新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

美理容院

2023-08-31 16:12:55 | 旅行

  前回の旅行の際、いくら捜しても見つからなかったのが理髪店であった。人が生活していれば髪の手入れは必要であり、どんな田舎町でも理髪店がある。だが、前回の時に在所集落をくまなく歩き回ったが、ついに見つけられなかった。
 今回は地元の人に尋ねたので、理髪店は簡単に見つかった。在所集落のホテルよしざとの前にある坂を登り、ケンちゃんストアの斜め前にあった。一段目の写真がその理髪店である。何の標識もない普通の民家であった。以前は看板やサインが出ていたが、台風で吹き飛ばされたのでそのままにしている、とのことであった。現在は閉店状態で、昔からの顔なじみの客に頼まれた時だけ開店しているらしい。閉店になった理由は、店主が高齢になったことであるが、一番の理由は顧客が減少したことらしい。顧客が減ったのは、島内の若者は那覇市内の理髪店で整髪することが多いためである。若者が仕事で那覇に出張したついでに那覇の理髪店で整髪してくるのだそうです。また、最近では自宅で理髪できる散髪キットが通信販売されており、それを使って自分自身で散髪する男性も多いらしい。この理髪店の娘さんが現在理髪師の学校に通っていて、資格を取得したら今の店を継がせるつもりのことであった。
 この他に、島には美容院が一軒存在しているが、この美容院も理髪店と同様に開店休業の状態で、古くからの客から要請があった時だけ営業しているらしい。女性としては、何かの用事で那覇に出掛けた時、地元より設備の整った那覇の美容院でパーマをかけたいという心理になるのではなかろうか。
 2020年の統計によれば、全国に理容師は15万2千人、美容師は38万7千人存在している(理美容ニュース、HBM社発刊)。すると、理容師1名当たり401人の人口が、美容師1名当たり167人の人口が存在すれば理美容院の経営が成り立つことになる。南大東島の2020年における人口は、男が693人、女が508人となっている。すると、島では理容師が1.5名、美容師が3名生計を立てることができるマーケットが存在することになるが、そうなっていないのが実情である。
 さて、過去の統計から島で開業していた美理容院について考察してみる。1959年の「南大東村勢要覧」によれば、当時は「あづま理容館」という理髪店と「きよこ美容院」という美容院があった。1960年の島の人口は男が1950人、女が1563人であったことから、経営するには十分な顧客がいたのであろう。店舗の数が少ないが、いずれの美理容院も複数の美理容師を雇用していたのではないかと推測される。
 その10年後の1970年には琉球政府により「事業所基本調査」が実施され、南大東島にあった事業所が調査された。この調査で、在所集落には「喜友名理容店」「きよこ美容院」「浜里理容館」「アイデア理容店」が営業していた。理髪店が3店、美容院が1店ということになる。この年の人口は男が1391人、女が1200人と10年前より減少しているが、それでも4軒の美理容院の経営が成り立っていた。理容院が増えているのは「あづま理容館」の従業員が独立開業したからであろう。
 このように50年前の島には複数の美理容院が存在し、それぞれ経営が成り立っていたが、現在では成り立たなくなった。その根本原因は、航空機の利用が容易になったからであろう。1960年代、70年代では、島から那覇に移動するには船便が大半であった。航空便あったが、運賃が高額であり、余り利用されていなかったようだ。1975年の航空便の乗降客数は年間1万3千人程度で、2021年の航空機の乗降客数は4万人強に増えている。島の人口が減少してるのに比べ、乗降客数が増えているのであるから航空便の利用率は極めて高くなったと判断できる。こうして那覇に出掛けるのが手軽になったことから、美理容院を島外で利用したくなる気持ちが判るであろう。
 二段目の写真は理髪店の隣にあるあづま屋で、後ろの板壁を除いて三方が開放され、土間には古びた椅子が並べられていた。ここでは近所の老人が集まっておしゃべりを楽しんでいた。元々は理髪店の待合室であったが、現在ではお年寄りのたまり場になってしまた。都会ではこのような遊休地は見当たらず、お年寄りが気楽に集まる場所は無い。このような光景は、土地が空いている地方郡部でなければ見かけられないものである。

