nekomitu日記

ポンコツ日記

感じる

2016-06-20 23:42:15 | 日記



唐突だが、私は自分の世界観を持った人が好きです。それは独特な感性であれば尚更魅力的です。

私自身も自分の世界観は大切にしているし、豊かな人生を送る上で「感性」も大切にしている。

私は、どうにも自分の感情が扱えなくなると、音楽に浸る。その時々の感情に合った音楽を聴く..。

音楽逃避

音楽は決して裏切らないし、どんな時でも私の感性を癒してくれるからだ。

何か楽しい事や人と会って気を紛らわす事は基本的にしない。

若い時から人に相談したり、頼ったりする事はどうにも苦手で、大音量の音楽の中に身を置いき、自分を浄化していた気がしている。

音楽に酔うって感じだ。

酒は全く飲めないが、音楽に酔い朝まで過ごした事も多々あった。

そんな自分の感性を理解してもらいたいとも思わないが、その中に同じような感性で一緒に居てくれる人は心地よい関係が築ける。

音楽だけではなく、季節ごとの風の匂いや空の色、雲、星、花、鳥の声、水、身体に染み入るように感じる瞬間、そこに色を感じて生きてる事の幸せを感じる。だからこそ、自分の感性や世界観といったものはとても大切にしたいと思っている。

私にとっては、どんなブランド品や高価な物より大切なものだろう...。

話は変わるが、

私は、人の声も「音」として捉える癖がある。だからとても気になるし好き嫌いがある。

男女共に声の大きい人、声が高い人、早口で喋る人、叫んだり怒鳴ったりする人は、どうしても敬遠しがちになる。これは、若い時からだそうだった。

その事が理由で、度々喧嘩した事すらあるくらい苦痛に感じる事がある。

だからだろうか、TVは付けていても音は限りなく小さくしている。雑音としか捉えられないからである。特に、某お笑い芸人や、女性がギャーギャー騒ぐ場面が出てきたら、途端にTVを消すので
いつも笑われる。

好きな音楽は、音響の良いところで大音量で聴く。これは人の声やTVの音とは違って、音に包まれている感じがする。これはとても心地よい。



またまた話は変わるが...

私は「世界観」を語る上で大切にしている想い出がある。

それは、過去にとても好きだった人の事.,。

その人は、私の世界観や感性をいちいち説明しなくても感じ取ってくれているのがわかった。同じ物を美しいと感じたし、好きだと感じていた。生まれて初めてそんな男性に出会った。

魂が共鳴する感覚だった。

生い立ちが似ていたからかもしれないと思ったが、それだけでなく、その人の内面から滲み出る空気感、声、話し方、笑い方、全てが心地よかった。

それは、
とても好きな音楽に出会った時の高揚感というか、ときめきのようなものに似ていた。

掛けてほしいと思っているタイミングで、まるで心を見透かされてるように、欲しい言葉を掛けてくれる人だった。不器用だけど「有難う」と「ごめん」は、とてもストレートに言える人だった。

こんな厄介な性格の私の心に、寄り添ってもらえていた気がした。


結局、その人とは、手に軽く触れる程の関係で、結ばれる事はなかったが、もう二度とあんなに魂を揺さぶられる人に出会う事はないだろうと思っている。とても男気があって温かくて誠実な人だった。

そんな、純粋で精神的な心の繋がりを重視した関係を、プラトニックというのかもしれない。

だけど、いくつになっても私が求めているのは、そんな感性と世界観なんだと改めて思う。

互いの世界観を感じつつも多くを語らず、傍にいる事に心地よさを感じて、ただ手も繋いで季節の変わり目を感じて歩く..。そんな関係を求めているんだと...。


こんな風に、理屈じゃない、安易に説明できない
そんな感性や世界観を持った人って、孤独とか、言い様のない闇とか、愛とか、欲求とかが心の中に混沌と渦巻いていているけど、

