新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

家屋の錘

2023-09-05 12:45:24 | 旅行

 島の集落を歩いていると不思議な物体が転がっていることに気がついた。コンクリートでできた1メートル以上ある四角い固まりで、一つの面には鉄筋がU字形に飛び出している。重さは1トン程度あると推定される。このコンクリートの固まりは、家屋が暴風で吹き飛ばされないように押さえている「錘」である。二段目の写真にあるように、錘を家屋の外壁近くに置き、錘の鉄筋と家屋の軒をワイヤーかチェーンで結び付けてあった。
 南大東島は台風の通り道であり、毎年夏期になると暴風が吹き荒れる。過去には最大瞬間風速が65メートルになったこともあり、軽い家屋なら吹き飛ばされてしまう。そのような被害を避けるため、このコンクリート製の錘で家屋を引っ張っているのである。この錘を使っている家屋は、内地と同じ規格の木造住宅に限られているようである。最近に建築されているブロック積みの家屋では、このような錘が利用されている事例は見かけなかった。ブロックの壁が重いため暴風でも飛ばされないからであろう。
 三段目の写真は納屋の梁に錘を結び付けた例で、四段目の写真は車庫の柱に錘を結んだ例である。
 暴風の被害を防ぐための、このような錘が何時から用いられてきたのかは不明である。戦前の家屋の写真を見ると、ほとんどがシロッパ(ビロウの葉)で屋根を葺いていて、家屋の回りは軒の高さまで風避けの石垣が積まれている。石垣で暴風を止め、家屋が吹き上がるのを防いでいたらしい。現在でも、石垣島、西表島などで見かけられる古民家とほぼ同じ構造であった。このため、戦前の家屋にはこのような錘は利用していなかったようである。
 暴風から家屋を保護するための錘が使用されている民家は、1970年代に内地の規格で建築されたものだけのようである。内地で一般に販売されている建築資材を使用し、内地の設計基準で建築された家屋に限られている。当時はこちらの資材の方が安価であったのではなかろうか。内地の設計基準では、暴風による被害を考慮していない。このため、家屋を建築してから、被害防止のために後から錘を付けたのではないかと推測される。


家屋の移築

2023-09-04 20:01:01 | 旅行

  前回の旅行で、池之沢集落に典型的な沖縄の民家を見つけた。屋根の大きい独特のデザインで、昔は沢山あったであろうがこの時の旅行ではこの一軒しかみつけられなかった。空家であり、長く使われていないような雰囲気であった。
  今回、同じ場所に出掛けてみると、古民家は元の場所から奥まった位置に移築されていた。外観はほぼ同じであるが、外柱で開放されていた周囲は板壁で囲われていた。古民家のあった元の場所は、沖縄県道182号線に変わっていた。道路の拡張により、後ろの丘に移築されたのであった。
 島で住宅を建築するには全ての資材を本島から運んでこなければならず、新築すると極めて高くなる。このため、古民家を解体し、使える資材はそのまま利用して再建築したのであった。リサイクルできるものは何でも活用し、どうしてもリサイクルできないものは産業廃棄物として本島まで搬送しているのである。


島の廃屋

2023-09-03 15:05:23 | 旅行

  今、国内で問題となっているのは地方の衰退である。地場の産業が減少し、地方での仕事が無くなると若者たちは都会に転出してしまう。地方の在住者が都会に移転すると、その地域の人口が減少して活気が無くなる。すると、居住していた家屋は空家となり、地方は空家だらけとなってしまう。家屋に人が住まなくなると痛みが早くなり、廃墟化していく。こうして、建物が倒壊したり、火災になるなどの事故の原因となる。これが今、国内で社会問題となっている空家問題である。
  全国の地方と同じように、南大東島でも人口は減少している。島の人口は1989年には1491人であったが、2022年3月末には1190人に減少している。33年間で約20%の減少である。南大東島の人口は減少しているが、他県のような限界集落とか消滅集落というような大きな減少率ではない。それは、地元に砂糖きび栽培という固有の産業があり、雇用が確保されているからだ。
 また、世帯数からすると、1989年には538世帯であったが、2022年3月末は662世帯と増加している。人口が減少しているのに世帯数が増加しているのは、単身の世帯が増加したためである。
 島の人口が減少すると、当然のように住んでいた家屋は空家となる。全てを把握した訳ではないが、島のあちこちには無人となった廃屋が見かけられた。しかし、廃屋はそれほど目立つほどの数はなく、よく注意して観察しないと居住住宅と区別できないものであった。それだけ島の廃屋の戸数は少なく、ほとんどの住宅は実際に居住されているからである。
 上段の写真はブロック積みの住宅で、下段の写真は簡素な木造の住宅である。何れも在所集落のはずれでみかけた。在所集落の中心部にも空家らしき住居を見かけたが、家主は那覇などに居住していて、時々戻ってくる時に宿泊しているのかどうかは不明。
 いずれの廃屋でも、庭や建物回りは雑草が刈り取られてきれいに整備されていた。熱帯地域なので、ほっておくと蔦や雑草が生い茂る。近所の人達が自発的に雑草を刈り取っているのか、家主が時々掃除しているのであろう。