 


葬祭場・火葬場

2023-08-30 14:00:52 | 旅行

  前回の旅行では無かった新しい公共施設は、葬祭場・火葬場である。場所は県道183号線から在所集落に向かう村道を入ってすぐの、瓢箪池の反対側にある。会館の名称は「うふあがり安らぎ会館 一法山」という名称で、葬祭場と火葬場が一体となった施設となっていました。元々、この場所には「一法山大東寺」という浄土宗の寺院があった。島の開拓者の八丈島出身者に浄土宗の信者が多かったことから1919年に開山したが、1945年の空襲で焼失し、その後は再建されることはなかった。前回の旅行では、焼け残った石柱と納骨堂があるのを確認している。
 戦前はこの大東寺で葬儀や法事が執り行われていたが、戦後は自宅で葬儀を行っていた(集落の集会場を利用することもあったらしい)。これでは不便であることから、葬祭場と火葬場を大東寺の跡地に設置したのだった。竣工したのは2022年10月で、竣工してから間もないため建物は綺麗であった。二段目の写真は建物を正面から見たもので、向かって左側が葬祭場で右側が火葬場である。二つの建物の間には新しい霊柩車が駐車してあった。四段目の写真は納骨堂で、焼けた大東寺ではここだけが鉄筋コンクリートであったので、空襲でも焼け残ったようだ。なお、火葬場は既に西港近くの墓地に設置されていたが、老朽化のため、葬祭場の新設に合わせで建て替えられたようである。
 さて、近代的な火葬場が新しく設置されたが、その利用機会は少ないようである。人口が1千2百人弱であり、死亡者が少ないことが理由であるが、その外に島独特の理由がある。島民が亡くなる場所が南大東島ではなく、那覇市内の方が多いからである。南大東村の高齢者に介護や治療が必要となると村の医療施設では対処できず、那覇にある介護施設、専門病院に移送される。このため、移送された高齢者は那覇にある護施施設、病院で亡くなることなる。すると、遺族は火葬を那覇市内で執り行い、南大東島では行わない。このことが新設された島の火葬場があまり利用されていないことの理由である。
 ただし、島内で亡くなられた場合には、島にある火葬場が利用されることになる。殺人事件などで検死する必要があれば別であるが、遺体を那覇まで搬送する必要性が無いからである。島内で人が亡くなられるのは、内蔵疾患による突然死か事故死のいずれかではなかろうか。
 火葬場は余り利用されていないようだが、葬祭場は盛んに利用されているようであった。その理由は、遺族は那覇で親族だけの家族葬などの小さな告別式を執り行い、後日、島の葬祭場で七七忌などのお別れ会を開催するからである。地元で七七忌を行えば、遠方の那覇で開催された告別式に参列できなかった知人も参加するのが容易となり、参列者も多くなるであろう。
 島民の死亡が島外で多いことは、村役場で発表した村勢要覧と民間企業がネット上に開設した「沖縄お悔やみ情報局」の情報を比較することで簡単に理解できる。「お悔やみ情報局」というのは、一種のSNSサービスであり、葬儀を行う遺族が地域を指定して物故者名、葬儀日程などを投稿すると、ネット上で一覧として掲載されるシステムである。このSNSサービスで、地域を「南大東村」と指定すると、現在、過去の告別式、七七忌、お別れ会の案内が検索できる。民間のSNSサービスであることから、遺族の全員がこのような告知を投稿する義務はない。だが、南大東島という狭い社会であっては、訃報を告知しない島民はいないであろう。知人が亡くなった事実は一瞬の内に島内で噂になり、それを遺族がSNSサービスで告知しないと不審に思われるからである。このため、島民が亡くなるとその情報は「お悔やみ情報局」に必ず投稿されていると考えて間違いないであろう。
 村勢要覧で発表された死亡者数と沖縄お悔やみ情報局に掲載された訃報の人数を比較したのが下記の表である。
           村勢要覧      訃報情報
    2018年   4名        5名
    2019年   3名        3名
    2020年   3名        2名
    2021年   1名        5名
    2022年   1名        5名
 実際に亡くなった人数と村勢要覧で発表された死亡者数に差が出るのは、住民票の関係ではないかと推測される。那覇で長期にわたって介護や治療を受けている高齢者は、住民票を那覇市に移動させている。すると、死亡時は那覇に居住していたことになり、南大東村の統計には集計されない。これが村勢要覧で死亡者数が少なくなっている理由であろう。
 さて、島で人が亡くなり、告別式が行われることになると、読経をする僧侶が必要になる。現在、島内には寺院が無いため、常駐している僧侶はいない。以前は南大東中学校の音楽の教員で西浜先生という人がお経を唱えるのが上手かったため、葬儀の際には西浜先生が呼ばれて読経していたらしい。当該の教員は転勤で那覇に戻ってしまったので、今は読経してくれる人材はいないようだ。このため、島で告別式を行う場合には本島から僧侶を呼んで読経してもらうらしい。僧侶を呼ばない場合には、役場から借り出したCDによりお経を再生しているとのことであった。