そんな事、表に出さず生きている人なのかもしれない。

今夜外は、豪雨と暴風、雷...まるで空が壊れていくような地鳴りのような不気味な雷鳴

本当は、一人心細くて泣き出したい衝動に駆られたけど、こんな夜も音楽は寄り添ってくれた。

他に何も要らないと思えるこの感性をやっぱり大切にしたい...。そう思った夜だった。








































仕事の価値観

2016-06-15 02:22:40 | 日記


私は、仕事をする上で大切にしていることがあります。

それは、「相手も幸せ、自分も幸せ」という双方が良い結果をもたらさなければ、良い仕事ではないという考え方です。自分だけが利益を得るのではなく、仕事で関わる全ての人が、

Happiness-Happinessにならなければ意味がないと思っています。

Win-Winの法則と同じような考え方です。


どちらかが得をして、どちらかが損をするという「損得関係」ではなく、双方円満に、利益を生じさせる仕事が良い仕事だと思っているからです。

そして、
その思いは、独立して一層強くなりました。

私の仕事は物を売って対価を得る仕事ではありません。
自分のスキルやノウハウを提供することで人の成長に関与する仕事です。

だから、私自身は常に正直にオープンマインドで誠実に接し、良い信頼関係を築かなくてはなりません。そして学び続ける必要があると思ってます。

もちろん「あの人に関わってもらって会社が、人が良くなった」と目に見える成果も、出さなければなりません。

常に相手から求められているものは何か?どんな仕事をしたら喜んでいただけるか?を考え、自分の考えややり方に固執せず、臨機応変に対応するようにしています。そのやり方は自らの成長にも繋がっていきます。

何故なら、経営者の方はの思考は常に、広く、長く、前に、未来に向けて動いているので、その時々で方向性が変わるのは当然のことなのです。

なので、しっかり
その依頼の目的を確認し、仕事を進めるようにしています。もう1つは、その事を実施する事によって何が良くなるのか?変わるのか?という事も
明確にイメージして取り組みます。



話は変わりますが...

私は今、仕事で若い起業家の方たちと一緒に仕事で関わることが多いのですが、それぞれに自分のやり方や、考え方に固執する人は一人もいません。

良いと思ったことは躊躇せず、判断も早い。尚且つ思考は柔軟です。何より熱意とチャレンジ精神に溢れています。常に「今より良くなって人や社会に貢献したい」と思う人たちです。

みんなオープンマインドで、それぞれの弱みや強みをオーブンにされますから、発展的で健全な議論ができます。虚栄心など微塵もなく、謙虚であり至ってシンプルな考え方をします。

「できるためにはどうしたら良いか?」という事だけを考えます。阻害要因は阻害要因として捉えないのです。

そして、信頼関係を築くためのコミュニケーションは、しっかりと相互理解が出来るまで話し合う。向き合う。

そしてその想いを理解し、共鳴し合った人たちが、それぞれが支援し合い、成功を喜び合える。そんな素晴らしい方々とのご縁を繋いで来られたとを心から幸せに思っています。

仕事をしていると、不条理な事にも沢山出合いますが、そんな中にあっても、本当にどうしたらみんなが幸せになれるのか?という想いがブレない方たちとする仕事は、みんなポジティブシンキングで「良い言葉」や考え方がどんどん溢れてきます。

私は、確かにコンサルタントという肩書きを持ち、自分の仕事に誇りを持っています。

しかし、それは周りの人に恵まれ、支えられて初めてできることなんです。「先生の講義がすごく楽しかったし勉強になった」とか、おかげで社員の言動が変わってきました...など、そんなフィードバックを頂くと、

