今でもぼちぼちと話題になるほど有名で人気がある
邪馬臺国や卑弥呼。
でも、とてもいい加減な話も多くみかけます。
その話がいい加減か、そうでないかは
いわゆる魏志倭人伝の
張政等 因齎 詔書黄幢 拜假難升米 爲檄告喩之
という文字列の訳を見るのがわかりやすいことでしょう。
もし、上の文を、特に注釈も入れずに
文字列を文字列のまま、見えるように訳しているものがあれば、
その訳は信じるに値しません。
なぜなら、
この文は、『古文の訳し方』を知らなければ、
けっして正しく訳せないからです。
古文の訳し方を知らない人が作っている訳など
たとえ部分部分はあっていたとしても
全体として正しくなるわけがないので
信じる価値はありません。
では実際、この文字列の正しい訳はなにか。
どこをどう注意しなければならないのか。
その他の誤りが多い場所は……
というのは、前提知識から説明しなければいけないので
左の『自作本』カテゴリから邪馬臺関連のものを見てください。
ここでは、前提知識が要らずにざっと説明できるものをとりあげて、
『古文の訳し方を知らない人間が訳したものは
何の意味もないし、信じるに値しないものだ』
ということを示しておきましょう。
さて。
日本語の表現に、
『八百万の神(やおよろずのかみ)』
というものがあります。
これを訳してみてください。
あるいは、意味を述べてみてください。
できたでしょうか?
『古文』の訳し方を知らない人、
あるいは文字列をふわっと読んでふわっと訳す人は、
先の文字列を、
『(800万、あるいは多数の)日本のすべての神』
などといった意味に訳すことでしょう。
でも、そんなものは、完全なあやまりです。
先の
張政等 因齎 詔書黄幢 拜假難升米 爲檄告喩之
を、見たまま訳してはいけないように、
この
『八百万の神(やおよろずのかみ)』
も、見たままふわっと訳してはいけません。
説明に入りましょう。
たとえば、
『すべてはわたしの自由!』
という言葉を考えてください。
こう言った場合、本当にすべてが、
ありとある『すべて』がわたしの自由だという意味です。
でも、それを、
『食料すべてはわたしの自由!』
と言いなおすと。
この場合、『ありとあるすべて』は自由ではありません。
『食料』という限定されたもののうちの
『すべて』だけがわたしの自由になります。
……わかりますか?
この、言葉の差が、意味の差が、わかりますか?
範囲を示す言葉の頭に、別の範囲を示す文字がついたとき、
それは『限定用法』となり、範囲を狭める働きをします。
これが、日本語であり、日本語のまともな使い方なのです。
古文とは、日本語のまともな使い方がわからない人には、
決して解読できません。
日本語がまともに使えない人は、
古文を解読したと言わないでください。
なんなら、古文の解読にはけっして関わらないでください。
日本語では
『万の神』
だけで、すべての神様をあらわします。
ならば、その上に何かをつけたら、
それは限定用法にしかなりません。
『やおよろずのかみ』は
『よろずの神』だけで『すべての神』なのですから
その頭に『やお』とつけたら、
限定された『やお』の中だけの『すべての神』を意味します。
他を参照しましょう。
『万の神』といえばすべての神ですが、
『アイヌ万の神(アイヌよろづのかみ)』と言えば、
『アイヌ』という範囲の中だけにおいての、
『すべての神』という意味になります。
やお よろずのかみ もこれと同じ構造です。
これでもまだ意味がわからない、理解できないし
信じられないというのであれば、
位相をずらしたもっと別のたとえにしましょう。
たとえば『万の映画鑑賞券』というものがあったとします。
これは、『一万の映画が見られる』ではなく、
『すべての映画館で、映画が見られるチケット』のことです。
すべてとあるのですから、もちろん日本どこでも、
どこの映画館でも映画が見られます。
でも、その頭に何かつけると。
たとえば『東宝万の映画鑑賞券』になったら、
『東宝』系列の、映画館でしか映画は見られません。
『東宝』の『万の映画鑑賞券』、という意味に、
日本語として変わるからです。
これを、
「『東宝万の映画鑑賞券』というのはね、
『東宝万』という言葉で日本全部の映画館を
あらわしているんだよ」
なんて言う人がいたら、なに言ってるんだと思うでしょう?
『東宝万の映画鑑賞券』をもって、
松竹の映画館に行っても、映画は見られないとわかるでしょう?
なのになぜ、
『八百万の神』を、『はっぴゃくまんの日本すべての神』と
述べるのですか?
