『好きの反対は無関心』というような言葉があります。
でも、普通に考えれば、
『おいしい』の反対は『食べてない』ではなくて『まずい』であるように、
『はやい』の反対は『移動しない』ではなくて『おそい』であるように、
『好き』の反対は『嫌い』です。
けれど最近、恋愛論で『好きの反対は無関心』という言葉を
たまに聞くので微妙な気分を味わいました。
それは違うと思います。
たとえば、肉体が生命活動を停止するという、死亡の反対はなにかと
訊かれたら、どう答えるでしょうか?
ある人は『肉体の一部が母体から露出すること』だと言い、
またある人は『肉体の全部が母体から露出すること』だと言います。
いったいどっちが正しいのでしょうか?
実のところ、上の二つでは、論点が違うだけでどちらも正しいです。
刑法の論点では誕生は『肉体の一部が母体から露出すること』であり、
民法の論点では誕生は『肉体の全部が母体から露出すること』です。
論点が違うものを違う場所で話そうとするから齟齬がでてくるわけです。
それと同じく、『好き』の反対が『無関心』になる論点は存在します。
それは恋愛論ではありません。
かつては今よりもわかりにくかったことと思いますが、
今ではそれがもっともわかりやすいものが
わたしたちの周りにはあふれています。
それの論旨は、こう。
『好きも嫌いも関係ねえ! 関心もたせりゃ勝ちなんだ!』
……さて、この道義をふりかざすもの、ふりかざす連中とは
いったいなんだかわかるでしょうか?
答えは、CMとそれに関わる連中です。
たとえばテレビを見ていて、ひんぱんにCMが入ります。
くだらないCMはくだらない人間を使い、
見ていて不愉快になるものを垂れ流します。
適当に言うならば、食事時にゲロ吐くCMが流れるとしましょう。
見ているほうは食べているものをもらいゲロしそうになって
不愉快な感情しかもたないでしょう。
でも、それでもCMはCMです。
ある日買い物に行ったときなんとなくCMを思い出し、
『あのゲロを吐くCMの商品なんだっけ?』
『ゲロを吐くほどまずいっていうアレ、一度買ってみよう』
と思わせるかもしれないからです。
CMを流さなければ売り上げがないものが、
たとえ不愉快で、一度買ったら二度と買わないものでも、
CMを流したことで一度は買われる可能性が出るわけです。
その点で、コマース理論、マーケティング理論では、
『好きも嫌いも同じもの。まずは関心を持たせることが重要』
となります。
ところが、これは心理学や恋愛論では成り立ちません。
心理学の研究においては、
『無感情・もしくは好感情を持っている相手に対しては、
接触する頻度が高いほど好意を持ちやすい』という結果が出ています。
逆に、『悪感情を持つ相手に対しては、
接触する頻度が高いほど悪感情が強まる』という結果も出ています。
好きと無感情は好意が強まりやすいですが
嫌いは嫌悪が強まりやすいため、
好きの反対は確実に嫌いです。
よって、この二つを同じ観点から見るのは完全な間違いです。
というところで冒頭の、『好きの反対は無関心』です。
これは、よく知られるのはマザーテレサの言葉でしょう。
マザーテレサは降りてきた聖人のように見なされるほどのすごいひとで、
恵まれない人たちを救おうとがんばりました。
そういう人たちを救う、救護院のようなもの、
新しい修道院を作ろうともしました。
もちろん、それをなすには、信仰心だけでは足りません。
本当に神の道を歩もうとするひとたちは、
自分たちの持ち物というものはほとんど捨てています。
心は満ち足りても、お金はほとんどありません。
そんな人たちばかりが集まっても、施設を作ることはできません。
お金がないからです。
お金ばかりは俗物たちからもらわなければいけないのです。
そこで、上記の言葉です。
『好きの反対は無関心』。
これはつまり、
「あなたがたがわたしやわたしの行為を好ましく思うか、
嫌だと思うかは二の次です。
まずは関心を持ってもらわねば、何もはじまらないのです」
という意味です。
たとえば貧民街にホスピスを作ろうとしたら、
「そんな貧しい者を救おうとしてどうする」
「そんなことに使う金は無駄だ!」
「もっとまともなことに金を使え!」
と言う人が出てくるかもしれません。
でも、ホスピスを作ろうといわなければ、その言葉さえ出てきませんでした。
作ろうと言ったからこそ議論が起こり、
本当に必要だと納得させられたなら、お金を出してもらうことにもつながります。
まずは興味を持たせなければ、なにもはじまらないのです。
またたとえば昔は「原発反対!」なんて言っても
だれも聞く耳を持ちませんでした。
大きく声を上げれば、「名前を売りたいから」とか
「どこかからお金をもらってるんだろう」とかといわれるくらいです。
でも、そこでその人が言うわけです。
「おれのことを憎むなら憎め。侮辱するなら侮辱しろ。
でも、そんなおれをきっかけにして、今考えてほしい。
原発の裏金がどこに流れていて、誰が潤っているのか、
現地の人間がどれだけ無駄に潤っているのか、
原発は本当に安全なのか、事故が起こったらどうなるのか、
その事故の補填を考えても、本当に安くて安全なのか、
考えるきっかけになってほしいんだ!」
と。
これが、『好きの反対は無関心』です。
見事なまでに、宣伝論でしか語れません。
というところで、まとめ。
『好きの反対は無関心』とは、
コマース理論・マーケティング理論でのみ、正統に扱える言葉です。
言い換えの言葉は『好きや嫌いは二の次で、
まずは関心を持ってもらわなければはじまらない』あたりです。
これを恋愛論に置き換えて実行してしまうと、
小学生男子が好きな女の子の髪をひっぱったり
ばかにしたりしてちょっかいをかける行為になりますが、
これは心理学的に見ると、どんどん嫌われていくだけなので
なにもしないほうがよっぽどましです。
恋愛論で用いる言葉ではないので、使用の際は充分注意が必要です。