わたしは好きなものよりも
嫌いなもののほうが断然多いです。
考えることも、好きなことよりも
嫌いなもののことのほうがよっぽど多いです。
たぶん、世界の日のあたる場所を見て、
日のあたる場所にいられなかったからでしょう。
影に追いやられて影をほじくって暮らすような
生活だったので自然とそうなりました。
そんな人生日陰者のわたしですが、
飲み会やオフ会など、人のあつまりがすごく嫌です。
もちろん、お酒を飲まされるのが嫌だし、
タバコの煙を吸わされるのが嫌だし、
食べるものもなく温かくておいしい飲み物もない場所で
手持ち無沙汰でいるのが嫌だし、
それにお金を払わされるのがなにより嫌だと
思っていたのですが、
どうやらそれだけでもないみたいです。
……というのが、今日わかりました。
動画サイトで友達のおすすめを見たり、
終わったあとに出てくるリンクを辿ったりしていると、
気になる一文をたびたび目にするのです。
『友達に絵を描いてもらいました』
『友達に曲をつけてもらいました』うんぬん。
それを見ると とても嫌な感じになって
ブラウザを閉じていました。
なんでそうなんだろうと考えて、
感情を分析してみました。
この嫌な気持ちは、言葉にすると?
――みじめさ、でした。
考えてみれば、わたしには絵を描いてくれる
友達もいなければ、
曲をつけてくれる友達もいません。
たいていやってくるのはやっかいごとで、
利用されては捨てられる役回り。
わたしになにかをしてくれたのも
してくれるのも、今の親友くらいです。
絵を描いてくれる人も教えてくれる人もいなかったので
自分で適当にかじるしかなかったわたし。
文章を教えてくれる人も見てくれる人もいなかったので
ただ書きちらすしかなかったわたし。
一方、だれかと一緒になって切磋琢磨なりしている他人。
陰と日当です。
うちはそもそも分家だし、その上わたしは今の家ですら
跡取りにはなれません。一族からも家族からも
基本的に大切にされたことなどありません。
世を恨み人を嫉み、自分を恨みして生きてきました。
そんなわたしが嫌なのは、きっと、
『楽しそうにしている他人』だと思うのです。
飲み会が嫌なことの根本的な原因も、たぶんそれ。
他人同士は楽しそうに話しています。
でも、それは他人のもの。
会話も雰囲気もわたしのものにはなりません。
ネットでもグループがあれば、
メンバーは楽しそうに話します。
それは光のようなまぶしさです。
その光を受けると、わたしは……
影なので、はじかれてしまうのです。
そして光を恨めしく思いながら、
届いたら自分が消えてしまう光に手を伸ばすのです。
それを思うと、どうして人間が出てなにかするタイプの
テレビ番組が嫌なのかもわかりました。
トーク番組はもちろん、インタビューも
レポーターによるレポートもわたしは大嫌いです。
原因はきっと、その人が『楽しそうにしているから』、
ただそれだけなのでしょう。
もしかしたら、わたしが欲してやまない『名誉』も、
名誉そのものが欲しいのではなくて、
名誉に付随してくる光が欲しいだけなのかもしれません。
それは、もっと考えるなら……
だれかに認めて欲しい、見てもらいたい、と
同じものなのかもしれません。
もし、そうなら。
その気持ちは、注目されたくて殺人を犯すような
気違いの気持ちの根っこと通じるものがある気がします。
考えればわたしがブログをこう続けているのも、
たとえばネットゲームで知り合った人が
ふと思い出したとき、わたしを辿れるようにとか、
いったん離れてしまえば死んだと同じである
ネット上で、わたしの存在、生きていることを
示し続けるというものでした。
それはつまり、一言でいえば『見て欲しい』に
集約されてしまうものです。
でも殺人犯との大きな違いは、
わたしはそれを諦めている、というところでしょう。
もしかすると、恋愛に対してもそうかもしれません。
他の人は恋愛対象の人に、
自分を見てもらいたい、認めてもらいたいと
思うのかもしれません。
でもわたしは、最初から自分が
見られもしないし、認められもしないと
心の底から前提として諦めきっています。
どこか外国の砂漠の真ん中でひからびかけているときに、
どこか別の国の、別の国でしか使えない株券が欲しいかと
訊かれるような気持ちです。
正直そんなのどうでもいいし関係ない、
それがたいていのものにわたしが持つ感情です。
異性にしろ友達になるかもしれない人にしろ、
わたしにとってはどうしても『関係ない』で終わり。
どうしてもわたしにとって関係性がある、
関係性があるようになる、とは思えません。
もしかしたら、わたしの文章に
根本的に欠けているというものも、
わたしに欠けているなにかというのも、
それなのかもしれません。
それか、もしかしたら欠けているのではなくて、
持ちすぎているのかもしれません。
『あきらめ』のようなものを。
周りの人は、昔から欲しいものがあったら
なんとかして手に入れようとしていました。
たとえば、買いたいものがあるので
バイトする、などです。
わたしは欲しいものがその場で手が届くものでなければ
まず諦めます。そんなものどうせ手に入りません。
すてきな人に出会って、いい人だと思ったら……
とりあえず、あきらめます。
どうせいい人なんて『高校時代の友人と』
つきあってる、結婚してる、そんなのばっかりです。
共学じゃない時点で失敗ムードです。
なぜ他の人は、何かを手に入れようと
本気で考えられるのかわかりません。
わたしは常に、絶対だめだと思いながら
事に当たっています。
と考えて、心理学で学んだことを思い出しました。
動機や行動を強化するには、間欠強化が効果的だと。
つまり、失敗もあり、その間に成功もあるような状況が、
次の行動、次になにかをしようとする気持ちを
強めるのです。
きっと、何かを求められる人は、
そうやってたびたび成功をつかんできたのでしょう。
一方わたしは成功もなく、
レバーを押したら絶対電流が流れてきたので、
レバーを押すことをやめました。
わたしは……スキナー箱に入れられたねずみのようです。
なんて矮小で醜い生き物でしょうか。
何ももたないわたしはゲーテのようには言えません。
わたしがのぞむのは……
「光を。ただ、わずかばかりの光を」
最近まだTS続けてる?^^
TS放置して久しいけど、実はココは比較的見てたりしますよ
ふと思い出すってよりは頻繁に^^
読んでて色々思うこともあるんだけど、コメントに言葉で書いてみると
なんか違うなぁって気がしてたまにしか書き込みしてなかったけどれど。
今回は『ちゃんと見てる人いるぞぉ』てことでカキコしてみました♪
イベントのときはいまのところ
かならず入ってます。
すっかり変わった様を見るにつけ、
あのころのトリスタが懐かしく
思い出されます。