『万の神』だけで『すべての神』なのですから、
『八百万の神』となれば、
『八百の万の神』になるとわかるし、
日本語を使う日本人であるならば、
わからなければいけないことでしょう?
……わかりますか?
『八百万の神』に、『日本のすべての神様』なんて意味はありません。
これは、古文の読み方における常識であり、
日本語の常識であり、
神道における常識です。
古文が読めない人は、たったこれだけの単語すら解釈できません。
まともな意味もとれないのです。
今では辞書にさえ、『八百万』なんて言葉が載っているかもしれません。
でも、『やおよろず』なんてひとくくりのことばはないのです。
そもそも、神道において、
『やおよろずの神』で日本すべての神をあらわすこともありません。
本来の神道では、
『やおよろず』を『やお』と『よろず』とにわけ、
『やお』とは何か、どこまでの範囲を指すのか、
ということを語っていました。
『やお』はそれほど重要な意味をもっていたのです。
それと対抗するために出されたのが
『八十万』、『やそよろず』です。
古事記と日本書紀は神の呼び方を見るだけでも
まったく違う立場のものが書いたものだというのがわかります。
こういうことさえもわからず、
「『やおよろず』とはそれでひとつの単語で、
『八百万ほどの多く、すべての数』をあらわして……
それほど多くの神様が日本にはいるんだよ」
と騙る神道者がいるとしたら、その人は神を敬うどころか冒涜する、
勉強不足のニセモノです。
神道のなんたるかも知らない人間であり、
神道にはけっして関わってはいけない人間です。
言葉を信用してはいけません。
なのに、こういった、
常識がない人や文章を厳密に読めない人こそ、
文章についていい加減な説を語りがたるのが困ります。
古文も読めず、日本語のまともな使い方もしらず、
常識がなく、文章を厳密に読めない人がやりがちなのは、
たとえば、邪馬台国関連であれば、
いわゆる魏志倭人伝に出てくる地名に、
日本の地名をこじつけるだじゃれ遊び。
「魏志倭人伝の中には、旧日本の国名として
これこれこんな文字列が出てくる。
この文字列は、地名のこの文字、この発音と対応する!
だからこの地名があの文字列であり、
邪馬台国はどこそこにあったのだ!」
といったような。
……でも。厳密な日本語の使い方も知らず、
古文の読み方も知らない人が、
古文に書かれた文字の正しい読みを
解読できているわけがないでしょう?
間違った読みで、何の根拠もない駄洒落を作るのですから、
その駄洒落が正しいものを示すことも、またあるわけがないでしょう。
それは、卑弥呼もそうです。
多くの人が、これを『ヒミコ』と読みたがりますが、
古代語発音では、これは『ヒミコ』と読みません。
読むわけがないのです。
神道では、いわゆる『卑弥呼』は神上がりして、
神になったことが伝わっていますから、
『卑弥呼』の元の発音が何なのか、
神道を研究している人なら日本語からわかります。
なんという名前だと思いますか?
いわゆる卑弥呼は、現代の何という神になっているか、わかりますか?
神道を知らない、言葉を知らない人は、
それもわからないのです。
そんなことさえわからない解読者が、
卑弥呼や神道についてしたり顔で騙るのが今の古文世界です。
邪馬臺国論の中には、
・邪馬台国はもともと畿内にあり、
・卑弥呼は神になっており、
・卑弥呼の神名はアマテラスである、
などと語るものもありますが――
こんなものは、誤りです。
神道において、
アマテラスはある時期に移動してきた神様であると述べられています。
よって、『邪馬台国はもともと畿内にあり』はあてはまりません。
神道において、
アマテラスの元の名前は卑弥呼ではないと述べられています。
よって、『卑弥呼の神名はアマテラスである』はあてはまりません。
神道において、
卑弥呼は神に上がっています。
よって、『卑弥呼は神になっており』だけは正しいです。
……なぜ、神道をろくに知らない人が、
知らない神道のものごとを語ろうとするのか。
古文の研究者として、神道の研究者として、
その人らの意味も考えも一切理解できません。
そもそも、『卑弥呼』を『ヒミコ』と読むのは、
現代感覚でなにやら『巫女』的な行為をしていた、
というところから発生した駄洒落、こじつけでしょう。
『卑弥呼』は『ヒミコ』で『日の巫女』だ、という話は
ひどい冗談です。
『卑弥呼』には、卑弥呼を憎む男の『卑弥弓呼』がいました。
ならば、
女の卑弥呼が『日の巫女』であるとするのであれば、
男の卑弥弓呼は『日の巫弓女』だとでも言うのでしょうか?
