新しく自分の汚いところに気づいて、
続けていろいろ考えていました。
そして気づいたのは、
『見られたい』『認められたい』
という欲求は、わたしのかなり深いところに
根付いているということです。
たとえばわたしの好きなもの。
ミク歌にするのに、童謡や節などを集めていますが、
それは集めたくて、というよりも
半ば義務のような感じでした。
もしかすると、見向きもされないものの中に
自分を感じて、それを掬い取ろうと
しているのかもしれません。
また、たとえばわたしは基本的に
本番に強いタイプと言われます。
実際ピアノの発表会などでは、
それまでのどんな練習でもできなかったくらいの
音色を出せたりします。
いい状態に入っているときは、体のすみずみまで
神経が行き届いているような感覚があり、
指も思い通りに動くのです。
そのエネルギーの元は、いま思えば
『見られている』ということだったと思います。
普段注目されることなんてないので、
たくさんの人がわたしだけに注目する、
という状況が力になるのでしょう。
他にも、買い物に行くときもそうです。
服なんかを買おうとして、サイズがないと……
わたしは真っ先に諦めます。
友達もそういう状況だと諦めますが、
わたしが店員を呼びます。
自分のときはだめでも、他人のためなら
がんばれます。
あれも、自分の行動にはだれも見る人がいないので
がんばれなくても、友達のために動くなら
友達は見てくれるからがんばれるのかもしれません。
他人の注目が光だとするなら、
わたしは光動力で動くおもちゃみたいなものです。
だから光が当たっているときは動けても
光が当たらなくなると動けなくなります。
なんにせよ、結局わたしは自分自身を賭けて、
認められようとしているだけのようです。
だから求人に応募して落とされると
自分の存在ごと否定されたような気持ちになり、
動画サイトで再生が伸びないのは
見られもせず認められもしないことと同義になり、
自分の存在の危機に感じてしまうのでしょう。
そんなわたしが、人生で学ばなくてはいけないのは
なんなのでしょう。
それでも未練たらしく持ち続ける
『希望』を捨てること?
それとも『あきらめ』を捨てて、
執念のような『希望』を持つこと?
どっちを見ても、とても難しいことです。
なぜわたしの人生は、賽の河原みたいなのでしょう。
わたしは必死に石を積むのに、
夕方には必ず鬼が壊しに来るのです。
それがわかりきっているので石を積むのなんて
止めたいと思うのに、どうしても積んでしまいます。
他の人はさっさと塔を完成させて救済されたり
くもの糸どころか太い綱で逃げ出していったり、
それどころか最初からそんなところに
落ちてこなかったりしているのに。
なのに、ただ運がいいだけ、恵まれてるだけで
周りの人間はわたしに『がんばれ』だの
『努力しろ』だのと簡単に言ってきます。
わたしはすくなくともあんな連中よりも
いいだけ努力してるのに。
そもそもわたしの積み上げた石を崩してきたのは
自分達のくせに。
わたしはだれにも、努力してないなんて
言われたくありません。
健常な人には簡単に歩きぬける道だって
障害がある人がそこを抜けるには
何倍もの時間がかかるのです。
それを、健常な人とおなじことができないから
努力してないなんて……
その傲慢な考えを持つ脳みそをえぐってやりたい。
両手両足をもぎとって坂道に転がして、
さっさと昇れと、同じように言い放ってやりたい。
……ほんとにこの世はこの世なのでしょうか?
もしかしたら地獄の入り口ではないのでしょうか。
わたしは世界が憎い。幸せな人間が憎い。