新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

11年目の南大東島 再訪の目的。

2023-09-21 18:16:29 | 沖縄

 私は2012年(平成24年)に沖縄の南大東島を訪れた。特に有名な観光地がある訳でもなく、交通の不便な離島に出掛けたのはふとした思い付きであった。
 20年以上前、陸軍士官学校を卒業した旧陸軍将校から、南大東島に駐屯していた時の思い出を聴取することがあった。絶海の孤島に派遣された将校の体験談は、激戦のあった沖縄本島とは全く違ったものであった。毎年夏期になると、テレビ番組では沖縄戦の記録や検証が放映されているが、それらは本島や周辺の島々に限られていた。私の記憶に有る限りでは、南大東島での戦闘記録が放映されたことはなかった。何故だろうかと考えると、地上戦が無く、直接の戦死者がいなかったからと思われる(艦砲射撃による少数の戦死者はいたが)。南大東島について特に詳しい資料や戦記はなく、入手できるのは薄い旅行ガイド程度であった。陸軍将校からの思い出話と島の沖縄戦の記録から外れていることが重なり合い、どのような離島であるかを直接確かめたくなった。これが11年前に南大東島を旅することを思いついた理由であった。
 全く未知の島であったが、そこには市井の人達の社会生活があり、独特の文化があった。それらは絶海の孤島に特有の風俗、習慣であり、私にとっては物珍しい体験であった。前回の旅行で見聞してきたことをまとめ、「南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2012年」とタイトルしてブログを立ち上げた。単なる旅行記とは違った視点でまとめたのか、ブログの訪問者は毎週2~3百人程度あり、南大東島を知ってもらうためには多少は役立っているのではないかと自負している。
 最初の旅行から10年が経過した頃、また南大東島に出掛けたくなった。10年間の時間が経過した島を訪問し、社会、風俗がどのように変わったか、或いは変わらなかったかを確かめてみようと考えたからであった。しかし、後述する理由により10年目の訪問は叶わず、11年目の2024年9月に再訪することになった。
 こうして、11年後に私が南大東島で見聞してきた社会、風俗を新しくブログを立ち上げて、記録することにした。しかし、前回の旅行で体験したことを再度ブログに投稿しても無益なことである。このため、今回のブログでは、前回の旅行では見聞できなかった事項、及び、前回とは違ってきた事項にのみ投稿することにした。今回の旅行で変わらなかった島の社会、風俗については掲載しないことにした。前回のブログを参照していただければ十分のためである。
 このブログの文章中で「前回」とあるのは2012年の旅行のことを指し、「今回」とあるのは2023年の旅行を指しているためご注意下さい。
 では、一般の旅行者には馴染みの薄い、南大東島の社会生活をご笑読下さい。

 


コロナによる島の影響

2023-09-20 12:47:02 | 旅行

 

