城犬のおいど

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常陸国 土浦城

2024-09-02 13:59:31 | 城館
常陸国 土浦城 <ツチウラジョウ>
別称亀城
城郭種別城郭
縄張り輪郭式平城
築城者若泉三郎
築城年永享年間
廃城年1873
主な城主松平氏・西尾氏・朽木氏・土屋氏
指定史跡県指定
住所茨城県土浦市中央
[Google] [地理院地図]
城址碑あり
現地案内板あり
スタンプ土浦城東櫓 09:00-16:30(月曜休み)
現存建造物太鼓櫓門、霞門
復元建造物東櫓・西櫓

概要
土浦城は別名「亀城」とも呼ばれています。
室町時代頃に築かれ、戦国時代には小田氏と佐竹氏の戦いの舞台となりました。
江戸時代前期の(藤井)松平氏・西尾氏・朽木氏の時におおむね整備され、17世紀終わり頃(大河内)松平氏の時に近世軍学による大規模な改修が行われました。
なお土浦藩は江戸時代中期以降に城主となった土屋家の時に藩領9万5千石となり、常陸国内では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇りました。
明治時代以降、本丸跡には新治郡役所等が置かれましたが後に移転し、昭和9年(1934)に本丸及び二ノ丸の大半を整備した「亀城公園」が完成しました。
昭和27年(1952)には「土浦城跡及び櫓門」として茨城県指定史跡第1号となりました。
櫓門は明暦2年(1656)に改築されたと伝えられ、本丸に建つ江戸時代の櫓門としては関東地方で現存する唯一のものです。
階上に太鼓を置き、時刻を知らせたことから「太鼓櫓」ともいわれます。
公園内にはこのほか霞門(現存)、旧前川口門(1980年現在地へ移設)、西櫓(1991年復元)、東櫓(1998年復元)、本丸の土塀(2005年復元)などがあります。
※現地看板より

攻城記録
博物館第2駐車場(公園利用者駐車場)
博物館第1駐車場は博物館利用者、第2駐車場は公園利用者に開放されています。

櫓門の礎石
ここにある2個の石は、土浦城本丸入口にある櫓門の礎石です。昭和62年(1987)の櫓門解体修理の際、発掘調査によって現在の礎石の下から発見されました。
おそらくは、明暦2年(1656)と考えられる櫓門建築の時に使われた最初の礎石と思われます。石材は、すべて輝石安山岩(伊豆石)です。
大きい方の長方形の石は、扉の両側に使われました。どの石にも柱を差し込む「枘穴」があいています。
※現地看板より

土浦領境界石
この境界石は、江戸時代に水戸街道に面して、土浦領と他領との境界に建てられていたものです。
「従是北土浦領」は現在の土浦市中村に、「従是南土浦領」は中貫にあり、それぞれ塚が築かれ、その上に設置されていました。
土浦藩主の土屋篤直(1732~1776)が描いた「土浦道中絵図」の中にも、この境界石が描かれています。
※現地看板より

土浦市立博物館




内堀

西櫓
本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立され、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩青政治における土浦の中心、象徴として存在していた。
土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキティ台風により、小破し、昭和25年に復元を前提として解体された。
その後復元を見ず今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎなかったものを、市民の浄財をもとに復元したものである。
※現地看板より

土屋神社


本丸
本丸館と呼ばれる書院造りの建物は畳部分だけでも合計400畳ありました。
中央には会議や政務をとり行う広間が、西側には数寄屋造りの御居間や御寝間などがありました。



櫓門(太鼓櫓)

本丸土塀

土浦城本丸の土塁上には、鉄砲狭間のついた塀がまわっていたことが江戸時代の絵図に描かれています。
当時の記録には、塀の高さなどに加え、大筒狭間や石落しなどが塀に附属したことも記されています。
また、近年の本丸土塁の発掘調査によって塀の基礎地業でもある砂利敷遺構が発見され、塀に葺かれていた瓦の形状なども判明しました。
また、櫓門の両袖の柱にはかつて塀が取り付いていた痕跡が残り、その構造や塀の厚さなども判明しました。
こうした調査の成果により、土壁下地に漆喰仕上げの土塀を復元しました。
江戸時代の記録のとおり、塀の高さは東櫓脇の一部が七尺半、その他は七尺としました。
塀に附属する防御装置として東櫓の脇には石落し、櫓門の脇には大筒狭間を設けました。
※現地説明板より

本丸跡石柱


東櫓

スタンプ設置場所
続日本100名城のスタンプは、博物館ではなく本丸東櫓にあります。

櫓門の太鼓








霞門




霞橋


聖徳太子堂


土塀石落し
土塀に石落しが設置されている。

二の丸跡

旧前川口門
この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。
高麗門は城郭の門として建てられた形式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町家の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。
江戸時代末期の建築である。
明治18年(1885)に土浦戸長役場(のち町役場)の門として、さらに大正9年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、
土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(1981)移築されたものである。
※現地看板より





櫓門

土浦城南門跡




2024/8最終訪問

周辺地図

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