もっと勉強して更に喜んでいただくためにどうしたら良いか?を常に考えて、仕事をするようになり、人との関係や情報にアンテナを張るようになりました。

そうすると、同じ価値観を持った良いご縁は必ず何らかの形で引き合うと感じています。

どうせやるんだったら是非あの人と仕事がしたい...と思える方々に恵まれるだけでなく。自分自身もそういう価値ある人間になりたいと思ってます。

利益を得ることよりも、相互支援の中でそれぞれが思い描いた「やりたい事」が実現できる事こそ価値があると思っています。

利益を得る事も事業をする上で大切な事ですが、本当に成功者となれるには、物心両面共に豊かになる事こそが大切なんだと思っています。

これからも、豊かな人生を送れるよう
感謝の念を忘れることなく、日々謙虚な気持ちで精進していこうと考える今日この頃です。













天職

2016-06-09 20:52:49 | 日記


TVで林修先生が「座標軸」を用いた面白い話をしていた。

久しぶりに引き込まれるようにその話を聴いていた。

テーマになっていたのは、やりたいことをやって幸せになる...みたいな話し。情報処理能力やマズローの5段階欲求をベースにわかりやすく面白く、テンポよく話していた。

自分がやりたくないけど、出来ることをやれば、楽に幸せになれる..なんて話し。

しかも、やりたくない仕事であっても、その仕事によって、承認欲求が満たされればやりたい仕事に変わる事もある^_^

わかりやすくて、シンプルで納得の内容だった。

何故なら、自分もそういった経緯があってやりたいことを仕事にできる「天職」みたいなものを見つけたからだ。

若いときは、自分のやりたい事も特に見つけられず、手当たり次第に転職をくり返していた。

当時、周りから「向いているね」と言われていた仕事は、お酒は全く飲めないのに、水商売や営業職だった。

所謂、対人スキルとか、コミュニケーションスキル、自己管理能力を問われる仕事。


だがそれらの仕事は、ほどほどにできてはいたけど、自分がやりたいことではなかったし、向いているとも思わなかった。

努力しなくても感覚や要領でやっていたし、中卒という学歴のない私は、その2つの仕事だけは、何故か即決で採用になっていたという理由で、仕方なくやっていたからだ。

当時は、根拠のない自信とやる気と行動力だけは自信があったので、何故か面接受けだけは良かったようだ(笑)

そんな私が初めて、デスクワークの仕事に就いたのは、30代前半のこと。

当時、パートとはいえ、1日の経つのが遅いこと...なぜなら机にずっと座ってする仕事だし、パソコンすら触ったこともない。しかし、当時の社長は「やりたいことやっていいよ!」の一言だった。

え...,,。余計悩んだ....

果てに言われたのは、「とりあえず一通りやってみて」だった。

そして、電話番や事務的なことをやっていたある日のこと「何かしら商品作ってみない?」女性の悩みを解決できるような商品を...と、社長。


は?.....。更に混乱した...

私の職歴はといえば、美容師に始まり、アパレルの店員、水商売、様々な営業の仕事。

商品作る???まさに未知の世界だった。

一体どうやって商品作るの??何からやればいいの?結局、「シミシワ対策の美容液」と「ダイエット効果のあるお茶」を企画し製品化、販売までのプロセスを同時にやることになった。

で?何からするの?となった時、私に1人の上司というか、仕事のやり方そのものを教えてくれるコーチみたいな人が付いてくれた。

その人は、とても頭が良くて弁も立ち、対業者間のやり取りもスマートでサラリとやってのける...
私からすると、全く別世界のデキる男性だった。

その人から商品開発のノウハウを学びながら、2つの商材を作ることになった。

限られた時間の中で、専門用語は飛び交い難しそうな交渉が次々に出てくる。さっぱり訳がわからない...。

「この人みたいに仕事できたらカッコいいだろなぁ~」って思いながらいつも見ていた。しかし、その人は、ある日私にこう言った。

「僕は、誰にも負けない頭脳や知識はあるが、残念ながらカリスマ性も人望もない...」と。

そして、「だか、ここの社長はカリスマ性がある。君には人を惹きつける人柄と人望がある。経営者はこの3パターンしかいないんだよ。だから、同じ釜の飯を早く一緒に食べような...。」