 最初の訪問から丁度10年目の2022年に南大東島を再度訪問することに決めたが、これがとんでもなく困難なものであった。それは新型コロナウイルスの蔓延による影響であった。
 ご承知のように、2019年末に中国でコロナウイルスが発生し、またたく間に世界に拡散していった。日本政府は、2020年1月より感染予防のために数多くの対策を立案し、実施することになった。コロナウイルスの感染は感染者からの咳による空気感染であるため、人との接触を避けなければならない。このため、国民の行動を制限する方針を打ち立て、人が密集するような会合、会議は避け、マスクを外して飲食する外食や飲み会は自粛するように指示が出た。仕事では、出勤せずに自宅で作業をするリモートワークやウエブ会議が主流となり、飲食店、居酒屋には休業の要請がなされた。このため、通勤電車はがら空きとなり、夜の繁華街では飲食店の多くが店頭の電気を消したため街全体が暗くなった。このような急激な社会変化は、日本の歴史においては極めて珍しい出来事で、その後の社会構造に大きな変革を与えることになった。
 では、人口が千数百人程度の小さな南大東島で、コロナウイルスが拡散したらどのようになるであろうか。大変なパニックになったであろう。島には診療所が一か所しかなく、駐在している医師は一名、看護師は一名であり診療体制は脆弱である。コロナウイルスに感染した重症患者を救うためのエクモも無く、こんな体制でコロナウイルス患者が発生したらどうなるであろうか。治療はできず、島中にコロナウイルスが伝搬し、患者が溢れることが目に見えている。
 実際、南大東島では過去に感染症の発生で悲惨な事件が発生した。1913年12月にパラチブス患者が発生したが、医師がインフルエンザと誤診したため島内にパラチブスが蔓延した。そのため、島民2千5百名の内1千5百名が発病し、内2百名が死亡するという大惨事となった。また、1920年にはハシカが蔓延し、5か月間に小児120名が死亡するという痛ましい事件もあった(南大東村誌より)。
 このような過去の体験から、狭い島内でコロナウイルスが蔓延したらどのようになるかは十分に予想できた。このため、島を挙げてコロナウイルスの感染を防ぐことになった。南大東島でコロナウイルスの感染を防ぐために採用した手段は何と「鎖国」であった。村の役場を公務で訪れる公務員、公共工事などに関連した作業員などの身元のハッキリした人だけを入島させ、不要不急な観光客の入島を断るのである。島外から見知らぬ人を入島させなければ感染は防止することができる。当時の南大東島のホームページには、「ワクチン接種をされ、発熱していないことを確認してからご来島下さい。体調不良の方は来島を延期され、改めてご来島下さい」という意味の掲示が出されていた。
 幸いな事に、島への移動手段は飛行機か定期船だけである。渡航方法が限定されているため、感染者のチェックは容易である。また、観光客の入島を制限(遮断)するために、全宿泊施設は一致協力して観光客の宿泊予約を中止することに決定した。どこのホテルに予約の電話をかけても「受け付けていません」と冷たい返事であった。ただ、表向きは全宿泊施設が休業したことになっていたが、公用や島の産業に関わる人達の予約は受け付けていたらしい。こうしたコロナウイルス対策の影響で宿屋の予約ができず、2022年の渡航は断念せざるをえなかった。
 しかし、2023年5月になって、厚生労働省はコロナウイルスの位置付けを5類感染症に移行し、外出自粛要請を緩和することになった。この発表により、島内の宿泊施設は宿泊予約の受け付けを再開することになった。こうして、私は11年振りに南大東島に渡航することが可能になった。

 