 


軍旗奉焼之地・石碑

2023-08-29 19:35:45 | 旅行

  今回の旅行での一番の収穫は、歩兵第36聨隊の軍旗奉焼之地・石碑を見つけたことである。実は、私が前回に南大東島に渡航しようと考えたのは、旧陸軍の歩兵第36聨隊と関係していた。20年以上前のこと、私は歩兵第36聨隊第1大隊長の原寿満夫中佐(陸士51期)から南大東島に駐屯していた体験談を聞く機会があった。沖縄本島や宮古島、石垣島などでの太平洋戦争の戦闘については各種の資料が単行本になって発刊され、テレビの特集番組でも取り上げられている。しかし、南大東島での戦闘や戦時体験について記録した資料は皆無であり、テレビ番組で放映されたこともなかった。原中佐から聞いた体験は新鮮で面白いものであった。この聞き取りから、一度は絶海の孤島を訪れてみたいと感じていたのだった。なお、NHKでは2009年11月4日放送の「戦跡と証言、戦争証言アーカイブス」において旧南大東空港を取り上げている。内容は不明であるが、多分飛行場建設の経過ではないかと推測される。
 太平洋戦争の初期には大東島諸島は重要な拠点とは見なされず、海軍の飛行場が敷設され、少人数の海軍関係者が駐屯していた程度であった。しかし、米軍がガダルカナル島、ニューギニア、フィリピンを順に制圧し、南から北に順次転進してくるようになると、南大東島も次の攻撃目標になると予想された。このため、1944年3月になって5個中隊と少数の歩兵砲隊からなる第85兵站警備隊(球部隊)を編成し、大東島諸島に派遣することになった。その後、戦局は更に悪化したため、1944年7月になると満州チチハルに駐屯していた第28師団隷下の歩兵第36聨隊を沖縄を守備している第32軍の隷下に配置し、大東島諸島に出動させることになった。第85兵站警備隊は、後から進駐してきた歩兵第36聨隊に吸収された。歩兵第36聨隊の本隊は福井県鯖江市にあり、鯖江聨隊と呼ばれていたが、一般には豊部隊とも呼ばれていた。
 原中佐はチチハルから沖縄本島に到着し、7月11日に第32軍司令部に出頭し、渡辺軍司令官より南大東島へ進駐する辞令を受領した。この時、辞令を渡す渡辺軍司令官は涙を流していた、と私は原中佐から聞いた。米軍は沖縄本島より先に南大東島を攻撃すると想定され、小さな島であることから全滅することが確実であった。南大東島に赴任することは玉砕することであった。原中佐に辞令を渡す渡辺司令官の涙は、原中佐との最後の別れを意味していた。しかし、実際には運命は逆転したのだった。
 沖縄本島を守備していた日本兵は約11万人で、戦死者は約9万4千人であり、損耗率は85%にも達していた。これに対し、南大東島での兵隊の損耗率は極めて低いものであった。ただ、南大東島での戦死者数については正確な記録がない。南大東村誌を通読しても将兵の人数、戦死者数の記載が無い。海軍に付いては村誌の410頁に比較的明瞭に記載してある。それによると、海軍は約1千1百名が駐屯し、その内の25名が戦死した、という。