と言われた事は、その後の私の職業人生の糧になり、忘れた事はない。

それより、不思議だったのは、この人と仕事したこともないのに何故「君には人を惹きつける人柄と人望がある」と言ったのか?ずっと謎だったが、とりあえず嬉しかったので調子に乗った^_^

その人のマネジメントスタイルは、冷静且つ客観的で論理立てて話をしてくださり、何よりこんなに頭の悪い私の目線に下がって、わかりやすく教えてくださったが、「自分で考えて行動する」ということを求められたので、ある意味では厳しかった。

それはそれは気が遠くなるプロセスに何度も心折れそうになったが、

その後、3ヶ月間で無事に美容液とダイエット茶の2つを製品化し販売までこぎ着けた。

それが私の商品開発デビューとなり、その後は、商品開発部門を立ち上げ、部門の責任者になった。

時を同じくして、会社はどんどん売り上げを伸ばしていったが、社員が足りない...そこで、社員の採用や育成を必然的に私がやることになった。

ということで、人事部門と商品開発部門の全く異なる部門の責任者として動くことになる。

毎日が戦争のような日々...だけどやりがいを感じていた。何故なら、ある意味私のやりたいように社長がやらせて下さったからだ。

そして、一方でたくさんの学ぶ機会も与えてくださったし、自分の知らない世界を沢山見せてくださった。

その時から「自ら考え自ら動く」という習慣が付いた。失敗も多かったが、成功体験も重ね達成感を味わいながら、成長する自分を感じることができていた。


そんな毎日....当時のスケジュール帳は、真っ黒だった。

私は、初めて仕事にやりがいを感じていた。明けても暮れても仕事のことばかり考えていたし、どうしたら会社が良くなるか?

そればかり考えていた。家庭との両立も苦にならなかったし、むしろ毎日がイキイキとしていた。

そんな日々を送っていたある日、前回のblogの状況に徐々に陥っていった。

自分に限界はないと思っていたが、明らかにキャパオーバーだったのだろう。

そうして、前回のblogの通り、私は「生まれ変わる転機」を得た。

復職してからは、私にできること何?私が得意なことは何?社長が私に期待しているのはどんなこと?と考えるようなった。


気がつくと私は、社長の秘書業務をやりながら、社内の対人関係のトラブルの対処や、会社の沿革を自分の言葉で語る、理念経営を定着させる。という役割をやることになっていた。

何がしかの社内外の対人トラブルがあると、私に対処するようにと指示があった。

ある日、社長に聞いた「社長が私に期待されてることは何ですか?」と。

社長は「社員のロイヤリティを高め、人としての正しさや、礼儀礼節をしっかり社員に定着させて欲しい。そしてマインドの高い社員を育成してほしい」とおっしゃった。

それが、会社に復職して明確に与えられた当時の私のミッションだったと記憶している。

それからは、試行錯誤しながら何とか社員育成に取り組んできた。育成に関わる中で、共に泣いたり笑ったり、喜んだり...。そして何よりも悩んでいた。

ある日、ふと思った。

私は、人の成長に関わる事が、もしかすると天職かもしれないと...。

社長は、私にできること、得意なことを役割として与えてくださったのかもしれないと。

その役割を果たす中で、自分自身が仕事を通じて自己実現できていること、同時に、もっと自分にやれることがあるかもしれないと考えるようになっていった。

若い頃は、そんなことが天職になるなんて思いもしなかったが、結局、51歳で独立し、やりたい仕事をやれる自分になっていた。

組織の中では、限界があり果たせなかった事を、今やろうとしている自分がいる。

しかし、これまでの経験がなかったら、自分の天職もわからないまま迷走した人生だっただろう。そして、独立なんて夢のまた夢に終わっていただろう。

今の私があるのは、社長という師に出逢い、人との縁に支えられ、そして、そのご縁の中で周りに育てていただいたと思っている。

そして、今も仕事を通じて繋がった縁は、何らかの形で繋がり独立しても尚、続き支えてもらっている。

とはいえ、この仕事は、ここまでやったら大丈夫というゴールがない。感謝、素直さ、謙虚さ、熱意、真摯さを念頭に日々精進するのみです。











































生まれ変わる

2016-06-07 23:37:47 | 日記


真っ黒で重たくて、ドロドロした暗闇が身体に纏わりつき...思考を止める。自分の心拍さえも感じない...暗闇に引きずり込まれる感覚..