島の道路事情・道路標識

2023-09-02 15:22:21 | 旅行

 島の周囲は約20キロメートルであり、車で一周するには1時間もかからない。小さな島なのだが公共交通機関が無いため、各家庭の移動は自家用車に頼らなければならない。そのためか、道路網は発達していて、舗装率は極めて高い。幹線道路は、空港と在所集落を結ぶ沖縄県道183号線と、在所集落から島の西側を巡って北港までを結ぶ沖縄県道182号線である。県道の182号線と183号線とでU字形を描くように施設されていて、県道は島を一周していない。県道が島を一周していないのは、どうも、その設立の事情によるようである。沖縄本島からの船舶が接岸するのは北港、西港が多いため、在所集落との貨物の物流に便利だと県道182号線が策定されたようである。県道183号線は、空港を利用する人達は在所集落に集中していると考えて策定されたのであろう。
 2つの県道を除いて、島にある他の道路は全て村道である。舗装状況は良好で、その道幅は比較的広く設計されている。これは島独特の事情のようである。島の産業である砂糖の製造では、農家が栽培した砂糖きびを島唯一の製糖会社である大東糖業に運び込まなければならない。その搬送には大型トラックを利用するため、村道の道幅が広くなったのではないかと思われた。
 県道には案内標識が設置されていた。一段目の写真がそれである。この標識は交通量の少ない島にとって馬鹿でかいのである。沖縄本島の規格で製造された標識をそのまま島にまで持ち込んだからであろう。この大きさの案内標識はここだけのようであった。二段目の写真は村道脇の補助標識で、星野洞の観光案内のためのものである。
 実を言うと、私は二枚の道路標識を見つけたのですが、島内の道路脇には施設の名称や地名を表示した標識を殆ど見かけることはありませんでした。標識が少ない理由は、島の人達にとって標識が無くとも不便ではないからでしょう。島の人達は昔から住んでいるので、どこに何があるかは判っているのです。標識を立てても何の役にも立ちません。初めて島を訪れる観光客にとって標識は必要でしょうか、それほど多くの観光客を期待できないので、コストを考えると設置するまでのことはないからです。
 本州の道路では、速度規制や通行禁止などの標識が至る所に設置されています。だが、島内では、規制標識や警戒標識を見かけることはあまりありません。島の人達の運転は慎重で、交通ルールを守るのが当たり前の意識があるからでしょう。もっとも、島の道路は短いため、時速100キロなんてスピートは出せず、交通違反もありません。
 さて、バイクで島内を走行していると、現在どこの位置にいるのか判らなくことがしばしばありました。これは前述したように、案内標識が整備されていないので、道順を間違えるためです。一番の理由は、どこに行っても砂糖きび畑が続き、周りの風景が変わらないことです。三段目の写真は砂糖きび畑の間にある村道を写したもので、何処に行ってもこんな風景が続いています。高い山とか高い鉄塔などの目印があれば方向感覚が掴めるのですが、島にはそんな目印はありません。このため、目的地を通過したりして道に迷うことはしばしばありました。
 さらに悪いことに、島の主要道路は丸く環状になっていて、しかも、環状になった道路は外側と内側にそれぞれ二重円のように配置されている。このため、砂糖きび畑の同じ風景がどこまでも続き、環状の道路には終わりがないため、これが道に迷う要因となっているようです。そもそも、南大東島の道路は、大正時代に東洋糖業が敷設し、その後大日本糖業が線路を拡張した軽便鉄道の跡に施設されたものです。道路が二重になった環状に敷設されているのは、軽便鉄道の名残なのです。
 砂糖きび畑が続く道路をバイクで走行していると、私はカリブの島々を思い出すことになった。30年ほどの昔、私はカリブ海にある島々を巡る旅を続けていた。キューバ、ジャマイカ、トリニダード・トバコなどの島々である。それらの島々では、南大東島と同じように砂糖きび栽培が主要な産業となっていた。旅行してきたカリブの島では、延々と続く砂糖きび畑を車で走行した経験がある。今回の南大東島の旅行では、その時の記憶が明瞭に思い起こされた。身体に吹きつける熱い風、砂糖きび畑から流れるザワザワという音、砂糖きび特有の匂いなどが昔の体験を思い起こしてきた。バイクを運転しながら、何とも言えない感慨が湧いてきた。

