曲の方法論のようなものを見ていたら、
こんなようなことが書いていました。
メロディーはまず小さな山を繰り返し、
最高音はサビの部分で出す、と。
また、音楽をやっている人から
こんなことも聞きました。
最近はまず曲ありきで、それから詞があるのだ と。
それを知って、わたしなりにいろいろ考えました。
たとえば、サビにメロディーを盛り上げるとしたら、
盛り上がりに堪えうる言葉が必要です。
そこを盛り上げるとしたら、
そこが盛り上がるためのいきさつが必要です。
そして、言葉に必然性があるのとおなじように――
メロディもサビへと向かい、サビをもりあげるための
必然性をもっていなくてはいけません。
とすると、すなわち。
歌において一番の重要な部分はサビであり、
それまではすべてサビを盛り上げるためだけに
存在していると言えるのではないでしょうか。
ということは歌詞の必要条件とは、
一番の盛り上がり、言いたいことを後半部分に持ちながら、
全体としてその言いたいことを表しているもの、
ということになりそうです。
……まあ、そう思ったからといって
すぐ考え付くようなものでもないのですけど。
それでもそんな観点から、
わたしが今まで作った歌を見てみますが、
あきらかに盛り上がりなんてありません。
そもそもわたしの気持ちは、
『全体のまとまりこそすべて』であり、
『見せる(魅せる)一部分』など考えていないのです。
そこに思い至ったことで、
ほかにもいろいろ気づきました。
たとえばわたしの長い小説。
基本的にわたしの書くもののラストは決まっています。
『そして少女はほんのすこしだけ、
いつもと違う毎日を手に入れたのでした』
です。
結局繰り返される同じ毎日。
でも、それは今までとはほんのすこしだけ違います。
その理由は、主役の子にとっての世界の見方が
すこしだけ変わったからです。
わたしが目指すのは常にそこ。
そこに至るまでの道筋に矛盾がないように、
自然になるようにとひたすら考えます。
つまり、最初から、終わりだけを見て進んでいるのです。
これは思えば、ある意味わたしの人生観とも
まったく同じものです。
わたしの目はなにがあったって、
いつも最後の死ばかりをとらえてしまって
恐怖と絶望でいっぱいです。
でもほんとはそうじゃなかったんですね。
世界がのぞむ小説の形は、
最後に重点を置くのではなく、
中心のサビにむけて盛り上がる形だったのです。
そして、それは歌詞でも曲でもおんなじ。
そこでサビとはなにかを考えるなら、
それは『相手を喜ばすためのもの』です。
釣りで言うなら、『エサ』の部分です。
「ほーら、おいしいエサを仕掛けたぞ~、さあ~おいで~」
と作る側がてぐすね引いて待ち構える仕掛け、
それがサビです。
でも魚釣りとは違って、
釣られたほうも釣ったほうも、どちらも満足。
ならわたしは? と自分の中を見ると、
わたしには他人を喜ばせるしかけはありません。
小説も歌詞も曲も絵も、
わたしにはすべて平面のものです。
どこまでいってもわたし、
なにをやってもわたしです。
わたしはなにをやろうと、全部自分のためでした。
他人のことなんて何も考えていないのですから。
もしかしたら、と今は確信めいたものを感じるのですが、
わたしの書くものにはことごとく欠けているという
『なにか』は実は『サビ』だったのではないでしょうか。
そう考えると、すべてつじつまが合います。
『なにか』がないから魅力的な文章にならない、
=『サビ』がないから魅力的な歌にならない。
意味が通ります。
それで思い出せば、
絵の人も言っていました。
『視点をひきつける流れを作れ』と。
これまでのわたしには意味不明でしたが、
わかってみればこれは、絵の『サビ』なのです。
たとえば躍動感を出したい、
跳ねる女の子の気持ちよさを出したいと思うなら、
今までのわたしだったら、
駆けるポーズの子を中心から
すこし左に寄せて描いたでしょう。
でも、そんなものじゃなくてよかったのです。
たとえば一番に顔を見せたいなど、
確かに思うものがあれば、
どんなに左に寄ったっていいのでしょう。
