阿波国勝瑞城 [ショウズイジョウ] | ||
別称 | 阿波屋形・下屋形・勝瑞屋形・勝瑞城館 | |
城郭構造 | 平城 | |
築城年 | 室町時代 | |
廃城年 | 1582年 | |
指定史跡 | 国指定 | |
住所 | 板野郡藍住町勝瑞字東勝地29-2 [MAP] | |
スタンプ設置場所 | 勝瑞現場事務所内史跡勝瑞城館跡展示室・武田石油 | |
御城印販売場所 |
概要
勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々機内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、機内で活躍した細川・三好両氏は、機内から多くの物資や文化をもたらせ、機内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が立ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
現地は16世紀末に築かれた詰の城で、館跡とともに平成13年1月29日に国史跡に指定された。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。
※現地説明板より
見性寺 勝瑞城跡
見性寺境内 勝瑞義家碑
四国正学といわれた徳島藩儒官那波魯堂(1727~89)の撰、戦国大名三好家の盛襄と戦没者の慰霊文を記した歴史的な記録で、すぐれた筆蹟は注目されている。
※現地看板より
水堀
城址碑
室町時代、勝瑞には阿波守護細川氏によって守護所が置かれていました。当時、このあたりは阿波の政治・経済・文化の中心地だったのです。
勝瑞城館は細川氏あるいは三好氏が本拠とした阿波の支配拠点で、勝瑞城跡に残る濠や土塁などからは当時が偲ばれます。また、この地域の地下には当時の遺跡が非常に良い状態で眠っており、発掘調査では屋敷地を囲む濠や庭園、建物跡などが見つかり、素焼きの土器皿や備前焼、瀬戸美濃焼、中国製の磁器などたくさんの生活道具も出土しました。
※現地看板より
勝瑞館跡
スタンプ設置場所
続日本100名城のスタンプと御城印を扱っている武田石油(ガソリンスタンド)。
(営業時間: 平日7:00〜20:00 日曜8:00~19:00第2・第4日曜定休)
勝瑞現場事務所内 史跡勝瑞城館跡展示室
開館 9:00~17:00(12月29日~1月3日は休館)
2019/5 訪問