関東に移り住み2ヶ月…。
日々の生活は、会社と家の往復なのであまり感じないが、混雑した駅や人で溢れかえる商業施設などに行くと
何度も「あ…ごめんなさい」「すみません!」と言ってる自分に気がつく…
駅では凄いスピードで歩く人達が、突進してぶつかって来るのである…私がぶつかってるのか?と思いとっさに、謝っているのだ…。
勿論、相手は何事も無かったように通り過ぎる
舌打ちされた事すらあった…
これは、私が単にトロいからか?と思ったりもしたが…いやいやそうじゃない…
例えるなら、流れの速い大きな川に落ちた葉っぱみたいな感覚になる。
満員電車で足を踏まれても、押されても、
皆んな無表情で携帯を触っている…異様な光景がある…。
何だか殺伐としてるなぁ…と思ってしまう。情報過多時代で情緒を無くしたのか?そうしなければ
都会ではやっていけないのか?
社会心理学では、情報が多すぎて処理できなくなった人間は4つの行動をとる傾向があると説いている。一部文献より抜粋引用すると以下の項目
1 受けた刺激に対して、できるだけ短時間で処理する
例) 道で近所の人に会っても、挨拶をかわすだけで踏み込んだ会話をしない
2 重要でない情報は無視する
例) 満員電車に乗り合わせても、他人の身なりや行動には特に関心を払わない
3 責任を他人に転嫁する
例) 困っている人がいても自分には助ける責任はない、人にぶつかっても自分に非はないとする
4 個人的な接触を避ける
例) マンションの隣人に苦情を言うのにも家主を介すなど、直接相手に接触するのを避けて社会的な仲介機関を利用する
なるほど…納得だった。
情報過多の中で、感情に流されず
取捨選択能力を高めないと、自身がストレスをためこむことになる…
都会の人は無意識のうちにこのような行動をとることで、情報や刺激に振り回されないよう、自分自身を守っているのかもしれない。
都会に住むことで人間性が冷酷になってしまうというわけではなく、都会という環境に適応させるためにそうせざるを得ないのだろう…。
確かに、空を見上げれば高層マンションに囲まれ見えるのは電線ばかり鳥の鳴き声も聞こえない…
星も見えない…
隣人には会った事すらない。そんな環境に私も身を置いているのだ…
熊本にいて当たり前だった事が、こっちでは当たり前ではない…。
元々、人との柵が嫌いな私にとって、何ら問題ないかの様に思っていたが、情緒が欠落してしまうのは別な話だ…
有難いことに、今の職場はコミュニケーションも活発で、笑顔に溢れ、人も温かい…その事で自分を見失う事なく生活出来ている。
都会の殺伐とした中でも、そこに集う人たちによってこんなにも世界が違って見える…。
そう考えると、そこに集う人達によって形成された独自の企業文化というのはとても大切なのかもしれない。
唯一無二の企業文化を創る…理想の会社を創る…そんな使命を持って上京したが、
情報に惑わされ、何が正しいのか分からなくなる事もあった。
この会社にとって…
他の企業にはない唯一無二であり、最も価値があることは何だろう?常に問いかけてきた。
自由な社風であることが価値ではない…
確かに他の企業に比べると、強制や権力や派閥もない自由な社風であるが、そこが唯一無二なのではない。
気がついた一つの例として…
私の会社は、週に二回12時30分から30分間
社員全員が社内を掃除するのだが、誰に言われるのでもなく、時間なると皆んな一斉に掃除を始める…
エアコンのフィルターをも外し、沢山ある窓も
床も隅々まで全て役割が決まってる。
ふと、気がつくと本当に皆んな黙々とサボル事なく一生懸命に掃除している…
若いエンジニアが丁寧に窓を拭きあげる姿…
植木に水をやる社員…脚立を使ってエアコンのフィルターを掃除する社員…
誰一人としてこの掃除の習慣に愚痴る人もいない…むしろ皆んな笑顔で掃除している。
これは当たり前なんかじゃない…そう思った。
そしてもう一つ、若手社員に「会社の雰囲気は?」についてコメントを求めた時、以下のようなコメントが返ってきた。
「努力したことがすぐに結果に現れ,仲間からの意見や評価を得られるので頑張ろうという気持ちが自然と沸き起こります。」とか
「みんなの仲が良くて、明るく風通しの良い会社です。歓迎会やイベントの時などは笑いが絶えません」とか
「話をしっかりと聞いてくれる方が多く,分け隔てなく接し会えるので風通しがとても良いです.