髪の流れ、体の流れ、そして空いてしまう右側には、
風でも雲でも、追っていけば自然と視線が
見せたいところに流れていくように、
オブジェクトや色を組み上げていけばよかったのです。
……基本的には、漫画のコマ割りと
同じだったんですね。
視線を妨げないように、視線が流れるように。
そして一ページにはひとコマ、
目を留める場所を作る、それはコマ割りの『サビ』。
物語文の基礎でもよく言われていました。
文章は小さな起承転結を繰り返しつつ、
全体として見たときにも大きな起承転結を
形作るようにまとまるのがよい文なのだと。
それ全部、きっとこういうことだったのでしょう。
もしかしたら、人が宝石類を身につけるのも、
そういうことかもしれません。
わたしは肌が弱いので腕時計や装飾品は
一切身につけないということもあって、
不必要なものは欲しくもなく
なぜ他人が宝石類を欲しがるのか、
身につけて外に出るのかなんて
まったく理解できませんでしたけど。
それを、服装の中で他人の目を引かせたい、
服飾の『サビ』の役目をさせているのだと
考えたら理解できます。
つまり、まとめるとこうです。
『世の中の多数の人は【サビ】を求めている』。
そして
『わたしは【サビ】を求めていない』。
あああ。
わたしと一般の人の感覚の差異は、
そんなことだったんですね。
……考えてみれば、わたしは
プリンにカラメルはいらない派です。
おそばに薬味もいれませんし、
おでんにカラシもつけません。
うなぎごはんに山椒もいりません。
うどんもラーメンも、素うどん素ラーメンが一番。
人生にお酒はいりませんし、
火遊びなんてしたくありません。
何もなく平凡に一生を終えたいのです。
でも一般の人は、きっとそういうのが好きなのです。
食べるものにはぴりりとした刺激を入れ、
酒は人生の刺激だとか言っちゃって、
プリンを食べればカラメルで口直しして、
紅茶を飲む時はレモンを使うのです。
こうなると、わたしの書いたものを
本気でおもしろいと思う人は、
きっと素うどんや素ラーメンを
おいしいと思うような人なのでしょう。
一方、一般に受けるものを作るには、
『サビ力(さびりょく・さびぢから)』とでも
言うものが必要です。
それは、他人がなにを求めていて、
自分がどう振舞えばそれを満足させられるものを
用意できるかを肌でわかる、
もしくは考えてわかる能力です。
かつてわたしはそれをまとめられずに、
攻める力・守る力という概念でとらえていましたが、
攻める力はこの『サビぢから』と
通じる概念でした。
そんなサビの考え方で過去を振り返ると、
大学でも、やけに短いスカートに
スリットの入ったものを着ている子を見て、
わたしは『そんなに肉感をアピールしたいのかな』と
全体的に見ていましたが、
その子が演出したかったのは、
自分の足だけだったのかもしれません。
自分の体の『サビ』、もしくは服装の『サビ』が
むき出しのふともも。
大きく胸元の開いた服を着るのは
服装のサビとして胸を注目させたいからで、
胸元の開いた服を着てネックレスをつけるのは、
絵のようにネックレスの石に注目させる、
視線誘導効果を狙っているのかもしれません。
水戸黄門が受けるのは、
印籠を出すところがサビで、サビが受けるから。
それをおもしろくするには、
そこへの話に緊張を入れて入れて、
そこでばっさりと弛緩すればいいはず。
『お約束モノ』が受けるのは、
『お約束』が安定したサビだからで、
逆に見る人はそのサビがあるとわかるからこそ
その間を楽しんでいるのかもしれません。
探偵モノなら、事件が起こり、
次に誰が殺されるかという緊張・不安。
それがサビで解決されるから弛緩になって解決。
恋愛ものなら、告白までに邪魔が入って、
緊張と不安をあおります。
そしてサビになり恋の成就で、解決。
その点ではどんな恋愛モノでも基本的なつくりは
同じなんですね。
そこを目新しくしようとしたりして、
あてつけに他の男と寝てみるとか
どっちつかずにいろんな女性とつきあってみるとかが
あるわけで、不愉快に見えるのは
方法論のせいだったのです。
……なんてこと!
