城犬のおいど

城巡りと、各地で出会った食事を個人的な感想を添えてお城巡りを紹介しています。

武蔵国 澁谷城

2024-09-12 15:02:19 | 城館
武蔵国 澁谷城 <シブヤジョウ>
別称金王丸城
城郭種別城郭
縄張り平山城
築城者澁谷重家
築城年平安時代
廃城年1524
主な城主澁谷氏
指定史跡なし/不明
住所東京都渋谷区渋谷
[Google] [地理院地図]
城址碑なし
現地案内板あり
スタンプ
現存建造物なし
復元建造物なし

概要
この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、
さらに数か所に湧水があるという好条件を備えていました。
しかし、澁谷城は1524年に北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦い(現品川区高輪付近)のときに、澁谷氏が交戦中だった北条氏の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。

金王八幡宮




御嶽神社

御嶽神社は、開運・商売繁昌の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は武州御嶽神社です。
御祭神の日本武尊は、古来より武道の守護神として崇められ、この地が、武門の誉れ高き澁谷氏の居城であったことから、ここに祀られたと考えられています。
また、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった香雪神社より大東亜戦争後移設したものです。
※現地看板より

芭蕉の句碑

金王桜
長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は5~7枚ですが、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混って咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。
この桜については、さまざまな伝承がありますが「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、
鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。
※現地看板より

玉造稲荷神社

社殿
社記によると、この八幡は澁谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれます。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
門は、明和6年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
このあたり一帯の高台には、澁谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。
しかし、その城館は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
平成22年には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。
※現地看板より

渋谷城 砦の石
この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館の跡で、
東に鎌倉街道(現 八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、
さらに数箇所に湧水があるという好条件を備えていました。
しかし、その館いわゆる澁谷城は大永4年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦(現 品川区高輪付近)のとき、澁谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。
※現地看板より



2019/2最終訪問

周辺地図

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