頭の中は「消えて無くなりたい、死にたい」その言葉だけがぐるぐる回る...頭は締め付けられる
何の感情もないのに涙だけが止めどなく流れる...

夜が来るのが怖くて、眠れず...たまに眠ると悪夢で目がさめる。
そして髪の毛をむしる...腕を噛む...叫びたい
枕に顔を埋め、「助けて」と、声にならない声で叫び泣き続けた。

部屋の隅っこに居ても黒い闇のヘドロみたいな「それ」は足元から襲ってきて、捕まえに来る。

私の居場所はどこにもなかった。

意識は朦朧とし人の話が理解できず、自分も言葉を発する事が出来ず...ひたすら泣いていた。頭の中にあるのは「消えて無くなりたい」という事だけ。

気がつくと私は精神科の閉鎖病棟のベットの上で点滴に繋がれていた。鈴虫の声だけが聞こえていたのを今も覚えている。


私は、今から12年前の夏頃、突然こんな状態に陥った。重度の鬱病と診断され入院したのだ。


事故を起こしたり、仕事でミスが続くようになり、常に思考が混乱し、家庭ではトラブルが続き、仕事中強烈な睡魔に襲われ、気がつくとパソコンに顔をぶつける...

会議中に無意識に眠る等の前兆はあったが、病気だとは思いもせず病院へも行かず「責任者としての責任を果たす」事だけを考え早朝から眠れぬまま出勤し続けた。

そんなある日、「最近おかしいよ...」「暫く休んだら?」と周りから声を掛けられたが、こんな自分は会社にいる資格も責任者としての資格もないと、結果退職という選択を選んだ。

結果的に、病状は退職後、更に悪化した。
まさに抜け殻のようだった。当時の記憶は未だに曖昧なままだが、黒いドロドロな「あれ」の記憶だけは鮮明に残っている。

のっけから重た~い話になりましたが、この経験が私を生まれ変わらせてくれたと今となっては感謝している。

結局、退職から10カ月経った頃
社長のご厚意で会社に復職する事になったが、
暫くは通院を余儀なくされたが何とか仕事ができる状態にまで回復していった。

私は、もう二度とあんな地獄を味わいたくない...
うつ病なんて怠け者がなる病気だと思っていた私が、何故心があんな風に壊れるのか?人格が崩壊するのか?その理由や仕組みを知りたいと思った事が生まれ変わる、生き直すきっかけになったのだ。

そんな自分の経験から、会社では、秘書業務の傍ら、新卒のメンタル面のフォローに当たっており毎日何かしらトラブルが続いていた。

そんなある日、就職して一年が経った自分の娘が、たて続けに事故を起こしたり、眠れないと訴えていたが、仕事でいっぱいいっぱいだった私は、そんな娘のケアすらできず、娘が何度も会社で倒れていた事を会社からの連絡で知る事になった。

「まさか...」最悪な事が頭を過ぎった。

娘の診断結果は、パニック障害だった。
休職を勧められ3ヶ月休職する事になった娘は、休職してなお一層病状は悪化していった。

毎日毎日「仕事ができない自分はダメな人間だ」と自分を責め続け、そのうちリストカットを繰り返すようになった。

夜になると過呼吸と自殺未遂を繰り返し、白目を剥く発作を起こし、何度も病院へ搬送する。何かに取り憑かれたかのように別人格の娘がそこにいた。お祓いにも行った。

目を離すと手当たり次第に薬を全部飲む。結果的に娘も一度目の入院をしたが、病室で自傷行為を繰り返し2日で自宅に戻され、更に病状は悪化の一途だった。

「このままではまずい...私も引っ張られてしまう」仕事しながらの壮絶な日々が続き、私の精神状態も限界に近づいていた。

そして、娘の病気を認めたくない主人は娘に手を上げたこともあったり...家庭の中も荒んでいった。

ダメだ...私がしっかりしなければ皆んなダメになってしまう。そう思い、仕事、家庭のこと、娘の世話の傍ら心理学の講座に通い学ぶ事を続け、カウンセラーの資格を取った。心が壊れる..その理由がわかってきた。