文章にしろ曲にしろ歌にしろ
絵にしろ映画にしろ服飾にしろ、
世界にはそんな単純な背骨が通っていたなんて。
21世紀に生まれてようやく(嘘)、
そんなことに気づきました。
いま思い出せば、わたしが作る写真コラージュは
四角い写真を等間隔に並べただけ。
「つまらない」といわれても
それ以外には思いつかず、
『なら角を丸くしてみたり、
ほかの写真と重ねてみたりすればいいの?』と
考えたりもしました。
それはそういうことではなく、
絵とおんなじと考えて、見せるポイントと
そこまでの盛り上がりがなかったということだったのです。
いけばなも、きっとそう。
等間隔にまとめるのではなくて、
見せたい一本を見つけたら、
それが一番映えるように、
周りは『サビ』を自然に引き立てるように、
そして全体として調和しているように
作るのが大事だったのでしょう。
着物のきつけもそう。
すべてをぴしっと着るのではなく
えもんを抜くのは、
全体の緊張感の中でそこをサビとして視線を導き、
その上のもっとも大事なところ、
つまり顔を演出するための着こなしだったのです。
舞台で間を取れというのも、
間のあいだに緊張を高め、
次のセリフや動作で解放する、という
サビのテクニックだったのでしょう。
この世のすべて、他人に見せるもの、聞かせるものは、
『サビ』とその活かし方の点で
みんなおんなじだったのです。
目の流れ、耳の流れ、思考の流れと、サビ。
緊張感と解放、そして全体の調和。
文でも絵でも音楽でもいけばなでも舞台でも
映画でも着付けでも大事なものはみんなみんなおんなじ!
ああ、わたしはいま、世界の秘密の一端に触れた!
ただ、わたしがひたすらがんばってきた文章は
基礎にしてきた構造は小論文。
小論文には『サビ』・『転』なんてありません。
最初から最後までよどみなく流れることを旨とする、
起承結がその形です。
加えて何年か前から必死に書いている
ショートショートっぽいものも、
オチでそのまま終わる、起承結のかたちです。
どんなに書いても、書き続けていても、
『転』、つまり『サビ』の練習にはなっていませんでした。
……いいえ、むしろ……
理解していない『転』を使わずに書けるからこそ、
ショートショートでこういう形を無意識で選択していた
とも考えられます。
あたらしいことをいろいろやっているつもりだったのに、
結局どれも同じことの形を変えただけだったなんて――
絶望した! 結局同じことの自分に絶望した!
――とはいきません。
落胆はしましたが、絶望はしていません。
わたしの道志は言います。『もなそす』と。
すなわち、
もんだいの
なにが問題なのかわかったら
その問題の半分は
すでに解けたと同じこと
と。
問題はいま見えたのですから、
いつか乗り越えられるのかもしれません。
そこには絶望でなく、希望があります。
もしかしたらわたしが自分で歌作りを
するようになったのは、今回のこの
『サビ』の重要性に気づかせようとする
運命の導きだったのかもしれません。
わたしの人生はすべて文章につながっている、
そんな気もします。
……なんでわたしはこんなに
文章が好きなのでしょう。
たとえ具体的な人間を好きになれなくても、
書くことが好きだというのはわかります。
だからこそ、下手の横好きで終わらせたくありません。
わたしはもっともっと、魅力ある文が書きたい、です。
「サビ」ですねぇ。
自分もこの記事を読んでいろいろ発見できました。
他のジャンルでもサビがあるのだという事と、自分の為じゃなく他人に聴かせる為に曲を作っていた事。
(他人と言っても厳密に言えば友人や久しい人ですけど^^;)
あまねさんの発見は今後素晴らしい方向へ発展して行きますよ^^
運命かもですねv
とっくに常識で知っているものかもしれないと
思っていたのですが、
そうでもなかったんですね。
最初から他人を意識できていたとは
いいですねえ。