 


美理容院

2023-08-31 16:12:55 | 旅行

  前回の旅行の際、いくら捜しても見つからなかったのが理髪店であった。人が生活していれば髪の手入れは必要であり、どんな田舎町でも理髪店がある。だが、前回の時に在所集落をくまなく歩き回ったが、ついに見つけられなかった。
 今回は地元の人に尋ねたので、理髪店は簡単に見つかった。在所集落のホテルよしざとの前にある坂を登り、ケンちゃんストアの斜め前にあった。一段目の写真がその理髪店である。何の標識もない普通の民家であった。以前は看板やサインが出ていたが、台風で吹き飛ばされたのでそのままにしている、とのことであった。現在は閉店状態で、昔からの顔なじみの客に頼まれた時だけ開店しているらしい。閉店になった理由は、店主が高齢になったことであるが、一番の理由は顧客が減少したことらしい。顧客が減ったのは、島内の若者は那覇市内の理髪店で整髪することが多いためである。若者が仕事で那覇に出張したついでに那覇の理髪店で整髪してくるのだそうです。また、最近では自宅で理髪できる散髪キットが通信販売されており、それを使って自分自身で散髪する男性も多いらしい。この理髪店の娘さんが現在理髪師の学校に通っていて、資格を取得したら今の店を継がせるつもりのことであった。
 この他に、島には美容院が一軒存在しているが、この美容院も理髪店と同様に開店休業の状態で、古くからの客から要請があった時だけ営業しているらしい。女性としては、何かの用事で那覇に出掛けた時、地元より設備の整った那覇の美容院でパーマをかけたいという心理になるのではなかろうか。
 2020年の統計によれば、全国に理容師は15万2千人、美容師は38万7千人存在している(理美容ニュース、HBM社発刊)。すると、理容師1名当たり401人の人口が、美容師1名当たり167人の人口が存在すれば理美容院の経営が成り立つことになる。南大東島の2020年における人口は、男が693人、女が508人となっている。すると、島では理容師が1.5名、美容師が3名生計を立てることができるマーケットが存在することになるが、そうなっていないのが実情である。
 さて、過去の統計から島で開業していた美理容院について考察してみる。1959年の「南大東村勢要覧」によれば、当時は「あづま理容館」という理髪店と「きよこ美容院」という美容院があった。1960年の島の人口は男が1950人、女が1563人であったことから、経営するには十分な顧客がいたのであろう。店舗の数が少ないが、いずれの美理容院も複数の美理容師を雇用していたのではないかと推測される。
 その10年後の1970年には琉球政府により「事業所基本調査」が実施され、南大東島にあった事業所が調査された。この調査で、在所集落には「喜友名理容店」「きよこ美容院」「浜里理容館」「アイデア理容店」が営業していた。理髪店が3店、美容院が1店ということになる。この年の人口は男が1391人、女が1200人と10年前より減少しているが、それでも4軒の美理容院の経営が成り立っていた。理容院が増えているのは「あづま理容館」の従業員が独立開業したからであろう。
 このように50年前の島には複数の美理容院が存在し、それぞれ経営が成り立っていたが、現在では成り立たなくなった。その根本原因は、航空機の利用が容易になったからであろう。1960年代、70年代では、島から那覇に移動するには船便が大半であった。航空便あったが、運賃が高額であり、余り利用されていなかったようだ。1975年の航空便の乗降客数は年間1万3千人程度で、2021年の航空機の乗降客数は4万人強に増えている。島の人口が減少してるのに比べ、乗降客数が増えているのであるから航空便の利用率は極めて高くなったと判断できる。こうして那覇に出掛けるのが手軽になったことから、美理容院を島外で利用したくなる気持ちが判るであろう。
 二段目の写真は理髪店の隣にあるあづま屋で、後ろの板壁を除いて三方が開放され、土間には古びた椅子が並べられていた。ここでは近所の老人が集まっておしゃべりを楽しんでいた。元々は理髪店の待合室であったが、現在ではお年寄りのたまり場になってしまた。都会ではこのような遊休地は見当たらず、お年寄りが気楽に集まる場所は無い。このような光景は、土地が空いている地方郡部でなければ見かけられないものである。