娘は、一旦復帰するも再発し、薬だけが増える一方だった。セカンドオピニオンで病院を転々と変わるが、一向に改善の兆しがない。

すがるような思いで、これまでの経緯を全て大学病院の精神科のある教授宛にメールし、1ヶ月間大学病院へ入院する事になった。

丁度、大学病院の精神科では、あるプロジェクトのようなチームがあり「こころの診療科」というその病棟に入院する事になった。

しかし、病院に向かう車の中で娘からこう罵られた「どうせ、私が邪魔なんでしょ。だから入院させるんでしょ.,」と。涙をこらえ病院へ連れて行くと教授自ら玄関まで迎えに来てくださった。

病棟で娘は、自分より重度の患者と接する中で、客観的に少し自分を見られるようになっていった。

そして娘の正式な診断結果は、境界性人格障害、大うつ病、パニック障害と3つの病名である事を知らされた。

それから暫くは、私も含めた三者で大学病院でカウンセリングに通った。

そして、運が良い事に、娘は主治医から特別なDBTという治療を受ける事になった。治療というより、訓練や学習のようだった。初めは苦しくて泣いていたが、娘も治りたい一心で病院へ通い続け、徐々に薬も減り、仕事にも復職し、3年経った頃には、薬も通院もなくなっていた。



娘もある意味、自分で自分がコントロールできない苦しい壮絶な時間を経験した事になる。

娘の主治医からは、完治の見込みが低い、あったとしても長い戦いになりますよ...
それだけは覚悟してくださいと言われていたが、娘は、自ら学んだり努力することで、この壁を乗り越え、新しい仕事にもチャレンジしたり...明らかに強く、そして優しくなっていき、去年母親になった。

そんな娘を、私は心から誇らしく思う。

そもそも、私の波乱の人生の中、生まれてきてくれた娘、その娘も共に紆余曲折の人生を私と生き、戦ってきた。私たちは親子であり、姉妹であり、親友であり、戦友であり、同志だと思っている。

今となっては、そんな過去も2人で笑い話として語れるようにった。そしていろんな事に感謝できる人間になれた。何より生まれ変わり、生き直してると私たちは思っている。

諦めなければ必ず本来の自分を取り戻し、暗闇を抜け、そして強くなれる。

更には人生を楽しめるようになる。生きることが楽になる。

だから、私たちは、この経験に心から感謝している。だから隠さないし恥ずかしいと思わない。

そして、いつかこの事を、同じ病気で苦しんでいる人のために、もっと詳しく書いてみたいと思っている。























コンプレックス

2016-06-05 19:52:39 | 日記


コンプレックスとは?

精神分析で、感情の複合。現実の意識に反する感情が抑えつけられたまま保存され、無意識のうちに現実の意識に混じり込んでいるもの。強迫観念や夢はこの複合が象徴的に現れたもの。特に、「インフェリオリティー コンプレックス」(劣等感)の略....とある。

突然ですが...

私は、自分の容姿にかなりのコンプレックスがある...