 陸軍については、村誌の450頁に「守備将兵約7千人」とあるだけで駐屯していた将兵の総数は明瞭ではなく、戦死者の人数も明確ではない。西港に建立されている忠霊塔には戦死者の氏名が刻まれた墓碑銘がある。墓碑銘には戦没した112名の氏名が刻まれている。しかし、この戦没者名は北大東島、ラサ島で駐屯していた歩兵第36聨隊の兵士も含まれていることから、南大東島での戦死者数はこの人数よりも少ないと考えられる(村誌の454頁には、「72名の合同慰霊祭あり」とあることから、南大東島での陸軍の戦死者は72名かもしれない)。墓碑銘の戦死者112人を村誌の7千人で割った大雑把な損耗率は1.6%であり、沖縄本島の戦闘に比べると損害は極めて軽微であった。将兵は殆ど無傷で生き残った。
 敗戦は1945年8月16日に第28師団からの電報で通知された。同時に軍旗を奉焼する旨の指示も通知された。米軍上陸前に奉焼することになり、8月31日に司令部の洞窟があった近くで焼却することになった。軍旗は天皇より親授されたもので、旧陸軍では神聖なものとして扱われていた。敗戦により天皇の分身である軍旗を敵軍に渡すことはできないものであった。特に、歩兵第36聨隊の軍旗は1898年に拝受したもので、日露戦争にも携行したという由緒のあるもので、焼却するには忍びないものがあった。軍旗を焼却した後の灰は白木の箱に収め、太平洋に沈めたという。
 戦後、復員した歩兵第36聨隊の隊員は戦友会を結成し、毎年靖国神社で慰霊祭を行っていた。1972年に沖縄が日本に復帰してからは、戦友会の有志が慰霊のため定期的に島を訪問することになった。そして、1980年6月10日には、司令部の洞窟があった近くに「軍旗奉焼之地」の石碑を建立することになった。その後は戦友会の会員が来島の度に石碑周辺を整備していたが、会員が高齢化するようになったことから整備の継続が困難となった。このため、戦後60年となった2005年頃、戦友会から役場に「石碑の管理をお願いしたい」と依頼があり、幾ばくかの整備費を置いてきたらしい。暫くの間は雑草の撤去や掃除など行われていたが、いつの間にか忘れられてしまった。このため、地元の有志が年に3回ほど下草の刈り取りと林の中の道を整備してくれていたので、石碑の倒壊は免れた。今後はどのように保存、維持していくのかが問題である。
 一段目、二段目の写真は林の中に建立された軍旗奉焼之地の石碑であり、鬱蒼とした防風林の中にポツンと立っていた。三段目の写真は石碑のある防風林を砂糖きび畑から眺めたものである。

 