豊年祭の再開と航空券の入手

2023-09-19 17:01:06 | 旅行

 コロナウイルスが5類感染症に分類移行されたことから、南大東島は島外からの観光客を受け入れることになり、私は11年振りに訪問することなった。しかし、毎年9月に開催されている豊年祭が再開されるかどうか、が気掛かりであった。年に一度のお祭で、島外からの観光客が一番集まる日である。この日以外に南大東島を訪問してもあまり意味が無い。色々な行事が一度に開催されるため、島の風習を観察するには最適なのである。
 さて、村役場では、コロナウイルスが拡散するの防ぐため、2020年から2022年の3年間、豊年祭の開催を中止してきた。ただ、人が集まるような行事は全て中止したが、祭事だけは関係者でヒッソリと実施したらしい。この3年間、南大東村のホームページには「本年の豊年祭は中止しました」という告知が掲載されていた。今回、コロナウイルスが5類に移行され、外出自粛が緩和されたので、村役場は豊年祭を再開するかどうかの判断を迫れた。例年、8月初旬には南大東村のホームページには豊年祭の開催について告知が掲載されていた。今年は何時までたっても掲載されなかった。私は毎日のようにホームページを検索し、お祭に付いての告知を探したが何ら変化は無かった。
 村役場が豊年祭を再開するという決定をしたことが判ったのは、9月4日に観光協会に電話をしたことからであった。観光協会の職員から、9月1日に村役場はお祭を再開すると決定した、と聞き込んだ。だが、南大東村のホームページには、ついに豊年祭の開催についての告知が掲載されることはなかった。お祭を再開することは決定したが、村役場が公にその決定を告知しないというのは何だか姑息な感じがする。しかし、村役場の立場からすれば致し方ない面もある。
 2020年初めから3年半の間、村を挙げてコロナウイルスの感染拡大を防止してきた。幸いなことに、感染者は殆ど発生せず、バンデミックを乗り切ることができた。ここで手綱を緩めて豊年祭を開催することで、島外から多数の観光客が来訪し、コロナウイルスが伝搬したら今までの努力が水の泡となってしまう。祭は再開するが、コロナウイルスの感染者が来島してくれるのは困る。そこで、島の出身者や何らかの縁故関係者だけに口コミでコッソリと知らせ、来島者を極力少なくすることで感染拡大を防ぐことにしたのであった。
 〔航空券の予約の困難さ〕
 観光協会からの情報により、お祭の再開を知った私は、早速現地までの航空券の手配をすることにした。まずは、交通公社(JTB)に出掛けた。前回の時には、那覇と南大東島間の航空券はネットでは予約できず、交通公社でなければ発券できなかったからである。しかし、交通公社のカウンターでは、「現在はネットで予約できます。ここで発券すると手数料が別途2千円かかります」と聞かされた。日本航空では、離島への航空券もネットで予約することが可能になった。11年前とはもうシステムが変更され、進歩していたのだった。
 さて、自宅のパソコンで羽田から南大東島までの航空券の予約をしようとしたのだが、これが大変なことであった。お祭は9月22日と23日である。22日の早朝に羽田を立ち、24日の午後に南大東島を出てその日の夕刻に羽田に戻ることができれば、2泊3日でお祭を楽しめる日程が組める。しかし、全ての便が満席であった。口コミでお祭が再開される情報が親戚や関係者に伝わっていて、全ての座席は予約されていたのだった。ただ、唯一22日の午前9時30分に那覇から出発する臨時便には空席があった。この便を利用するとなれば、前日に那覇で一泊しなければならない。また、帰路の定期便も満席であり、25日の午前9時30分の臨時便しか予約できなかった。25日の半日は予定の無い空白の時間になってしまった。前回の訪問では、往路では早朝に羽田を出発して昼には南大東島に到着し、復路では午後に南大東島を出発して夕刻に羽田に到着するという効率の良い日程であった。今回ではそんな日程は組めなかった。しかし、南大東島の旅行の前後で、50年ぶりに那覇市内を散策する機会を得ることができ、市内の変化を観察することができたので満足はしたいる。
 航空券の予約はお祭の直前の9日に慌ただしく行ったため、特別割引などの特典はなくほぼ定価で購入したようなものだった。購入した費用は下記のようになった。
  羽田 → 那覇    60,157円(往復)
  那覇 → 南大東島  32,580円
  南大東島 → 那覇  25,540円
   合計       118,277円
 最近の格安航空会社を利用すれば、成田・那覇間は1万円強で往復できる時代である。随分高い旅行となってしまった。


南大東島への飛行

2023-09-18 19:04:27 | 旅行

 航空券は入手できたので、羽田から南大東島まで渡航する手順は前回と同じで、変わった点は無かった。離島便のため、那覇飛行場ではボーディングブリッジを利用できず、バスに乗って飛行機まで移動しなければならないのは前回と同じであった。大きく変わったのは搭乗する機体であった。前回は39席のデハビランドのDHC-8-100であった。この機体の座席は特殊な配列となっていて、機首に一番近い一列の座席は飛行方向とは逆に向いていた。つまり、最前列と二列目の乗客はお互いが向き合うことになる。前回、私はこの最前列の座席に座ることになった。離陸する際には加速度により身体が後方に引きずられる。通常であれば、座席が身体全体を柔らかく支えてくれるのだが、逆向きの席ではシートベルトが身体に食い込むような感じを受け、少々不安な気分になった。
 今回搭乗した機体は同じデハビランドであるが少し大型のDHC-8-400に変わっていた。搭乗者数は50名であり、座席も少し幅広になったような気がした。飛行時間は約1時間で、軽食は出なかったが飲料水のサービスはしてくれた。
 機体が南大東島空港に着陸すると、乗員はターミナルビルに向かって歩くことになる。滑走路を歩きながら写真を撮影しているのは観光客だけで、地元の人達はサッサとターミナルビルの休憩所に移動していた。
 なお、2024年8月1日より那覇・南大東島間の飛行ルートが変更となった。それまでは、那覇から南大東島に、南大東島から北大東島、北大東島から那覇に飛行する三角形のルートであった(曜日によって逆回りになる)。このような変則的なルートのコースが一日二便のスケジュールで30年近く運行されていた。8月1日からは、那覇から南大東島に直行便が二便、那覇から北大東島に直行便が一便というスケジュールに変わった。その理由は、南大東島と北大東島の間に搭乗する乗客の数が少なく、三角形のコースを運行するメリットが無くなったことのようである。
 すると、南大東島と北大東島の13キロメートルの間を行き来するとしたらどうするか。飛行機で一度那覇にまで移動し、那覇から相手の島に飛行するのが簡単であるが費用がかかる。安く移動するとなれば、一週間に一度運行される定期船に便乗するか、小型のボートをチャーターするしかないらしい。それが不便か、と言えばそうでもないらしい。元々、両島が特に親密であったわけでもなく、両島にそれぞれ親戚縁者が住んでいたのでもないらしい。まあ、急ぎの用事があるなら那覇を迂回して飛行機を利用して下さい、ということのようだ。