活発で行動力があり,その場にいると皆が同じ目標に向かって取り組んでいるということがよく分かります。働いているというより挑戦し続けていると感じることの方が多い会社です」
といったコメントが普通に返ってくる。
※上記コメントは本人の文章よりそのまま抜粋したものです。
私のこれまでの社会人経験では、若手社員の多くは、先行投資と言われ手厚い研修を受け、社会人として様々な事を学ぶなかで「社会人としてこんな風に答えないといけないんじゃないか?」
最悪「こんな風な書き方をするのが正しい」と指導され、そのようなコメントを修正されながら書いているのは見て来た…
しかし、彼らは、新卒のような手厚い研修も何もこれまで受けたことがない社員ばかりだ…そのまま自分の言葉で書いているのである。
彼らにとっての「あたりまえ」が私にとっては感動以外の何物でもなかった。
何が違うのか?随分考えた…
私は彼らの姿を見て本当のマネジメントとは何なのか?を考えさせられた。
何の強制やルールがなくても、彼らはちゃんと成長しているのである。そこに上司がいようがいまいが仕事のやり方は変わらない…役割責任を果たそうとしている。
人としての誠実さや、素直さ、優しさも持ち、一生懸命頑張っている。
遊ぶ時は目一杯楽しむ。会社のイベントも食事会も強制ではないがほぼ皆んなが参加する
仕事する時は集中して頑張る…
お互い様の精神が根付いているので、会社に対する批判も人との比較も誹謗中傷もない…
会社の規模、ベンチャーという事もあるかもしれないが、トップ、ミドルマネジメントが仲が良い。信頼関係があるという社風こそ価値があるのではないか…そう考えるようになった。
何か問題があれば、どれだけ時間をかけてもオープに本音で話し合い、上司自らが常に笑顔でいる事…職場に上司の笑い声…ともすると爆笑する声さえ聞こえること…
これも当たり前の光景ではない…
部下は皆、そんな空気感の中で自然と成すべきをなし成長しているのである。
この会社の唯一無二の価値とは「人」であり「仲間」なんだと思った。
カルチャーとは、そこに集う人が作るものなんだと…
これから私の最も重要な課題とは、この文化を大切にし絶やさないことだ。
異文化によって変えられない、硬い信頼関係と強さと優しさを持った血の通った企業文化を唯一無二の文化として守ることだと改めて思う。
あるひとこと…
2人の子供がいる男性幹部が、上の娘さんが入院し
奥様が付き添っているので、自分が下の子の面倒を見なくてはならない…と1歳半の男の子を連れて会社に来た…皆んな家族のように温かく受け入れ、朝礼の場に1歳半の男の子も参加する…という場面があった(笑)
その光景を見た時に、これが私たちの文化なんだと思った事もあった。
私たちは、知らない間に常識やルールに縛られ
猜疑心を持って人と接し、何が正しいのか分からなくなっていくのかもしれない…と思った。
ただ一つ、信じるべきは
そこに同じ価値観で集う「人」を信じるという事
なんだと。
そこに集う仲間を疑い、妬み、比較し、問題が起きても、当事者意識を失い、他人事になり、問題を放置したところから信頼関係が綻び始め、自分を守るために他を攻撃するようになる…
こんな綻びが戦争の発端なのかもしれないとさえ思うようになった。
私の持論だが、強制やルールによって人を管理するのは比較的簡単で、信じることの方がずっとエネルギーが必要だし、人や物事の本質を見極める力も必要になってくる。難しいのは後者の方だ
自分自身も何かと試される機会があるからだ。
長々と書いたが…結局何が言いたいかというと
人は環境によって良くも悪くも変わるし、環境に順応するという事…
そして、子は親の背中を見て育つという事…だろう。