島のギャンブル

2023-08-28 12:42:16 | 旅行

 島にはギャンブルとしてのスロット店があります。前回の旅行のとき、建物には「ソロ」という喫茶店と「パシフィック」というスロット店の看板が掲げられていましたが、現在どちらの看板も無くなっていました。喫茶店は前回の時には既に閉店していましたが、スロット店は相変わらず営業を続けていました。1970年の地図を見ると、この場所にはパチンコ店があったようで、当時の経営者が経営を続けているのかもしれません。
 店内には30台くらいのスロット機が据え付けられていて、2人のお客さんが遊んでいました。私はスロット機については詳しくないのですが、ドラム式の一世代前の機種ではないかと思われました。店主は、「ゲームセンター感覚で遊んで下さい」と申されました。スロット機の当たりの設定を多くすると店側が赤字になり、設定を絞って当たりの回数を減らすと遊戯客が来店しなくなります。島のギャンブル人口は少ないため、スロット店としては遊戯客が細く長く来店して欲しいのです。このため、顧客には大当たりもせず、大損もしないようにスロット機を微妙に調整しているのではないかと推定されます。人口の少ない島でスロット店を運営するのも大変なことです。
 遊戯客がスロット機で当たりを引いて儲けた場合、メタルを景品に交換するのですが、この店の景品台には少しばかりの煙草が置いてあるだけでした。煙草はお飾りのようなもので、メダルは現金と交換するのでしょう。しかし、風俗営業法により、店内ではメダルを現金に交換できません。このため、店内でメダルを一旦景品に交換し、店外の交換業者に景品を買い取ってもらうことになります。いわゆる、三点方式と呼ばれる景品の流通方法で、この方法は全国のパチンコ店、スロット店で共通するものです。前回の旅行では、どこで景品を交換できるか不明でしたが、今回はその交換所を見つけました。スロット店の建物の奥に小屋が設置されており、スロット店と小屋とは渡り廊下でつながっていました。小屋に入ると、壁には景品を投入する引き出しがあります。ここに景品を入れると、壁の向こうでは現金を引き出しに入れて交換してくれます。壁にあるボタンを押すと、隣の建物から店主が渡り廊下を伝って小屋まで来てくれます。スロット店の店主が景品を現金に交換するので、法律で定める三点方式とは少し違うような気がするのですが。これでも、風俗営業法の許可を取得しているのですから問題はなさそうです。

 


島のタクシー

2023-08-27 18:56:20 | 日記

 南大東島には鉄道、バス、タクシーなどの公共交通機関は一切無かった。戦前には東洋製糖により1917年から物資輸送用の軽便鉄道が敷設され、島内の全域に鉄道網が張りめぐらされた。蒸気機関車が牽引する貨物車には客車が連結され、客車には島民が便乗していたらしい。この客車が島内の公共交通機関であった。戦後になると砂糖きびの搬送にはトラックが使われるようになり、軽便鉄道は1984年(1983年9月の説もあり)に廃止された。当時使われていた蒸気機関車、ディーゼル機関車などは、現在ふるさと文化センターに保存されている。
 軽便鉄道による島民の便乗が何時まで行われていたのかは、資料が無いため不明である。戦後の比較的早い時期には便乗は出来なくなっていたと思われる。それは村道の整備が進み、モータリゼーションの発展で軽四輪やオートバイの自家所有が増えてきたからと思われる。また、1963年になると島には光タクシーと丸栄タクシーの2社が設立され、それぞれ3台のタクシーを運用するようになり、軽便鉄道を利用する必要が無くなったことも理由に挙げられる。この2つのタクシー会社が何時まで続いていたのかも、資料が無いため不明である。島民の自家用車の保有が多くなり、一家に一台が保有されるようになるとタクシーを利用することが無くなり、タクシー会社は自然消滅したのであろう。1970年の在所集落における事業所地図には両タクシー会社は欠落していることから、比較的早く解散したのではなかろうか。1970年の在所集落には、奥山モータース、宮城モータース、平安座モータースの事業所名が見られるが、これらは自動車修理業である。島内では急激なモータリゼーションが始まり、自家用車の普及率が高まったのであろう。
 このような経過から、島内にはバス、タクシーなどの公共交通機関は数十年の間無かったが、最近になってタクシー業者が出現した。その名称は「ボロジノTAXI」である。ただし、タクシーと言ってもメーターのあるものではなく、団体旅行のためのマイクロバスである。現在、島内には緑ナンバーのタクシーは2台あり、何れも大東観光商事が所有するもので、ツアー客の送迎に使われている。一段目の写真でタクシーの前に立つ女性は、大東観光商事の社長で、大型二種免許を取得され、夫婦で運転されていた。