この矛盾はどう処理するのでしょうか。
それに、
『卑弥呼』は『ヒミコ』で『日の巫女』で、
後に『アマテラス』になったのだ、という考え。
『アマテラス』は単純に現代語からすると、
『天を照らす』とも受け取れるような言葉です。
おそらく、現代神道・明治神道が好きな人は
これを太陽の象徴かなにかと思うはずです。
卑弥呼が『日の巫女』だとするのであれば、
そこには、巫女があがめる『日』の神がすでにいたことになります。
なのに、卑弥呼が死んで神あがったら、
その神様をおしのけて、たかが巫女でしかない存在が、
日の神様になるのですか?
なら、卑弥呼が日の巫女でアマテラスだと述べる人は、
卑弥呼があがめていたと思われる日の神様は誰で、
その後どうなったと考えるのでしょうか。
……こんなもの、
日本の常識として、神道の常識として、
矛盾を感じずにはいられません。
なのに、卑弥呼をどうしても『ヒミコ』と読みたい人は、
こういったことを捨て置いて、自分の言いたいことだけを
さも根拠にのっとっているかのように声高に叫びます。
そして自分の都合のいいところだけをつまみあげ、
説の強化に使うのです。
こういったことは、企業のお抱え研究者が
いまだにやるインチキ手法ですが、
研究者としてやってはいけないことです。
単に卑弥呼の元の名前や神名、
邪馬臺国の読みや場所を知りたいだけならば、
いわゆる魏志倭人伝など読まなくても、
古い神道の文書を読むだけで充分です。
それほど読み込まなくても、
なぜ日本には歴史的な卑弥呼神社がないのか、
なぜ、八坂神社は八坂神社という名前なのか、
なぜ、氷川神社は氷川神社なのか。
といったことを理解できるだけでも
わかるようなものです。
外国偏重主義はやめ、もっと国内に目を向けてほしいものだと思います。
そして、古文解釈の正しい知識が
もっと人に知られてほしいものだと思います。
いわゆる卑弥呼が現代神道のなんという神様にあたるか、
邪馬台国はどこにあったのか
いわゆる魏志倭人伝の訳し間違いはどこかなど
ぼちぼちまとめているので
興味があればカテゴリ『自作本』を参照してください。
現在このページを見ている手段で見られます。
まずは ためし読み から。
邪馬臺国や卑弥呼。
でも、とてもいい加減な話も多くみかけます。
その話がいい加減か、そうでないかは
いわゆる魏志倭人伝の
張政等 因齎 詔書黄幢 拜假難升米 爲檄告喩之
という文字列の訳を見るのがわかりやすいことでしょう。
もし、上の文を、特に注釈も入れずに
文字列を文字列のまま、見えるように訳しているものがあれば、
その訳は信じるに値しません。
なぜなら、
この文は、『古文の訳し方』を知らなければ、
けっして正しく訳せないからです。
古文の訳し方を知らない人が作っている訳など
たとえ部分部分はあっていたとしても
全体として正しくなるわけがないので
信じる価値はありません。
では実際、この文字列の正しい訳はなにか。
どこをどう注意しなければならないのか。
その他の誤りが多い場所は……
というのは、前提知識から説明しなければいけないので
左の『自作本』カテゴリから邪馬臺関連のものを見てください。
ここでは、前提知識が要らずにざっと説明できるものをとりあげて、
『古文の訳し方を知らない人間が訳したものは
何の意味もないし、信じるに値しないものだ』
ということを示しておきましょう。
さて。
日本語の表現に、
『八百万の神(やおよろずのかみ)』
というものがあります。
これを訳してみてください。
あるいは、意味を述べてみてください。
できたでしょうか?
『古文』の訳し方を知らない人、
あるいは文字列をふわっと読んでふわっと訳す人は、
先の文字列を、
『(800万、あるいは多数の)日本のすべての神』
などといった意味に訳すことでしょう。
でも、そんなものは、完全なあやまりです。
先の
張政等 因齎 詔書黄幢 拜假難升米 爲檄告喩之
を、見たまま訳してはいけないように、
この
『八百万の神(やおよろずのかみ)』
も、見たままふわっと訳してはいけません。
説明に入りましょう。
たとえば、
『すべてはわたしの自由!』
という言葉を考えてください。
こう言った場合、本当にすべてが、
ありとある『すべて』がわたしの自由だという意味です。
でも、それを、
『食料すべてはわたしの自由!』
と言いなおすと。
この場合、『ありとあるすべて』は自由ではありません。
『食料』という限定されたもののうちの
『すべて』だけがわたしの自由になります。
……わかりますか?
