最近、古文の授業なんて役に立ったことはないし、なくしてしまえ
というような話が話題になったとか。
古文を読んでいる身としては、
何か言いたくなるところです。
元の話を見たわけではないので適当にまず言うと、
この話はすごく乱暴に思います。
・自分には古文の授業は何の役にも立たなかった
↓
・だから、古文の授業を無くせ
なぜ、自分のことを世界に広げるのかわかりません。
ここの合理的な論理は、
・自分には古文の授業は何の役にも立たなかった
↓
・古文の授業が必要ないものは必修からはずさせてくれ
でいいのではないでしょうか。
わたしは、中学や高校で、
もう数学や理科、かがくなんてどうでもいいと思い、
方言や語源を調べているような国文系だったので、
国語とは関係ない系統の授業なんて全部捨てて、
国語系の授業や研究に時間を取れたら
どんなによかっただろうと思います。
その授業が必要ないと絶対的に言える人、
自分の興味が完全にわかっている人は、
いらない授業すてて、いる授業の数を増やせればいいですが……
どう対応すればいいかはわからないし、
まあ、なされないことでしょう。
それはさておき。
自分には古文の授業は必要ないし、
自分の人生に関わることはなかったから、
古文の授業はなくせ
というような話がなぜ乱暴なのか、について。
ざっくばらんに言えば、
世の中の時代劇とか、
遺跡の研究とか、
三国志の話とか、
戦国時代とかの漫画とか。
あれらはみんな、古文の授業の産物です。
授業で古文をやったから、
授業を受けた者の中に古文をおもしろいと思う者が出て、
その者たちが古文に関わり、古文を訳し、それが基礎研究となり。
その古文の授業が影響を与えたものによって、
その後の古文関係のものが作られたわけです。
古文の授業は自分の役には何一つ立たなかった、という人は、
そういった古文関係のものを目にしても、
一切興味も持たず、楽しまずにいたのでしょうか。
まあ、そういう人もいるのでしょうけど。
でも、ずーっと続いている大河ドラマかなんかを見ても、
古文の授業が影響した、
古文関係のものを見て楽しみ、
自分の(楽しみの)役に立ったと感じる人は
一定数いるとわかります。
まあ、古文関係のものを作った人々に
古文の授業は影響したか、というのを調査しているわけではないので
たしかなところはわかりませんけど、
古文の授業もなしに生きてきた人が、
いきなり古文に自分で興味をもち、
自分で古文を学んで古文を読むようになった、という人は
まずいないのではないかと思います。
わたしも、今でこそ古文を読んでいますが、
昔は、神社の神様や話に興味はあっても
古文なんて興味もありませんでしたし、
古文というものの存在も知りませんでした。
古文を知ったきっかけは、おそらく
中学一年か二年の古文の授業です。
そして、古文をちゃんと学ぼうと思ったのは、
授業でやった竹取物語の解釈が
間違っていると思ったので
いつかちゃんと自分で訳してみたいと
思ったことだった気がします。
それを思うと、
古文の授業とは、日本の世界に、
古文の基礎研究者を生み出すためのもの
と言ってみてもいいでしょう。
ほかの授業だって、そういった向きはあると思います。
たとえば、数学なら数学の研究者を生み出すため、
化学なら、化学の研究者を生み出すため。
特定のだれか、ではなく、適当に水を撒いて
その中から芽が出るのを待つ、というタイプの行為です。
それに対し、基礎研究者なんていらん。
作り出さなくていい、と言ってしまうのは
かなり乱暴な話だと思うわけで。
まあ、今は大学でも、基礎研究は金にならないから
やらせたくない、やらせないと平気で言うようですから
時流なのかもしれませんが……。
個人的には、
お金にならないけれど、他の研究の元になるからこそ、
学術機関でやるべきものだと思えてなりません。
お金になる発展研究なんて、
民間が金稼ぎのためにやればいいことでしょう。
研究機関なら、それがどうお金になるか考えずに
むしろ、基礎研究だけやってればいいのです。
たとえば古文だったら、
世に残っている、ありとある古文を集め、
画像データ化して、文章はテキスト化して
ひとところに集め、それに訳をつけていくとか。
こんなもの、時間とお金ばかりかかるものの、
なんのお金にもなりません。
でも、これが基礎研究です。
データベースを作ってしまえば、
後の人が研究するときも簡単に調べられるし、
ある文章を参照した別の文章というのも見つけられるようになり、
後のなにかしらお金になる発展研究の元になることでしょう。
……ならないかもしれませんが。
でも、古文を研究する大勢の他人の役に立つのだけは
間違いがないでしょう?
話はそれましたが。
古文の授業が『いる』か『いらない』かで言ったら、
絶対に『いる』と言えます。
なぜなら、人の本質として、
『ものの根源を知りたい』
というものがそなわっているからです。
何で世に研究者が現れてくるかと言えば、
『ものの根源を知りたい』
と思うからです。
人間はどこから来たのか知りたい、
生命の大本が知りたい、
日本の国の大本が知りたい、
病気の大本が知りたい、
言葉の大本が知りたい、
などなど、分野が変わっても、
人は根源を知りたいものなのです。
古文といえば、日本語の根源にかかわるものです。
古文の授業をなくし、人が古文に触れられる状況を減らせば、
古文や言葉にかかわる人も減り、
言葉や、かつての歴史と現在が
断絶されてしまうことにもつながります。
それは、文化大革命とか言って、
古き良きものをすべて壊して歴史から断絶された
あの国の状況を見れば、
どれだけ狂ったことかわかると思います。
古文の授業は『ある』べきです。
そこに、絶対的に必要ないと断言できる人が
やらなくて済むような制度ができるなら
もっといいことだ、とは思いますけど。