 


ホテルの予約

2023-09-18 14:45:07 | 旅行

 

  航空券の手配は終わったが、次に必要なのは南大東島で泊まるホテルの予約であった。前回泊まった「ホテルよしざと」に電話して予約を試みたところ、全館満室であった。4年振りの豊年祭で、しかも、島への訪問が緩和されたことから、親戚、知人などが久しぶりの親睦のため大挙して予約したらしい。ホテルよしざとは、本館、別館、民宿と複数の建物があり、部屋数も一番多いのであるが、そこが満杯であった。島内にある宿泊施設は限られている。「コテージKIRAKU」というリゾート風戸建てのホテルもあるが、歓楽街から離れていて不便であり、宿泊費も高いのでここは最初から対象外である。前回は泊まらなかったが、在所集落に近いホテルに「プチホテルサザンクロス」がある。電話で予約しようとしたところ、「暫く休業していて、お祭の最中は宿泊を受付ておりません」との回答であった。
 すると、残ったホテルは飛行場に近い「月桃ムーンピーチ」となる。このホテルは、以前は「ピットイン新城」という民宿に近い宿泊施設であったが、経営者の高齢化により2017年に廃業した。その後、民宿の施設は、島外から移住してきた若手の経営者に全て貸し出し、リニューアルして月桃ムーンピーチという名称のホテルを再開した経過がある。前回の旅行で、特産の月桃を利用して制作した日用品を見るためにピットイン新城を訪問したことがあった。このため、このホテルについての土地勘はあった。在所集落とは島の反対側に位置し、歓楽街に出掛けるには車やバイクを使って15分程度がかかる。三食とも外食となれば、その都度ホテルと在所集落を往復しなければならず、不便なことはこの上もない。まして、歓楽街で飲酒してから車やバイクを運転することはできず、夜の楽しみが無くなってしまう。周囲は砂糖きび畑で、「ポツンと一軒屋」の表現にほぼ近い環境である。
 環境は把握していたが、念のために電話して宿泊費、条件などを問い合わせてみた。宿泊費は格安であったが、食事の面倒は見られないので自炊か外食して欲しいとのことであった。交通手段が無いので在所集落で飲酒ができない、と質問すると「午後11時までなら無料で送迎いたします」と説明してくれた。しかし、不便なことは間違いないので保留することにした。なお、この「月桃ムーンピーチ」の設備については後の章で詳しく説明します。
 2、3日後、もしかしたら宿泊できる可能性があるのではないかと期待して、再度「サザンクロス」に電話してみた。電話口からは、「本来は休業するはずでしたが、仕事のため来島する馴染み客から宿泊を依頼されたので、営業することにしました。ホテルを開くと宿泊者が一名でも二名でも同じなので、予約を承ります」という有り難い返事を貰った。これでやっと泊まる場所を確保することができた。
 私は3日間サザンクロスにお世話になったが、その間ホテルに同宿していたのは、沖縄本島から来島した60歳代の電気工事の職人が一人だけであった。
 元々この「サザンクロス」は地元の土木会社により運営されていたもので、素泊まり専門のホテルであった。前回、ホテルの反対側にはヤードがあり、建設機械やトラックが並んでいたのを見たことがある。ホテルは従業員や短期の季節労働者のための宿舎として運営していたのではないか、と思われた。ホテルに空き室があれば観光客にも部屋を提供していたのでしょうか。親会社の土木会社は2023年7月に閉鎖し、現在元社長は砂糖きびを栽培する農業に転業したとのことです。このため、ホテルは個人名義に切り替えて運営しているのではないかと推定された。
 島内にはタクシー、バスなどの公共交通機関が無いため、到着する飛行機の時間に合わせて飛行場まで社長婦人がお迎えしてくれました。