この、言葉の差が、意味の差が、わかりますか?
範囲を示す言葉の頭に、別の範囲を示す文字がついたとき、
それは『限定用法』となり、範囲を狭める働きをします。
これが、日本語であり、日本語のまともな使い方なのです。
古文とは、日本語のまともな使い方がわからない人には、
決して解読できません。
日本語がまともに使えない人は、
古文を解読したと言わないでください。
なんなら、古文の解読にはけっして関わらないでください。
日本語では
『万の神』
だけで、すべての神様をあらわします。
ならば、その上に何かをつけたら、
それは限定用法にしかなりません。
『やおよろずのかみ』は
『よろずの神』だけで『すべての神』なのですから
その頭に『やお』とつけたら、
限定された『やお』の中だけの『すべての神』を意味します。
他を参照しましょう。
『万の神』といえばすべての神ですが、
『アイヌ万の神(アイヌよろづのかみ)』と言えば、
『アイヌ』という範囲の中だけにおいての、
『すべての神』という意味になります。
やお よろずのかみ もこれと同じ構造です。
これでもまだ意味がわからない、理解できないし
信じられないというのであれば、
位相をずらしたもっと別のたとえにしましょう。
たとえば『万の映画鑑賞券』というものがあったとします。
これは、『一万の映画が見られる』ではなく、
『すべての映画館で、映画が見られるチケット』のことです。
すべてとあるのですから、もちろん日本どこでも、
どこの映画館でも映画が見られます。
でも、その頭に何かつけると。
たとえば『東宝万の映画鑑賞券』になったら、
『東宝』系列の、映画館でしか映画は見られません。
『東宝』の『万の映画鑑賞券』、という意味に、
日本語として変わるからです。
これを、
「『東宝万の映画鑑賞券』というのはね、
『東宝万』という言葉で日本全部の映画館を
あらわしているんだよ」
なんて言う人がいたら、なに言ってるんだと思うでしょう?
『東宝万の映画鑑賞券』をもって、
松竹の映画館に行っても、映画は見られないとわかるでしょう?
なのになぜ、
『八百万の神』を、『はっぴゃくまんの日本すべての神』と
述べるのですか?
『万の神』だけで『すべての神』なのですから、
『八百万の神』となれば、
『八百の万の神』になるとわかるし、
日本語を使う日本人であるならば、
わからなければいけないことでしょう?
……わかりますか?
『八百万の神』に、『日本のすべての神様』なんて意味はありません。
これは、古文の読み方における常識であり、
日本語の常識であり、
神道における常識です。
古文が読めない人は、たったこれだけの単語すら解釈できません。
まともな意味もとれないのです。
今では辞書にさえ、『八百万』なんて言葉が載っているかもしれません。
でも、『やおよろず』なんてひとくくりのことばはないのです。
そもそも、神道において、
『やおよろずの神』で日本すべての神をあらわすこともありません。
本来の神道では、
『やおよろず』を『やお』と『よろず』とにわけ、
『やお』とは何か、どこまでの範囲を指すのか、
ということを語っていました。
『やお』はそれほど重要な意味をもっていたのです。
それと対抗するために出されたのが
『八十万』、『やそよろず』です。
古事記と日本書紀は神の呼び方を見るだけでも
まったく違う立場のものが書いたものだというのがわかります。
こういうことさえもわからず、
「『やおよろず』とはそれでひとつの単語で、
『八百万ほどの多く、すべての数』をあらわして……
それほど多くの神様が日本にはいるんだよ」
と騙る神道者がいるとしたら、その人は神を敬うどころか冒涜する、
勉強不足のニセモノです。
神道のなんたるかも知らない人間であり、
神道にはけっして関わってはいけない人間です。
言葉を信用してはいけません。
なのに、こういった、
常識がない人や文章を厳密に読めない人こそ、
文章についていい加減な説を語りがたるのが困ります。
古文も読めず、日本語のまともな使い方もしらず、
常識がなく、文章を厳密に読めない人がやりがちなのは、
たとえば、邪馬台国関連であれば、
いわゆる魏志倭人伝に出てくる地名に、
日本の地名をこじつけるだじゃれ遊び。
「魏志倭人伝の中には、旧日本の国名として
これこれこんな文字列が出てくる。
この文字列は、地名のこの文字、この発音と対応する!
だからこの地名があの文字列であり、
邪馬台国はどこそこにあったのだ!」
といったような。
……でも。厳密な日本語の使い方も知らず、
古文の読み方も知らない人が、
古文に書かれた文字の正しい読みを
解読できているわけがないでしょう?
