竹取物語には、いまだ訳されていない箇所がいくつかあります。
そのせいで全体の解釈がゆがみ、物語の主題がわからなかったり、
御伽噺だと思われたり、皮肉っぽくからかっただけだと思われたり
しています。
が、それら、現在ある主題の解釈はすべて誤りです。
それは、不明箇所をきちんと解釈し、
解読することによって明らかになります。
竹取物語の解読を進め、古文書と向き合っているうちに、
解読のエラーが起こっているのは、
何も竹取物語だけではないとわかりました。
どうも今、それにかつて、古い文書を解読している、
あるいはしてきた人は、文章解読の重要なことを知らないようなのです。
それを知っていれば、きちんと読めるようになる文も
かなりあるはずですけど。
たとえば、わたしの専門は和文ですが、
和文ではないいわゆる魏志倭人伝の解読を見ても、
あきらかな誤訳や誤解釈は見つけられます。
でも、調べた限りでは、そこに言及している人はいません。
そういう解釈の誤りが重なって、いわゆる邪馬台国の場所も
むちゃくちゃな考えを導いているのだと思います。
また、わたしは神社の伝承や縁起などを調べていますが、
その中にもいくつも間違いがありました。
これを訂正しつつ、まとめられる情報をつないでいくと、
いろんな神様の実績や性格などがわかっていきます。
それにより、いわゆる邪馬台国の神や、いわゆる卑弥呼が
名前を変えても現在まで、祭られているということがわかりました。
現在、一般的にはいわゆる卑弥呼は神とされていないと
言われているのにもかかわらず、です。
これは、古文や古文書に関わる人間が、
解読・解釈の大事なものを知らない、あるいは見落としていることによります。
きちんと読めれば、神さまや神社の位置などから、
いわゆる邪馬台国がどこにあったのかも知ることができます。
また、現在ではとても有名で大きな力を持つ神宮、
いわゆる伊勢神宮も、ほんとうは祭っているものが違う、
ということもわかります。
実際に何を祭っているのかは、神社研究によりわかりました。
それから、古事記や日本書紀。
古事記と日本書紀というとてもよく似た二つがあるのは
どうしてだかわかるでしょうか?
違いは何でしょうか?
どっちがどの立場で書かれたか、わかるでしょうか?
これらも、古文を正しく読めば、理解することができます。
わからないのは、古文書に関わる人間が、
大事なことを知らない、あるいは見落としたまま
読んでいるからです。
加えて、正しく読めば、日本の歴史書のはじまりが
西暦何年ごろか、本来の地はどこか、というのもわかります。
今、日本では変に古く解釈されていますが、
思われているよりもずっと新しいです。
また、きっちり読めば、天孫降臨の地が現在ではどこか、
西暦ではいつごろか、というのもわかります。
古文や古文書解読には、気にされていないひとつの大きなルールと、
いくつかの小さなルールがあったのです。
それを念頭において解釈するだけで、古文のゆがみを見つけられ、
正すことができます。
……と言ったところで、わたしには何の実績もないため、
それを信じてくれる人もいないでしょう。
でも、竹取物語の話ならばわかりやすいですし、
証拠も見つけやすく、どちらが誤りなのかが
多少古文が読める人ならわかるはず。
そう思って、発表できる方法を探してがんばってきましたが、
まったくどうすることもできませんでした。
論文は、既存研究の瑕疵をあげて、修正を述べるだけで
規定の文字数を超える場所が多いです。
ひたすら内容を削って規定文字数におさめて送ってみても
コメントなしリフューズだけで、もはやどうにもできません。
漫画なら読まれるのではないか、と恩師に言われたので
できる限りやってみたものの、ほとんど読まれませんでした。
これ以上やっても時間の無駄だし、
すごく時間がかかるので、死ぬ前に竹取物語の解説すら
終わらないかもしれません。
わたしは正しい努力、というもののやりかた知りません。
ショートショート最多でギネスブックに載ろうと
8年間書き続けたものの、没で終わったくらい、
間違った努力しかできないのです。
そして、間違った努力では結果には結びつきません。
わたしが古文書の研究で今のところ内容ができているのは以下。
●竹取物語
・かまど の本来の意味
・十六そをかみにくとをあけて の本来の意味
・わがなははうかんるり の本来の意味
・さ○きのみやつこ の本来の意味
・つくのあな の本来の意味
・竹取物語の主題
●魏志倭人伝
・誤解読部分 本来の意味
●古事記・日本書紀
