直列☆ちょこれいつ

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ペルソナシリーズに見る『ペルソナ』という存在

2009年03月08日 | ゲーム系


ペルソナ4をやったりアニメを見たりしているうちに、
ペルソナシリーズで言う、『ペルソナ』というものが
わからなくなっていました。

心理学に言うペルソナとは、
ペルソナ←ペルソナリティ←パーソナリティ
というように見ればわかりやすいでしょうか。
つまり、パーソナリティ、個人性の一部とでも
いうべきものです。

友達といるときの『自分』、
仕事場にいるときの『自分』、
ゲームをやっているときの『自分』、
それはどれも自分だけれど、
それぞれ違う自分、自分の一部です。
それを、『仮面』と表現したりします。
漫画の『ガラスの仮面』も、
主役の子が、演じる役のペルソナを仮面として
付け替えるというところのイメージから
来ているものだと思います。

だれしもペルソナは複数もっているものですし、
場合によってつけかえている、というのがわかるでしょう。

でも、ペルソナ4では
ペルソナのつけかえができるのは主役のみで、
仲間たちはひとつのペルソナしかもっていません。
しかもどちらかといえば仲間たちのほうが普通で、
つけかえのできる主役はむしろ特殊なのだそうです。

そして、ペルソナ トリニティソウルでは、
・ペルソナが発現できるのはある程度の年齢まで
・ペルソナを奪われた人間は魂抜きの状態になる
と示されます。

純粋に心理学的な意味でのペルソナであれば、
それを奪われることはありませんし、
たとえ奪われたとしても魂まで壊れることはありません。
ペルソナが増えていくのはむしろ大人になってからで、
大人になるとペルソナが使えなくなる、というのは
どう考えてもおかしいです。

というところで、ペルソナシリーズで言うペルソナとは
一体なんなのか、考えるでもなく考えていたのですが、
今日ふとひらめきました。

上に述べてきた概念を矛盾なく統括するもの、
それは……『確固たる自我(エゴ)』です。
ただし、心理学に言う『エゴ』とは
『自分の魂の発露』といったものであり、
俗に言うエゴイストなどの『わがまま』などの
否定的なイメージはまったくないので注意してください。

ペルソナシリーズの『ペルソナ』=『エゴ』だとして
それぞれを見て行きましょう。

※ここから、ペルソナシリーズで言うペルソナと
心理学的に言うペルソナと、単語が混同しますので、
ペルソナシリーズの『ペルソナ』のことを
説明文では適当に『エゴソナ』と呼び変えます。



・ペルソナを奪われた人間は魂抜きの状態になる
→『自我』を奪われた人間は魂抜きの状態になる

……自我を奪われたので自我崩壊をおこす、
これはそのままでしょう。

・ペルソナの付け替えができないのは普通
→自我は一つだけであり変更できないのは普通

『自分であるところの自分』はおなじもの。
これもあたりまえです。
たとえば、『嫌な人とでも笑って話せるペルソナ』を
持っている人は、実際にそうできるでしょう。
でも、『嫌な人を嫌だと思う自分』は同じです。
嫌な人を嫌だと思う根拠は、たとえば
『人を傷つける人間は嫌だ』と思う、
自分の根源があるからです。
ですが……

・ペルソナの付け替えをできる人間は特殊
→自我の変更ができる人間は特殊

これにおいて、主役は、自我の変更ができてしまいます。
これはどういうことかと言うと、
『他人を傷つける人間がとてつもなく嫌だと思う自分』
を完全に消して、
『他人を傷つけることがたまらなく好きな自分』
に変化できるということです。
この異常性がわかるでしょうか。

心理学的なペルソナをつけかえるように、
ペルソナでなく自我を変化させるのです。
そして自我を変化させながらも、
それがごまかしでなく、本当の自分自身であるのです。

これを考えると、ペルソナ4の主人公が
6人の女の子を手玉にとる感覚が理解できます。
主役は、『悪いと思いながらも六股をかけている』
のではありません。
りせと付き合うときには、
『りせを心から愛し、うやまう自分』になっていて、
雪子とつきあうときには
『雪子を心から愛し、うやまう自分』になっています。
そこには虚偽も罪悪感もありません。
一人の女の子と向き合うときは、
本当にその子のことだけしか考えず、
その自分に疑問も持っていないのです。

もっと現実的なところで見ると、
たとえば痴呆のお年寄りなどが近いでしょう。
ある日はにこにこしていたのに、
ある日は手も付けられないほど怒っています。
それは気分屋などではなく、
自我チェンジが怒っているのです。
笑いたいから笑って、怒りたいから怒っているのでは
ありません。原因は外にはなく、
ただ中で、『笑う自分』『怒りの化身の自分』という
むき出しのエゴが置き換わっているだけなのです。


そして最後。
・ペルソナが発現できるのはある程度の年齢まで
→自我が発露できるのはある程度の年齢まで

これについては、トリニティソウルのチエちゃん的な子が
補足っぽいセリフを口にしています。
「大人になるに従って世界を受け入れていく。
 だからペルソナが使えなくなるんだわ」
といったようなものです。

たとえば普通の人は、大人になるにしたがって、
世界のルールを覚えていきます。
自分が本当に不愉快で、できるならそばにある
ボールペンをひっつかんでその頭に
差し込んでしまいたい相手でも、
それが客なら笑って話さなければなりません。
『こうしたい自我』ではなく、
『こうせねばならない自己』として
行動することの重要性が身にしみるからです。

つまり、精神年齢を重ねるごとに、
自分にとっての純粋な自分、『自我』よりも
世界に認識される自分、『自己』を
良く育てていこうとするので、
自我の発露は抑えられていくということです。
それにより、自我そのものである、
エゴソナも発現できなくなっていくのでしょう。

そう考えてトリニティソウルを見ていくと、
エゴソナを持っていた人と、持っていなかった人との
見分けもつきます。

実際にエゴソナを奪われる刑事は、
違法捜査などに対して、
「そんなことしたらまずいんじゃないですか?」
などというセリフをたびたび口にしてきました。
つまり、自我でなく自己に重心を置いてきました。

一方、自分の信念のために上司に逆らい、
盗聴器をしかけるなどした刑事は、
エゴソナ奪いにもあわず、パニックのときも
自分のままでいられました。

大人でもエゴソナを発現できる主役の兄は、
他人のことなど気にせず、
自分の思うままに突き進み、
10年ぶりにあった兄弟にも、何の事情も説明せず、
「帰れ」と言い放ちます。

このように、『周りを気にせず自我をつきとおせる人』
だけがエゴソナ使いであり、その点から見ても
『自我』こそがエゴソナであると言ってよいと思います。

すなわち、ペルソナシリーズにおける『ペルソナ』とは
心理学に言う『ペルソナ』ではなくて、
むしろ心理学に言う『自我』であると考えられるのです。



~補足~
・トリニティソウルのペルソナ維持薬とは?

飲むことでペルソナ発現力を高められる薬は、
自我を覚醒させるものと考えられます。
飲むことで周りのことを考えられなくし、
自分のやりたいこと、向かいたいところだけを
強く意識させるような働きを持つ薬です。

ですが、大人になれば内なる自分が、
「そんなことではだめ」
「もっと外も見ないと」
と呼びかけ続けるので、
自分の魂の中に齟齬をきたし、
精神と体をむしばんでいきます。
そんな自分の声すら聞こえないようにするためには、
初期よりも大量の薬が必要になってくると考えると
矛盾なく見られる気がします。
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