間違った読みで、何の根拠もない駄洒落を作るのですから、
その駄洒落が正しいものを示すことも、またあるわけがないでしょう。
それは、卑弥呼もそうです。
多くの人が、これを『ヒミコ』と読みたがりますが、
古代語発音では、これは『ヒミコ』と読みません。
読むわけがないのです。
神道では、いわゆる『卑弥呼』は神上がりして、
神になったことが伝わっていますから、
『卑弥呼』の元の発音が何なのか、
神道を研究している人なら日本語からわかります。
なんという名前だと思いますか?
いわゆる卑弥呼は、現代の何という神になっているか、わかりますか?
神道を知らない、言葉を知らない人は、
それもわからないのです。
そんなことさえわからない解読者が、
卑弥呼や神道についてしたり顔で騙るのが今の古文世界です。
邪馬臺国論の中には、
・邪馬台国はもともと畿内にあり、
・卑弥呼は神になっており、
・卑弥呼の神名はアマテラスである、
などと語るものもありますが――
こんなものは、誤りです。
神道において、
アマテラスはある時期に移動してきた神様であると述べられています。
よって、『邪馬台国はもともと畿内にあり』はあてはまりません。
神道において、
アマテラスの元の名前は卑弥呼ではないと述べられています。
よって、『卑弥呼の神名はアマテラスである』はあてはまりません。
神道において、
卑弥呼は神に上がっています。
よって、『卑弥呼は神になっており』だけは正しいです。
……なぜ、神道をろくに知らない人が、
知らない神道のものごとを語ろうとするのか。
古文の研究者として、神道の研究者として、
その人らの意味も考えも一切理解できません。
そもそも、『卑弥呼』を『ヒミコ』と読むのは、
現代感覚でなにやら『巫女』的な行為をしていた、
というところから発生した駄洒落、こじつけでしょう。
『卑弥呼』は『ヒミコ』で『日の巫女』だ、という話は
ひどい冗談です。
『卑弥呼』には、卑弥呼を憎む男の『卑弥弓呼』がいました。
ならば、
女の卑弥呼が『日の巫女』であるとするのであれば、
男の卑弥弓呼は『日の巫弓女』だとでも言うのでしょうか?
この矛盾はどう処理するのでしょうか。
それに、
『卑弥呼』は『ヒミコ』で『日の巫女』で、
後に『アマテラス』になったのだ、という考え。
『アマテラス』は単純に現代語からすると、
『天を照らす』とも受け取れるような言葉です。
おそらく、現代神道・明治神道が好きな人は
これを太陽の象徴かなにかと思うはずです。
卑弥呼が『日の巫女』だとするのであれば、
そこには、巫女があがめる『日』の神がすでにいたことになります。
なのに、卑弥呼が死んで神あがったら、
その神様をおしのけて、たかが巫女でしかない存在が、
日の神様になるのですか?
なら、卑弥呼が日の巫女でアマテラスだと述べる人は、
卑弥呼があがめていたと思われる日の神様は誰で、
その後どうなったと考えるのでしょうか。
……こんなもの、
日本の常識として、神道の常識として、
矛盾を感じずにはいられません。
なのに、卑弥呼をどうしても『ヒミコ』と読みたい人は、
こういったことを捨て置いて、自分の言いたいことだけを
さも根拠にのっとっているかのように声高に叫びます。
そして自分の都合のいいところだけをつまみあげ、
説の強化に使うのです。
こういったことは、企業のお抱え研究者が
いまだにやるインチキ手法ですが、
研究者としてやってはいけないことです。
単に卑弥呼の元の名前や神名、
邪馬臺国の読みや場所を知りたいだけならば、
いわゆる魏志倭人伝など読まなくても、
古い神道の文書を読むだけで充分です。
それほど読み込まなくても、
なぜ日本には歴史的な卑弥呼神社がないのか、
なぜ、八坂神社は八坂神社という名前なのか、
なぜ、氷川神社は氷川神社なのか。
といったことを理解できるだけでも
わかるようなものです。
外国偏重主義はやめ、もっと国内に目を向けてほしいものだと思います。
そして、古文解釈の正しい知識が
もっと人に知られてほしいものだと思います。
いわゆる卑弥呼が現代神道のなんという神様にあたるか、
邪馬台国はどこにあったのか
いわゆる魏志倭人伝の訳し間違いはどこかなど
ぼちぼちまとめているので
興味があればカテゴリ『自作本』を参照してください。
現在このページを見ている手段で見られます。
まずは ためし読み から。