・解読間違い部分 本来の意味
・天孫降臨の場所
・天孫降臨の年代
・どの立場の人間が書いたのか
●古い神道
・名を変えた神 卑弥呼の現代の名称
・邪馬台国の神
・邪馬台国の位置
・伊勢神宮の嘘と本来祭っている神
これらのうちでどれかでも、他人に成果を奪われて
参照文献で上げられる程度に終わらず、
わたしが自分の意見で、初出の考えだとして発表して
まともに内容を考えてもらえる場に出せる方法は
なにかないものでしょうか。
ご存知のかたはぜひ教えてください。
教えてほしいとされる趣旨と外れますし、少し辛辣に聞こえてしまうかも知れませんが、他人の気持ちを慮かるのが苦手と常々仰られてるので、余計な事かなとも思いましたが、コメントさせていただきますm(__)m
『どうも今、それにかつて、古い文書を解読している、あるいはしてきた人は、文章解読の重要なことを知らないようなのです。それを知っていれば、きちんと読めるようになる文もかなりあるはずですけど。』
『これは、古文や古文書に関わる人間が、解読・解釈の大事なものを知らない、あるいは見落としていることによります。』
『わからないのは、古文書に関わる人間が、大事なことを知らない、あるいは見落としたまま読んでいるからです。』
などの部分について、これをこのまま論文に書いてあるわけではないとは思いますが、似たようなニュアンスの事を書いているのではないでしょうか?
私は、論文の採用過程には詳しくないので間違っているかもしれませんが、おそらく同分野の研究者やそれに類する方々が査定を行われてるのではないかと推察します。という事は上記の文章はその方々を真っ向から否定し馬鹿にしているのと変わらないような気がします。
もし、あまねさんが採用担当者だとしたら、自分や恩師や先人達を馬鹿にしている論文を採用しようと思われますか?私だったら、どんなに内容が目を引くものだったとしても、意地でも通さないと思います。逆に、内容が良ければ良いほど自分のものにしようとさえするかも知れません。それこそ『他人に成果を奪われて参照文献で上げられる程度に終わ』らせられる恐れがあるのではないでしょうか?
なので、先人達の瑕疵をあげつらうのではなく、自分の解釈だけを淡々と纏められたほうが、論文が採用される可能性は上がるのではないかと愚考します。
私は、あまねさんの研究が以前から気になっていて、是非その内容が知りたいなと思っていますので、そのような論文の考察と関係ないところではねられているのだとしたら残念でならないので、思わずコメントさせていただきました。
長々と勝手な私見を述べてしまい、誠に申し訳ありませんでした。もし、これをお読みになってあまねさんが気分を害さるような事がありましたら、心よりお詫び申し上げます。
古文書に関わる今の人間が大事なことを知らないようだ、というのは
最近わかったことなので、昔書いた論文などでは言っていません。
でも、わたしの研究は基本的に、特に竹取物語は、
既存の研究は全部的外れで間違っている というところから出ているので
それを論理的に指摘しなければ何も進みません。
ちょっと違っている程度なら、わたしが述べるまでも無く、
研究すらしていなかったことだろうと思います。
たとえば、中学校で教えるレベルの、竹取物語の『かまど』。
偉い人でも『煮炊きをするかまど』か『金属加工をする炉』かの
どちらかで訳すのが常識になっていますが、
どちらの解釈にも重大な欠点があります。
これらの二つは完全に別物なのですから、
すくなくとも片方は完全に誤った解釈のはずです。
でも、それがまじめに語られることもなければ、
検討されることもありません。
なぜかといえば、おそらく、
『なぜ、それをそう訳すか』の基礎がないからです。
今現在、どちらの解釈にも、『これが絶対に正しい』
と言えるだけの根拠がないため、
片方の解釈を押しのけられないのです。
でもわたしは、間違ってるほうはどこが間違っているのかを
完全に論理的に説明できますし、
正しい解釈はどうして正しいのか、なにを根拠に正しいのかを
論理的に説明できます。
古典文学以外も、とにかく古文や古文書には
基礎研究が足りてない印象です。
基礎研究が足りた解釈とはどういうものか、
文章を正しく解釈するとはどういうことかを見せてみたいし、
それによってまったく意味も姿も変わる竹取物語も
正直広く知らせたかったです。
なお、竹取物語に関しては、わたしが出せるようなところには
出してコメントなしリフューズをもらってしまったので、
書き直しもできないし、もう送れもしません。