長年飲用し続けているステロイドの副作用は、一番悲しいかな顔に出る。もともと不細工な顔が余計に崩れてゆく

そして歳を重ね緊張感を無くした身体は、引力に負け水すら弾かない(笑)しかしこれらは加齢によるものもあり、諦めも出来る^_^

その他学歴や、諸々のコンプレックスを抱えて生きてきた。言い出したら本当にキリがない。

私は幼い頃、母親が私に言った言葉をずーっと守っていることがある。

「顔がブスなのは仕方ないから、髪の毛と肌だけは綺麗にしなさい...人前ではきちんとした身だしなみをしなさい

という言葉。

だから若い時から肌を焼くのを避け、髪がボサボサだと外出さえしない。

お金をかけた化粧品やエステ、美容室での手入れは全くしなかったが、母親の口癖でもあった「きちんとしなさい」「ちゃんとしなさい」という言葉が心に残っていて、いつも頭を過るのである。

しかし、その甲斐虚しく結果的には現在がある。

未だに、友達にさえにスッピンを見せることはない(笑)コンプレックスを緩和させる仮面ですね^_^


若い時は、容姿もさる事ながら、頭の悪さもコンプレックスだった。言葉を知らない、計算できない、上手く話せない、人見知り、太ってる、背が高い、不細工、などなど...

男性からは「デカイね」「儚げさがないね」「一人でも生きていけそうだな」「強いね」など言われてきたので、私はそんな女なんだな
...と諦めていた。


そして、そんな自分が周りにバレないように強がったりイキがったりしていた。苦手なことから逃げてきた。いつも「どうせ私は...」と思っていた。

だけど、結婚や出産、仕事、人との関わりの中で
見た目も学力も人並み以下なら、内面を磨くしかない....ふとそう思うようになった。

以前のblogでも、私の生き方考え方が変わったプロセスについて触れてきたが、とにかく人と違うことを好んでやるようになった。


30歳を過ぎた頃から、自分の苦手なことから逃げなくなって、みっともない自分も受け入れられるようになって..,

自分を大切にするとか、好きになるという意味もわからずいたけど、
大嫌いだった自分が少しだけ好きになれた気がした。

未だに何かと人と同じは嫌いだ^_^

ギャップを楽しんでる節もある...。

何が言いたいかと言うと、

コンプレックスは無いよりあった方がいいのかもしれないということ...隠すよりさらけ出した方が良いということです。

自虐的でも自分のコンプレックスを堂々と話したりすることで、相手も自分自身も受け入れるようになった。恥を掻くことが怖くなくなった。

コンプレックスをバネに頑張ることもできた。

未だに克服できない容姿のコンプレックス以外は
何となく受け入れて克服できたのかもしれない。

容姿のコンプレックスがあるが故に、写真に写ることを避けてきたり、体型が隠れる格好、化粧をしてきたが、

ある日カメラマンの友人に「毎日、自撮り沢山してください。そうすることで自分に自信が持てるようになりますよ」って言われた。

初めは頑なに拒んでいたけど、今は便利なアプリもあるし^_^やってみようと思った。

初めの頃は、写真の自分を見てなお一層凹んでいたが、やっていくうちに、角度や姿勢、表情を工夫したり意識したりすることで、ちょっとだけ直視できるようになってきた。

そのことを友達に告げると「ねっ!そうでしょ...っと」わかっていたかのように笑っていた。

そして、その友達は、私が知らない間に、私の膝から下の脚の写真を隠し撮りし、モノクロに加工してインスタグラムに素敵な言葉と共に投稿したのである。

ぎゃーっ!何で!!と言ったら「だって、いつ見ても綺麗な足首なんだもん」と言ってくれた。
どこ見てんだ~って思ったけど正直嬉しかった。


顔から真っ赤になった。そんなの褒められたことも無いし言われたことも無かったからです。

おやおや...

私にも人様から褒めてもらえる部分があるのか...

それから自分の脚をしげしげと眺めて、ちょっとだけ好きになった気がした。

ということで、私が時々自撮りをSNSに投稿するのは、所謂リハビリの一環なワケです^_^

もうこの歳になると、だーれも褒めてくれませんが、人前に立つ仕事をしているので可能な限り
緊張感を忘れず磨いていこうと思う今日この頃です。

最後に...

私のコンプレックスを、より強固にしたのは
母親の口癖だとわかっていますが、そんなこともうどうだっていいと思っています。

目指せスッピンで外出‼️それができたら全て克服です^_^