち着くことができたというのだが、あれやこれやに一家言ある彼が「日本もまだ
捨てたものではない」と強調していた。その気持はよくわかる。
先日、駅の男性用トイレに入ったら、掃除中の高齢の女性に声をかけられた。「わ
ざわざ階段をのぼらなくても、隣に多目的トイレがあるんだよ。階段がないからその
まま入れるよ」。4,5段の階段をのぼって男性用トイレに着いたのだから、用事は
そこで済ませたが、トイレを出るとき、その人に会釈した。彼女は「今度は多目的ト
イレを使いなよ」と明るく応えた。こういう親切は心にしみる。
街そのものが障害である障害者にとって、バリアフリーの工夫が完備されることは
不可欠のことだ。その基礎になるのは、健常者であっても誰もが潜在的障害者であ
り、高齢者や障害者が暮らしやすい街はすべての人にとって暮らしやすいという思想
ではあるまいか。
雪がまだ道路わきに残っていると危険で私は歩けない。手押し車にすがって歩く高
齢者も買い物に行くのをためらうだろう。
福祉予算は毎年、2200億円ずつ削減されているという(2月4日付『朝日新聞』)。
降る雪をながめながら……
井上澄夫
久々の雪である。霏霏(ひひ)と降る雪をながめていると、雪国の友人たちの顔が
浮かび、厳粛な気分になってくる。しんみりしてくる。
ただ左半身不随の私にとって雪は困難をもたらす。40代末期にわずらった脳梗塞
の後遺症で左の手足がマヒしているから、降雪中はまだいくらか歩けるが、降った雪
が凍結していわゆるアイスバーンになると、もういけない。まったく歩けなくなる。
肢体不自由の障害者にとって無数の段差がある街は、危険に満ち満ちている。ガー
ドレールの内側の狭い歩道に自転車が乗り入れてくると、逃げ場がない。自転車から
いったん降りて自転車を押しながらすれちがうようにしてもらうなら、なんとか切り
抜けられるが、そのまま突っ込んでくることがある。先日の夜、無灯火で走ってきた
中学生くらいの男子と体が触れ、あやうく転ぶところだった。街にあれこれ障害があ
るのではなく、街そのものが障害なのだと思わざるをえない。
今でこそ、駅のエレベーターやエスカレーターなど、いくらかバリアフリーの工夫
がなされるようになってきたが、それも障害者団体の活動によるところが大きく、日
本の街はもともと高齢者や障害者がともに暮らすことへの配慮を欠いてきた。道路な
どインフラストラクチャーの整備に初めからバリアフリーが取り入れられていれば、
もっとましな社会になっていたと思うが、障害者が声をあげてから初めて少しはバリ
アフリー化が進むようになったのが現状だ。バリアフリー化について、行政は今もな
にか「よけいなこと」をせざるをえないと受け止めているように感じる。
だが病気知らずの健常者であっても、加齢による身体の衰えは避けられない。元気
な人でも風邪で熱が出れば、普段は走り上がる駅の階段を登ることさえしんどくな
る。それに病気や不慮の事故でいつ障害とつきあうようになるか、誰にもわからない
のだ。車椅子や乳母車用の駅のスロープを歩く人が少なくないのは、そうする方が体
が楽だからである。
ある熟年の知人が病気で急に肢体不自由の障害とつきあうようになって、電車で席
を譲られたときのうれしさを率直に語っていた。うんと若い世代に声をかけられ座席
に落ち着くことができたというのだが、あれやこれやに一家言ある彼が「日本もまだ
捨てたものではない」と強調していた。その気持はよくわかる。
先日、駅の男性用トイレに入ったら、掃除中の高齢の女性に声をかけられた。「わ
ざわざ階段をのぼらなくても、隣に多目的トイレがあるんだよ。階段がないからその
まま入れるよ」。4,5段の階段をのぼって男性用トイレに着いたのだから、用事は
そこで済ませたが、トイレを出るとき、その人に会釈した。彼女は「今度は多目的ト
イレを使いなよ」と明るく応えた。こういう親切は心にしみる。
街そのものが障害である障害者にとって、バリアフリーの工夫が完備されることは
不可欠のことだ。その基礎になるのは、健常者であっても誰もが潜在的障害者であ
り、高齢者や障害者が暮らしやすい街はすべての人にとって暮らしやすいという思想
ではあるまいか。
雪がまだ道路わきに残っていると危険で私は歩けない。手押し車にすがって歩く高
齢者も買い物に行くのをためらうだろう。
福祉予算は毎年、2200億円ずつ削減されているという(2月4日付『朝日新聞』)。
貴方が駄文つづるより、知り合いの人々に寄稿してもらったほうがいいんじゃないですか?
誰かしらが言い尽くした、ありふれたご意見ですね。期待して読んでみましたが、ちょっとがっかりです。
>日本の街はもともと高齢者や障害者がともに暮らすことへの配慮を欠いてきた。
どこの国でも当たり前の話ですがな。お隣の国は・・・。
>雪がまだ道路わきに残っていると危険で私は歩けない。手押し車にすがって歩く高
齢者も買い物に行くのをためらうだろう。
健常者でもためらいます。
また、削除されてしまうのだろうか・・・。
補足ですが社会保障予算と福祉予算は別です。社会保障関連予算の中に福祉予算や医療予算があると言った感じです。
社会保障予算はこれからも膨らみ続け国家予算を圧迫しかねない事態となっている現状を考えるといかに予算の膨張を抑えつつも質を維持向上させてゆく努力が必要となるでしょうね。(誰かしらが言い尽くした、ありふれた意見ですが。)
誤解を招きかねないので、掲載して下さいな。